傷
その部屋は、時間から切り離されたかのように、何も変わっていなかった。
暑さで輪郭を喪った意識が、過去の中を茫と漂う――もはや蝉の声だけが現実との繋がりなのではと錯覚しかけるが、手から滑り落ちた荷物の呻き声で、意識は再び容貌を取り戻した。
この部屋の主は、もうこの世に居ない。
棺に別れを告げてから暫く経った――今頃はもう、炎に包まれている頃だろう。
親族でもなければ、もうこの町に住んでいる訳でもないくせに、「部屋を見ていてもいいですか」と訊く私も私だが、何の躊躇いもなく留守を任せた家族も家族だ。
ああ、この田舎の暖かさが苦手だったのだと、つくづく思い出させられる。
額を伝う汗を、袖で拭う。
そういえば、訃報を耳にしてから今に至るまで、涙は一粒たりとも流していない。妙な疲労感があると思っていたが……、涙を流すだけの気力すら、汗と一緒に流れ出てしまったようだ。
スマートフォンが振動する。
共通の知り合いからの、悲痛そうな表情が見えるような、お悔やみの言葉だった。
不謹慎なことに――
「ははっ」
――自嘲の笑いが勝手に零れた。
こういう、他人の心を思いやれる奴がここに居るべきなんじゃないのか?
それが文章であっても。
万が一、それが上辺であっても。
何も感じられず、何も言葉にできない、虚ろな洞のような私が居るよりは、幾分かマシだろう。
どうにか捻り出した文章を送り返して、スマートフォンをベッドに放り投げる。
思っていたよりも弾んだ精密機器が、床に嫌な音を立てて叩きつけられたのを、特に何を思うでもなく眺めていると、ベッドの下に目が留まった。
私が置き去りにしたギターケース。
そして、カセットテープとテープレコーダーの入ったプラスチックのボックス。
ギターケースはつい最近まで手入れをされていたかのように綺麗で、かつては半分も埋まっていなかった透明なボックスは、殆ど満杯になっていた。
つい今し方まで風景に過ぎなかったそれらは、急激に濃い輪郭を帯びて主張を始める。
胸の奥で心臓が警鐘を鳴らす。
手を触れるべきじゃない。
ましてや、聴くなんてもっての他だ。
何が遺されているか分かったものじゃない。
まだ誰も聞いたことのない彼の遺言――あるいは、彼に黙って町から出ていった私への怨念かもしれない。
それは罰だ。
おそらく、死んでしまいたくなるほどの。
頭ではそう思いながらも、身体は罰を受けることが当然の行為だと言わんばかりに、慣れた手付きでボックスを開けていた。
私が残した曲名入りのテープとは別に、日付だけが書かれているテープが大量に入っていた――私が去ってしばらくしてから、月ごとに何かを記録していたようだ。
一番新しい日付は半年ほど前だった。
私がこの町を去った後で一番古いものを手に取り、レコーダーに差し込む。
再生ボタンを押そうとする手は、ひどく震えていた。
「――――あー、聞こえるかな」
彼の声。
懐かしさと後ろめたさで肺が締め付けられる――行き場を失くした空気は、喉から漏れ出て嗚咽へと変わった。
「いつかまた会えた時にきみを驚かせようと、ギターと歌を練習することにしました。練習のついでに記録として残そうと思います」
その言葉に、後悔の波が押し寄せる――それは、遺言よりも、怨念よりも、他のどんなものよりも、私の記憶を掘り起こして、そして心を抉ってくるものだった。
優しい声と、ぎこちないギターの音色。
空っぽだったはずの感情の濁流に、なす術もなく飲み込まれていく。
嗚呼。
私は知っている。
彼の死因が、全身に転移した癌による臓器不全であることを。
最初に発覚したのは喉頭がんであったことも――喉頭の切除を行ったことも……。
そこからは、もはや罰ですらなく、ただの地獄だった。
聴くことを止めることもできず、無理矢理に操られる人形のように次から次へと再生し、その度に、心は軋みを上げながら潰されていく。
掠れていった声が無くなり、やがてかき鳴らすギターの音もか細くなっていく。
それは、生命が喪われていく音だった。
「……ははっ」
笑うしかなかった。
嗤うしかできなかった。
音楽からも逃げ出して、この町からも逃げ出して、彼からも逃げ出した私には、これ以上の仕打ちもあるまい。
最後のテープを聴き終えた私は、朽ちかけた心の中に棲んでいる、妙な違和感に気づく。
……おかしい。
使わなくなったのなら――あるいは使えなくなったのなら、このギターケースを綺麗にしたのは誰だ?
彼の家族が私に何か言ったわけでも、思わせ振りな態度を取ったわけでもない。部屋の状態から察するに、おそらく部屋の掃除や遺品の確認もまだしていないはずだ。
ギターケースに手を伸ばす。
中には、ケース以上に丁寧に手入れされたギターと、私の名前が書かれた手紙が入っていた。
「――――」
近くにあったゴミ箱を引っ掴んで、嘔吐する。
到底堪えられるものではなかった。
部屋に這入った時とは別の、目の前が暗くなるほど朦朧とする意識をどうにか宥めて、手紙を開く。
そこには、細く、けれどどこか力強さを感じる字で、ただ一言だけ、書いてあった。
あれから数年が経った。
東京の街は今日も人で溢れかえっている。
その雑踏のなか、私はギターを構えて、唄い始める。
誰に聴かせるわけでもなく。
いつか、また出逢うその時まで。
その時まで、きっとこの傷が、私の心から消えることはないのだろう。
「また今度、聴かせてね」