悪役令嬢は手作りお菓子をふるまう
「いやああああああああ!?」
私、ナタリー・ピエールは、転んだ拍子に思い出してしまった。
大下みくりという前世の記憶を。
「お嬢様!?」
転んだ私に近づこうともしない使用人たちのことなど放っておき、私は庭に倒れた体を起こして、すぐさま近くの窓へと走った。
「……やっぱり!」
窓に反射する私の顔は、額から血を流している。
けど、そんなことはどうでもいい。
問題なのは、この顔だ。
悪役令嬢ナタリー・ピエール。
前世で私が遊んでいた乙女ゲームに出てくる悪役令嬢、そのままだ。
まだ十四歳というあどけなさを残してはいるが、窓に映るつり目に三白眼の瞳が、睨みつけるつもりもないのに私を睨みつけている。
どうやら私は、乙女ゲームの世界に転生してしまったらしい。
そうであれば、私の体を起こそうともしなかった使用人たちの態度にも頷ける。
私が振り返れば、使用人たちは心配そうな表情を作りながらも、決して私と目を合わせない。
当然だ。
ここで私と目が合えば、悪役令嬢ナタリー・ピエール――いえ、今までの私の性格上、確実に私が転んだ原因を押し付けられて、罵声・暴力コースまっしぐらだ。
最悪の場合、使用人という職を失う可能性さえある。
私が使用人でも、ナタリーと目を合わせたりなんかしない。
とはいえ、このまま誰も手当をしてくれないのは私が困る。
乙女ゲームの世界は、前世の世界と比べて医療水準が低い。
かすり傷一つとて、甘く見れない。
私は前世の乙女ゲームの知識を思い返し、最も御しやすそうな使用人の名前を叫んだ。
「フラン! フランソワーズ・ルコント! 血を何とかして!」
「は、はい!」
名指しをすれば、さすがに動かないわけにはいかないだろう。
名前を呼ばれてしまったフランは、顔を真っ青にしたまま私の元へ駆け寄り、ポケットから取り出したハンカチを私の傷口に当ててくれた。
そして、憐みの表情を浮かべる使用人たちの視線を浴びながら、私を医務室へと連れて行ってくれた。
うん。
前世の記憶を取り戻した今ならわかる。
私は、酷い悪役令嬢だった。
「お嬢様、少し失礼しますね」
「ええ」
「痛みますか?」
「大丈夫よ」
傷口に薬草を塗られ、包帯でぐるぐる巻きにされながら、私は今後の身の振り方を考えていた。
前世の知識によると、悪役令嬢ナタリー・ピエールの性格は、最悪だ。
屋敷では、両親に我がまま言い放題、使用人たちをこき使い放題。
現在通っている中等魔法学園でも、来年から入学することになる高等魔法学園でも、ピエール公爵家の令嬢と第一王子パトリック・ディディの婚約者であるという二つの肩書を使って好き放題。
先生相手だろうが生徒相手だろうが、関係ない。
自分にすり寄って来る人間を下僕のように扱い、自分にすり寄って来ない人間を敵と認定し、いびり続ける日々。
権力に守られた安全圏から学園を支配する、完全な悪として君臨することとなる。
しかし、高等魔法学園において転機が訪れる。
平民出身のヒロイン、サナの入学だ。
強い選民思想を持っているナタリーは、サナを高等魔法学園に相応しくないと考え、当然のようにいびり続けることになる。
だがサナは、そんなナタリーの行動を生まれながらに特権階級にいる人間故の苦しみから来るものだと考え、自分をいびってくるナタリーを理解しようと言葉を紡いだ。
今まで、ナタリーという存在に怯えるだけだった生徒たちは、余りにも優しいサナの言葉に、そして行動に、サナを聖女のように崇め始める。
そしてサナの行動は、王族としての使命にしか興味を示さず、ナタリーの横暴を放置していたパトリックにも届いた。
王子という立場上恋愛を諦め、ナタリー以外の女を知ろうともしなかったパトリックは、サナのことを知る度にサナへ恋心を抱き始め、同時にナタリーの振る舞いに明確な嫌悪感を示すようになる。
乙女ゲームの結末では、パトリックはあらゆる地位を捨ててでもサナを守るという覚悟を決め、サナの敵であるナタリーを破滅させるため、ナタリーの罪を白日の下に晒した。
王子が敵に回れば、ナタリーと言えどただでは済まない。
自身の破滅を恐れたナタリーは、両親に、使用人に、生徒たちに、自分の周囲にいる人間へ片っ端から助力を求めるが、過去の横暴さ故に誰一人としてナタリーの味方につく者はおらず、それどころか余罪がさらに溢れ出てしまう結果となった。
因果応報。
完全に孤立したナタリーは、貴族位を剝奪されたうえで国外追放となり、輝かしい人生から一気に転落してしまう。
その後は、ご都合主義的にサナとパトリックがひっついたり、ナタリーがいなくなったピエール公爵家が発展したり、ナタリーにいびられていた使用人たちが全員幸せな未来を歩んだりと、エンディングを迎えることになる。
不幸になるのは、ナタリーただ一人。
そしてそれが、私の未来。
「絶対嫌よ!」
「ひゃっ!? お、お嬢様、申し訳御座いません!」
「あ、ごめんなさい。独り言よ。気にしないで」
「え!? あ、はい!」
思わず叫んだことをフランに謝り、私は破滅しないための作戦を考える。
幸い、ゲーム本編が始まるまで、まだあと一年ある。
今からなら、まだ破滅を回避することも可能だろう。
まず私がやるべきは、嫌われに嫌われまくった今の状況を、どうにかすることだ。
私に無関心なパトリック様に私を好きになってもらい、フランたちも万が一の時には私を庇ってくれるくらいには好感度を上げておかなければならない。
「ふ……。ふふふふふふふ」
「お、お嬢様?」
「あ、ごめんなさい。思い出し笑いよ」
「あ、はい」
状況は、なかなかに絶望的だ。
でも、私には秘策があった。
前世の知識を活かした、皆の好感度を上げることができるウルトラシーが。
そう、お菓子作りである。
古今東西、恋人との仲を深めるのも家族との絆を深めるのも、美味しいご飯と相場が決まっている。
どんなに頭が良い人だろうと、どんなにお金を持っている人だろうと、胃袋さえ掴んでしまえばもうおしまい。
食の魅力には抗えない。
そして、私の前世の趣味は、お菓子作りだ。
「で、できました。お嬢様」
「ん。ありがとうね、フラン」
「え!? い、いえ! とんでも御座いません!」
私はフランに丁寧にお礼を言い、椅子から立ち上がった。
お礼なんて、今までのナタリーであれば絶対に言わなかっただろうが、これからは積極的に言っていく。
使用人たちからの信頼回復の第一歩だ。
そして、鏡で血が完全に止まっていることを確認した後、私はさっそくウルトラシーを実行するための行動を開始する。
「フラン、今日って何曜日だっけ?」
「はい。金曜日で御座います」
この乙女ゲームは、前世の日本と同じ曜日システムを採用している。
ゲーム発売日、中世ヨーロッパ設定なのにというレビューが至る所についたし私もそう思ったが、ゲーム会社の言い分は「あえて現実の要素をいくつも混ぜることで、ユーザーの皆様にわかりやすいようにしている」とのことだった。
当時は釈然としなかったが、転生した今ならむしろ助かる。
時間管理も、食材の種類も、前世の私の知識が大いに活かせるのだから。
「金曜日ってことは、今日はパトリック様がいらっしゃる日よね?」
「はい。本日はご公務で遅れるようで、夕方にいらっしゃると連絡を受けております」
「こうしちゃいられない。調理場へ行くわ!」
「調理場?」
意気揚々と歩き始める私の後ろを、フランが不安そうについてくる。
過去を振り返っても、ナタリーが調理場に足を踏み入れたことなど、食事直後にご飯への文句を言う時だけだ。
「あ、あのー、お嬢様」
「何?」
「調理場で、一体何を」
「お茶会用のお菓子を作るのよ」
私の提案に、フランは目を丸くして驚いた。
「お茶菓子でしたら、いつも通り最高級の物をシェフが用意しておりますが」
「それじゃあ、意味がないじゃない! 私が自分で作るのよ!」
「お、お嬢様が!? ご自分で!?」
「そう、手作りよ手作り! フラン、貴女にもご馳走してあげるわ」
昨日とは違う私の行動に、フランはずっと驚きっぱなしだ。
私が調理場に入ると、シェフも目を丸くして驚いた後、フランと同じ説得をしてきた。
が、私はどうしても自分で作りたいと、我儘を通した。
「お願い! どうしても自分で作ったお菓子で、パトリック様を喜ばせたいの!」
「ひっ!?」
精一杯乙女ぶった上目づかいで頼んだら、シェフは小声で驚いた。
ああ、どんな表情を作っても睨むような顔になってしまう三白眼が憎い。
しかし、私の誠意だけは伝わったようで、シェフは私を調理場の奥へと招き入れてくれた。
「必要な物があれば、なんなりとおっしゃってください」
「ありがと」
シェフは、私の邪魔にならないように背後に立って、私の行動を見守っていた。
シェフは私の料理の腕を知らないし、調理場はシェフにとって自分の城だ。
私が何かしでかさないか不安なのだろう。
私はフランにエプロンを付けてもらい、ドレスの長い袖が邪魔だったので腕まくりをして気合いを入れた。
この世界に、前世と似た食材があるのは、乙女ゲームの知識で確認済みだ。
「クッキーなんてどうかしら? 定番中の定番だけど、最初の手作りお菓子としてはピッタリよね」
クッキーは、前世の私が得意とするお菓子の一つだ。
なにせ、ナタリーとして生を受けてからは初めての手作りだ。
訛った腕を戻すためにも、丁度いいだろう。
「クッキーですか。お茶にもあってよいと思います。しかし、お時間の方が」
現代には、ミキサーやオーブンのような便利家電はない。
よって、材料を混ぜるのにも時間がかかるし、火の準備にも時間がかかる。
パトリックが来るまでの数時間で完成できるかは、正直怪しい。
もっともそれは、普通の人間がやれば、である。
「魔法で時短するから平気よ!」
だが、私には魔法がある。
高貴な血の流れる貴族だけが持つ特別な力。
風を使って混ぜるも、人を放って燃やすも、朝飯前だ。
自信満々の私を、シェフは未だに不安半分残したような表情で見ていた。
その不安も、行動で取り除くしかないのだろう。
私は胸を張って、シェフの方を見た。
「大丈夫! 私を信じて! 絶対に大丈夫だから!」
「……お嬢様が、そうおっしゃるのならば」
私の説得を諦めただろうシェフは、覚悟を決めた表情で私を見た。
「じゃあ、今から言うものを準備してくれる?」
「なんなりと。ここには、大抵の食材が揃っております」
シェフが自慢げに調理場を見渡す。
箱と言う箱の中には食材や保存食がみっちりと詰められており、シェフの言葉の正しさを証明してくれる。
「まずは、小麦粉を用意して頂戴」
「はい、こちらに」
「砂糖……は、つまんないか。蜂蜜を用意して頂戴」
「はい、こちらに」
シェフが、豪語するだけのことはある。
私の欲しいものが、次々と私の目の前に置かれていく。
さすがは、貴族の屋敷といったところだろう。
「バターはある? なければ、オリーブオイルでもいいわ」
「もちろん、御座います」
「最高ね! じゃあ、カカオ」
「はい、こちらに」
「後、唐辛子」
「はい、こちらに…………唐辛子?」
「隠し味よ! 甘いものに辛い物を入れると、甘さが引き立つの! 後、干し肉!」
「お嬢様?」
「これだけだと、体に悪いかしら? 薬草も何枚か持って来てくれる?」
「お嬢様?」
「ひらめいたわ! 隠し味の隠し味に、キャビアとトリュフとフォアグラなんてどうかしら? パトリック様はいつも高級なご飯を食べていると思うの。それに負けないくらい、高級な味も出さなきゃ!」
「お嬢様あああああああ!?」
後半、なんだか調理場の中が騒がしくなっていた。
ちょっと、食材を使いすぎてしまったのだろうか。
クッキーが完成した後、お父様に食材の補充をお願いしておこう。
私のせいで、シェフが作りたい料理を作れなくなるのは嫌だし。
「さあ、さっそく作るわよ。まずは風の魔法で、材料全部混ぜます!」
「お嬢様あああああああ!? 私の声が聞こえてますかあああああああ!?」
集中モードに入った私には、もう周りの声なんて届かなかった。
「パトリック様! ようこそお越しくださいました!」
私は、パトリック様が屋敷に到着したと聞いて、急いで玄関へ迎えに走った。
玄関の扉を開くと、そこにはいつも通り仏頂面のパトリックが立っていた。
乙女ゲームの知識を辿ると、この時のパトリックは婚約者としての義務感だけで私に会いに来ていたらしい。
「やあ、ナタリー。会えて嬉しいよ」
「ええ、私もですわ」
心のこもっていない挨拶に笑顔で返し、私はパトリックを屋敷の中へと案内した。
「ふぐうっ!?」
が、パトリックは屋敷の中に入るやいなや、思いっきり顔をしかめて、両手で鼻を押さえた。
パトリックの付き人も同様、鼻を押さえこそしなかったが、顔がみるみる青くなっていった。
「ナタリー。なんだか、妙な匂いがしないか?」
さすがはパトリックだ。
頭がいいだけでなく、嗅覚もすさまじい。
調理場から遠く離れた玄関で、クッキーの匂いを嗅ぎ取ってしまうとは。
でも、手作りお菓子はサプライズをするからこそ効果が増すのだ。
私はあえて、気づかないふりをした。
「えー、そうですか?」
「ああ。なんだか、スラム街の近くを通った時のような匂いが」
「え!?」
スラム街には行ったことがないが、きっと前世で見た屋台がずらりと並ぶ通りみたいな場所だろう。
やたら味の濃い焼き鳥や焼きトウモロコシが売られていて、左右から色んな匂いがしていたことを覚えている。
驚いた。
まさかクッキーの匂いだけでなく、隠し味に入れた焼き鳥の匂いまで嗅ぎ当ててくるとは。
ナタリーの記憶を思い返せば、私が香水を変えた時、パトリックはいつも気がついてくれていた。
さっきからずっと手で鼻を覆っているのは、その高すぎる嗅覚故、普通の匂いも刺激になってしまうからなのだろう。
このままでは嗅覚だけでサプライズがバレてしまうと思い、私は未だに顔を顰めるパトリックの腕を掴んで、強引にダイニングへと引っ張った。
「お、おい!」
「パトリック様! 急いでください!」
ダイニングに近づくと、パトリックの顔は一層険しくなっていく。
廊下には具合が悪そうな表情の守衛たちが立ち、ダイニングの扉の前に立っていたはずの守衛は姿を消していた。
丁度、交代時間だったのだろうか。
パトリックに、守衛がいないなんて不用心な家だmなんて思われてなければいいが。
私は扉のノブを掴み、笑顔でパトリックの方を見た。
パトリックはと言うと、顔色が真っ青になっていた。
パトリックの仕事はデスクワークが多く、普段の運動量が少ない。
そんなパトリックを強引に引っ張って走らせたから、疲れさせてしまったのだろう。
ならばなおさら、美味しい物を食べて元気を出していただかなくてはならない。
「ナ、ナタリー? この匂いは……いったい?」
「ふふふ。ご覧ください、パトリック様! サプラーイズ!」
私は、一気にダイニングの扉を開いた。
ダイニングからは緑色の煙がもくもくと湧き出してきて、廊下に立つ私たちを包み込む。
あら、こんなスモッグ演出は知らないわ。
もしかしたら、フランかシェフが、気を利かせて用意してくれたのかもしれない。
後から、お礼を言わなくちゃ。
緑色の煙が晴れると、そこに広がるのは広いダイニング。
テーブルの上には、私の作った特製クッキーが積み上がっている。
そしてテーブルの周りでは、フランとシェフが仲良く横になっていた。
「まあ! こんなところで眠るなんて、はしたないわよ二人とも! せっかくパトリック様がいらしてくださったのに」
とはいえ、二人とも突然私のクッキーづくりに付き合わせてしまったのだ。
疲労が溜まったとしたら、それは私の責任だ。
クッキーを試食した程度では、疲れもとれなかったらしい。
私はダイニングルームに畳まれていた未使用のテーブルクロスを二枚とってきて、フランとシェフにかけてあげた。
そして、クッキーの積み上がったお皿を持って、パトリックの元へと戻った。
何故だかお皿に緑色の液体が溜まっているが、おそらく薬草を混ぜた影響だろう。
味には影響がない、はずだ。
膝をついているパトリックにクッキーを差し出すと、パトリックは目を見開いてクッキーを凝視した。
そんなに目が離せないほど美味しそうに見えたのなら、製作者冥利に尽きるというものだ。
パトリックは私のクッキーを指差し、私に聞いてくる。
「ナ、ナタリー? これは?」
「見ての通り、クッキーです。私の手作りなんですよ!」
「ク、クッキー!? こ、この、緑と赤の塊が?」
「はい! 隠し味が入っているので、普通のクッキーよりもちょっとだけ色がついてるんです」
「ちょ、ちょっと……だけ……?」
パトリックは、私のクッキーを見つめたまま動かない。
いや、パトリックだけじゃない。
パトリックと一緒に来た付き人も、クッキーを見つめて固まっている。
しまった、パトリックの付き人の分を用意するのを忘れていた。
今度からは、もっとたくさん作っておかなければ。
私がそんなことを考えている間も、パトリックは動かない。
普通、女子がクッキーを差し出したら、喜んで食べる物ではないのだろうか。
少なくとも、前世ではそうだった。
だけど、この世界では違うのかもしれない。
なにせ、ナタリーとしての人生では人のために料理もお菓子も作ったことなんてなかったので、こっちの世界の普通がわからない。
まあ、今回だけは、無礼を許してもらおう。
クッキーは、温かいうちに食べるのが美味しいのだから。
私はクッキーを一つ摘まんで、パトリックの口へと近づけた。
「はい、パトリック様? あーん」
手作りお菓子×女子からのあーん。
これを喜ばない男はいないだろう。
例え王族の地位にいようと、だ。
パトリックは、私が近づけたクッキーを凝視した後、私を見た。
「ナ、ナタリー?」
もしかしたら、あーんの文化もないのかもしれない。
お父様とお母様があーんをしあっているのも、見たことがないし。
はしたないと思われてしまっただろうか。
「口を開けて下さい、パトリック様。私お手製のクッキーを、私の手で食べさせて差し上げますから」
「これを……食べ……」
「はい! パトリック様に喜んでほしくて、愛情を込めて作りました!」
パトリックが息をのむ。
きっと、あまりにも美味しそうなクッキーの魅力に逆らえず、口の中に溢れ出てきた唾液をのみ込んだのだろう。
よだれを垂らすのは、第一王子として相応しくない行動だ。
しかし、まだ口を開けてくれない。
何故だろう。
いつも堂々としているパトリックだから、付き人が見ている前であーんされるのは、さすがに恥ずかしいのだろうか。
実際、やってる私も恥ずかしい。
既に私の顔は真っ赤だ。
でも、ここまでしたら、私ももう後には引けない。
「ナ、ナタリー様」
パトリックの付き人が、空気を読まずに私に話しかけてきた。
「なんですか?」
「そ、その、パトリック様は……えっと。先程、ご飯を既に召し上がりまして」
「え? 私とのお茶会の予定だったのに?」
「は、はい! その、他国の要人の方との会食でしたので、パトリック様も断るに断り切れず……」
「あら、そうだったの」
パトリックの表情が、僅かに明るくなった。
ああ、食べなかったのは照れでも緊張ではなくて、私への罪悪感が原因だったのか。
パトリックは誠実な男だ。
顔が青くなった理由も、お茶会の前にご飯を食べてしまったことを、私にどう言い出せばいいのか苦悩した結果だろう。
「では、仕方ないですね」
「はい!」
「じゃあ、貴方にあげますわ。好きなだけ食べてください」
「え?」
私は試食でお腹いっぱいだし、捨てるのももったいない。
だったらと、私がパトリックの付き人に提案したのだが、今度は付き人の顔が青くなった。
話している相手が傍若無人な悪役令嬢ナタリー・ピエールなのだから、当然と言えば当然かもしれない。
私の三白眼の圧力に耐えるのに、限界が来たのだろう。
「ナ、ナタリー様。お気持ちは嬉しいのですが、私も実は食事を終えたばかりで」
「あら、そうなの。じゃあ、仕方ないわね」
「は、はい!」
クッキーの行き場を失った私は、がっくりと肩を落とす。
果たしてこのクッキーをどうすればいいのだろうか。
明日まで保存できるだろうか。
無事に私へ満腹の意思を伝えることができたパトリックと付き人は、緩んだ表情で顔を見合わせていた。
言うべきことを言い終えて、気が抜けたのだろう。
グー。
そして、二人のお腹から、お腹の虫がなった。
パトリックとお付きの人は慌ててお腹を押さえていた。
が、私にはちゃんと聞こえた。
「まあ! やっぱりお腹が空いてるんじゃないですか!」
「い、いや、今のは!」
私が笑顔を向けると、パトリックと付き人の顔が再び青くなる。
さっきまでのは、やはり遠慮だったのだろう。
パトリックは、お付きの人の前であーんをされるのが恥ずかしい。
付き人は、パトリックを差し置いてクッキーを食べるのに抵抗がある。
なんて、意地らしいのだろう。
なら、対策は簡単だ。
二人仲良く、あーんして食べればいい。
公爵令嬢である私からパトリックの付き人にあーんをするのは、貴族の振る舞いとして相応しいかはわからないが、今回だけは許してもらおう。
ここだけの秘密として三人で誰にも言わないと約束をすれば、きっと大丈夫だ。
私はクッキーをもう一枚掴んで、一枚をパトリックの口へ、もう一枚を付き人の口へと差し出した。
「ナ、ナタリー、私は本当に満腹で」
「わ、私もです。ナタリー様」
「もう! 何も言わなくてもわかってますわ。恥ずかしがらなくても大丈夫です。ここだけの秘密です。誰にも言いませんから」
「あ……あ……」
クッキーが二人の唇に触れ、私はクッキーをぐっと押し込んだ。
クッキーは唇の隙間からすぐに二人の口の中に入り、すぐにクッキーを飲み込む音が聞こえた。
「まあ! お二方とも、ちゃんと噛まないと危ないですわよ!」
焦った私の忠告もむなしく。
「ぎゃああああああああ!?」
「ぐわええええええええ!?」
パトリック様とお付きの人は、白目をむいて絶叫し、喉を押さえたまま気を失った。
きっと、喉に詰まらせてしまったのだろう。
「ああ、もう! 言わんこっちゃない! お水お水!」
私は急いで調理場に入り、コップを持って二人のところへ戻った。
「ナ、ナタリー様……それは……」
後ろの方から、弱弱しいフランの声が聞こえた気がする。
どうやら、お休みから目を覚ましたようだ。
でも、ごめんなさい。
今、優先すべきはパトリックたちだ。
「さ、パトリック様! 口を開けてください!」
私は、クッキーに合うように作った、特製ジュースをパトリックの口の中へと流し込んだ。
「うぼああああああああ!?」
パトリックの目に黒目が戻ってきて、倒れていた体が跳びはねた。
やった、元気になった。
「おぼぶぶぶぶぶぶぶぶ!?」
元気がありあまっているのか、パトリックはぴょんぴょんと跳びはねながらどこかへ行ってしまった。
そんなパトリックを見送って、私は付き人の口にもコップを近づける。
「ん……んー……」
「さ、貴方も口を開けて?」
「んー……!」
かたくなに口を開けようとしないが、緊急事態だ。
私は指で強引に付き人の口を広げて、特製ジュースを流し込んだ。
「ほぎゃあああああああ!?」
特製ジュースを飲み込んだ付き人も、跳びはねながらパトリックを追うようにどこかへ消えていった。
「ああ、二人とも元気になったようでよかったわ」
それにしても、前世では菓子ばかりを作っていたけど、もしかしたらジュース造りの方が才能があるのかもしれない。
私は破滅の未来を回避するため、お菓子もジュースも、もっともっと練習して上達させようと決意した。
一年後。
高等魔法学園。
ついに私、悪役令嬢ナタリー・ピエールの未来が決まる三年間がやってきた。
この一年で、パトリックとの仲もかなり良くなったと思う。
かつてのパトリックであれば、初登校であっても隣を歩いてくれるような優しさは見せなかっただろう。
でも、今は違う。
パトリックは、私の隣にいる。
「いいか! 絶対に、ナタリーに他の生徒を近づけるな!」
「イエッサー!」
ちょっと、過保護すぎるが。
付き人と一緒に常に辺りを警戒して、誰も私に近づけないようにしている。
私を他の男に盗られたくないという想いにはキュンと来るが、私の心はパトリック一筋だ。
もう少し、私を信用して欲しい。
「まあ、あれは第一王子のパトリック様よ。素敵ねえ。……相変わらず、大変そうですけど」
「まあ、隣を歩いているのはご婚約者のナタリー様よ。素敵ねえ。……遠くから見てる分には」
ああ、ほら。
パトリックの奇行のせいで、これから同じ学び舎を共にする方々が、私たちを引いた目で見ている。
私には、争いのない学園生活を送り、三年後に破滅しないという目的があるのだ。
そのためには、学友と親交を深めることも重要なのだ。
「パトリック様、私は一人で大丈夫ですから」
「いや、駄目だ! 危険すぎる!」
「では、お近づきの印のクッキーを渡すだけにします」
「!? それが一番きけ……ふぐうっ!?」
私が鞄からクッキーを取り出すと、香ばしい匂いが学園一帯を包んだ。
近くを歩いていた生徒だけでなく、遠くの方を歩いていた生徒も、私の方を振り返った。
空を飛んでいた鳥たちも、匂いに気をとられて飛ぶのを忘れてしまったのか、次々地面に落ちてくる。
掴みは、オッケーだ。
「馬鹿……な……。先週より……強烈に……」
「わ、私たちの……一年の訓練を……こんなにあっさりと……」
「では、行ってきますね」
パトリックと付き人は、いつも通り膝をついて動けなくなっている。
毎回、初めて私の手作りお菓子を見た時と同じ初々しい反応をしてくれるのは、私との初めてを忘れないようにわざとやってくれているのだろうか。
そうだとしたら、愛を感じてとても嬉しい。
私はクッキーを手に持ったまま、小走りで急ぐ。
クッキーも、早く食べて欲しいと言わんばかりに、パチパチとはじけている。
私は、さっきから視線を送っていた女子学生二人の前に立つと、固まっている二人にクッキーを差し出した。
「初めまして。私、ナタリー・ピエールと申します。これから三年間、よろしくお願いしますね。こちら。お近づきの印のクッキーです」
悪役令嬢ナタリー・ピエール。
特技のお菓子作りを活かして、楽しい学園生活もパトリックからの愛情も手に入れて、破滅の未来を回避してみせます。