第1話 雨のない国の少女
世界に雨は降らなかった。
空はいつも透き通った青で、雲は流れず、太陽は静かに輝く。
しかし、涙は許されていた――と、王国の法は言う。
ただし、涙を流した者には死が待つ。
その掟を、十五歳の少女は知っていた。
そして、自分の胸に渦巻く感情を、まだ名前すら付けられないまま抑えるしかなかった。
シエル=フレイア。王家の盾と呼ばれる少女。
彼女の任務は、王家の平和を守ること。感情は武器ではなく、敵になる。だから、感情は消す。
消すのだ。
「……シエル」
柔らかな声に、少女は振り返る。
第一王子、リィド。幼馴染であり、未来の夫――政略婚約者でもある。
笑っていた。いや、笑っているように見えただけかもしれない。
シエルは笑顔を返さない。返せるはずがない。
「今日の儀式、緊張してる?」
声の震えを、少女は見抜く。
自分の心臓の音よりも、ずっと大きく響くその不安。
シエルは答えなかった。ただ、首を軽く傾けるだけ。
「……そうか」
リィドは少し黙って、空を見上げた。
青。光。無情なほどに平穏な空。
その下で、少女の胸はわずかにざわつく。
――こんなにも、彼を守りたいと思うのに。
――こんなにも、彼の幸せだけを願うのに。
「……私は、あなたの幸せだけを、願う」
口に出してしまえば、涙がこぼれるかもしれない。
だから、心の中でそっと呟いた。声にしなくても、想いは届く。
届くはずだった。
儀式の鐘が、城中に響く。
十五の少女と少年――未来の王と盾――は、国の眼差しを背に、壇上に立つ。
周囲の視線は熱い。祝福か、疑念か、それとも興味本位か。
シエルには、区別がつかない。
「シエル、手を取ってくれるか?」
リィドが差し出す手は、優しい。けれど、重い。
少女はゆっくりと手を伸ばし、握った。
感触は冷たく、硬く、それでも温もりがあった。
その瞬間、胸の奥で小さな震えが走る。
名前もつけられない感情が、少女を引き裂こうとする。
涙を流せば死ぬ。だから、必死に抑える。
「……大丈夫」
言葉は震えなかった。心の声が、震えていただけだ。
鐘が止み、儀式は終わる。
拍手も祝福も、少女には遠い世界の音。
ただひとつ、確かなものがあった。
――私の任務は、彼の幸せを守ること。
――それだけ。
空に雨は降らない。
けれど、少女の胸の奥には、小さな涙が降り積もっていた。