第49話 悪夢
「あなた、自分が何者なのか疑ったことはありませんか?」
ルクシアという名の少女は、急にそのようなことを聞いてきた。
「えっ、何……?何の話?」
話が見えず、思わず聞き返してしまう雪穂だったが、ルクシアはそのリアクションにも意を介さず、そのまま二の句を継いだ。
「わからないならいいんです。ただ、覚悟くらいはしておいた方がいいですよ」
「そういうこと言ってるけど、善意で言ってるようには見えないんだけど」
「あんまり喧嘩腰になってはいけませんよ。ほら、『落ち着いてください』」
ルクシアがそう言ったと同時に、雪穂は己の中の敵対心や悪感情が、一気に蕩かされてしまうような感覚を覚えた。
「あなたが悪魔祓いになった事。そもそも悪魔と遭遇した事。すべては偶然ではないんです。
だからこそ、あなたはいずれ自分が何者かを知る必要が出てくる」
「おやぁ……?少し『効きすぎて』しまいましたか。まあいいでしょう。言うべきことは全て言いましたからね。それでは」
そのまま、ルクシアは夜道を去っていった。
後には蕩けたような顔で立ち尽くす少女の姿だけが、残されていた。
夢を見る。
自分が何か抑えきれない衝動に襲われ、ジタバタともがいているという光景が、浮かんでくる。
周囲の様子が目に入る。
そこにあったのは血、血、血、血、血----!
おびただしいまでの人間の血の中に、人の手や、足、指。目玉、分解された人間のパーツが、いくつか浮かんでいる。
その中で、自分は何かと戦っているように、ひたすらもがいている。
どう見ても苦しく、不愉快な光景だ。
だがその衝動に身を任せていればいるほど、自分でも予想しないような感情が、己を支配していく。
気持ちが良い。
理性など全て忘れて暴れて、全てを壊してしまうのはとても気持ちが良い。
やがてその衝動の中で完全に、今まで考えていた感情や、何もかもが蕩けて、消えていく。
自分が自分でなくなっていく。
その瞬間、雪穂の目に映ったのは、見慣れた天井だった。
それまで見ていた光景があまりにも異常で、それだけではなく、自分の感情や理性が蕩けて、ただの獣のようになっていくという夢だっただけに、目覚めたという感覚にまで引き戻すまでに、少々時間がかかった。
「何なの、この夢……」
雪穂は自分の首元を見てみると、確かにペンダントがかかっていた。にも拘わらず、だ。あの時のように、自分は悪夢を見ていたのだ。
「もしかしてこのペンダント、効力弱まってる……?」
あの日以来、これまで悪夢を見ることは一切なかった。
だが、今日になって急に、異常な悪夢を見たのだ。
「……マジで早いとこ起きないと。そんで、起きて顔洗って、朝ごはん食べて、それから……」
いつも通りの日常へと自分を引き戻すように、これからの行動を小声で呟く。
予想だにしない異常事態に、心が不安で満たされていく。
それをごまかすためなのか、あるいはもっと別の何かなのか。
退屈だったはずの日常が、今や懐かしい遠いものにまで思えてきた。
一体、自分は何者なんだろうか。
そんなこと考えたこともなかった。
いや、一度は頭をよぎったこともあっただろうけど、それはきっと思春期の一過性の風邪みたいなもので、すぐに通り過ぎるものだった。
まさか、そんな命題をまた問われることになるなんて、雪穂は考えてすらいなかった。
--------------------------
地獄、という言葉を、形容詞として使ったことはあるだろうか。
そりゃ、あるだろうな。誰でも。
だが、オレにとっての地獄は、『日常』そのものにあった。
気に入らなければ顔を殴られた。
折檻と称して、檻のようなものに閉じ込められたこともあったし、飯を抜かれたこともあった。
まるで、家畜か何かのように扱われている気分だった。
オレにとって不幸中の幸いだったのは、そういった日常がオレの中で、当たり前のものだと思えたことだった。
だが、オレにとって最大の不幸は、そんな日常は普通ではなく、他のヤツらはもう少し幸福で、安らぎのある『日常』を送れているということと、それを知ってしまったことだった。
顔や身体にアザを作って歩いている自分を、周りはどこか遠巻きに見ている。
別に、自分たちに対して何かしてきたというわけじゃない。
だが、そうやって遠巻きに見るだけで何もしないということは、要するに、関わりた
くないんだろうと、幼いオレでもよくわかった。
きっと自分の日常は、何もかもが普通じゃないんだろう。
だったら、『異常』だろうとなんだろうと、もうなんだっていい。
せめて、アイツだけは守りたい。
---------------------------
自分が不幸だなんて、考えたこともなかった。
けれど、幸せだなんて思ったことは、一度もなかった。
もし、これを幸せだと思ってしまったら、今の状態から抜け出そうと思うことはなくなるだろうから。
けれど、これを不幸だと思ってしまったら、きっと自分が可哀想だと思うような気持で、全てが満たされてしまうだろうから。
だから、僕は全てを受け入れることにした。
ありのままを受け入れて、きっとそういうものなんだって、何もかもを諦めることにした。
希望を持つことは、ある意味大変なことなんだ。
希望を持つ限りは前に進むしかない。けれど、絶望してしまったらきっとそこからは抜け出せない。
こういうことを、『八方ふさがり』っていうんだっけ?よくわからない。
ああ、今日も顔を殴られた。
ああ、火のついたタバコを、掌に押し付けられた。
痛い、熱い。けれど、それももう慣れてしまったこと。
慣れてしまえば、いつものことだと何とも思わなくなる。
なのになんで、僕は涙を流しているんだろう。
なのになんで、僕はここから抜け出したいと思っているんだろう。
わからない。わからない。自分の感情が何もわからない。
そうだ、自分の代わりに怒ってくれる人が、傍にいるんだ。
それだけが、僕にとっての『幸せ』だった。




