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生死の境

 三人とも動かない。座ったまま死んだとしたら、やはり同じ状態になるのかもしれない。少しでも動けば空間が崩壊してしまうかの如く、一切の動きが静止している。ただし、男とロングヘアの女と、眼鏡の女の硬直する理由はいささか違っている。

 二人は、気まずさのため。

 一人は、混乱のため。

 眼鏡の女は知っていた。彼女が、彼氏にふさわしい姿でいるために不死になろうとしていることを。その話をする時の彼女はとても明るく、思わず応援したくなってしまうような純粋な気持ちが表れていた。

 薬の男は知っていた。彼女の彼氏が、すでにこの世にいないことを。彼女との関わり合いこそ写真を拾うまでは知らなかったのだが、死んだ男の写真を持ち歩いている彼女の事が、ひどくいたたまれなくなってしまった。

「黙ってて悪かったわね」

 その謝辞はどちらに向けてのものなのか。

「そう、彼はもう……私とは住む世界が違ってしまったの」

 それは比喩ではなく、文字どおりの意味だ。彼女が彼と『生きて』再び会うというのは、万に一つも可能性がない。身分や国籍などよりももっとわかりやすく、しかも越えるに難い巨大な隔たりとして。

 眼鏡の女が、唇を噛んで顔をあげた。

「……どうしてですか? 彼の話をしてる時は、あんなに楽しそうにしてたのに」

「同情されたくなかったから……違うわね。そうだと知ったら、きっとあなたは止めると思ったからよ」

 眼鏡の女は何も言い返せない。彼女の言うとおり、今まさに自分は彼女を止めようと口を開いていた。言葉の行き先が途絶え、再び沈黙してしまう。

 それに見兼ねたのか、男のほうが口をはさみこんだ。

「死んだ奴のために不死になるのか? こう言うのも不謹慎だが、こういう場合って普通は後を追って死にたがるものなんじゃないのか?」

「彼は独りぼっちだったのよ」

 ロングヘアの女がつぶやく。

「いえ、正確には私がそうだった。そんな私をかばったせいで、彼まで孤立することになってしまったの」

「どれくらい前の話だ」

「子供のころ……十年くらい前、かしら。彼は私のせいで仲間をずいぶん失ってしまったみたいだけど、それを後悔してるとは一度も言わなかった。最初から仲間なんていなかった私の隣で、いつも笑っててくれた」

 おそらく、それは小中学生の頃の話だろう。ちっぽけな理由から始まるいじめの矛先が、どうやら彼女にも向けられていたようだ。『彼』は、そんな周囲に流されずに彼女の事を励まし続けていたらしい。

「だから彼が死んだ時、私はどうしていいか分からなくなった。最初はそう、私もすぐに死のうとしたわ。けど何をしても私は死ねなかった。どうしてもこっちに帰ってきてしまった」

「……」

「彼が来るなって言っているんだと思った。だから私、彼のお墓の前で謝ったの。死のうとしたりしてごめんなさいって」

 ロングヘアの女の目は、遥か彼方へと向けられている。それが二人っきりになった子供のころなのか、墓の前で謝罪したときなのかは判断できない。

「それから不死になろうとした経緯はなんだ? 確かに対極に位置するような選択肢だが」

「彼は孤独だったのよ。『あっち』ではともかく、少なくとも『こっち』では」

「昔の確執が、十年たっても?」

「同窓会とか、そういうのに行けなかったからよ。ただ、彼は生きていればこれから先、職場なんかで仲間を増やすことはできたと思うわ。……私と違って」

 最後の一文に、ロングヘアの女はより一層影を落とした。自分にはその機会もない、と言いたげだ。

 何か声をかけようとする眼鏡の女は、結局言葉が思いつかずに引っ込んでしまった。

「私がいなくなると、『こっち』で彼の事を覚えているのはもう彼の両親くらいしかいなくなる。けどその両親も、彼と同じボートに乗って一緒に行ってしまったわ。『こっち』で彼の事をちゃんと覚えているのは、もう私しかいないの」

「……」

「じゃあ私が死んだら、後はどうなるの? 『彼』がここにいた証っていうのは、一体誰の中に残ってるの?」

「だから不死になろうと……」

「私は生きて、彼のそばに居続ける。距離や世界なんて関係ない、この世界に彼のいた『証』として」

 再びロングヘアの女の顔が持ち上がった。表情は引き締まり、強い決意の存在がうかがえる。眼光も鋭く、決して揺らぎそうにない意志をよく表している。彼女に睨まれている男は、目の奥に宿るそんな彼女の心を見つめ返し、こちらは哀しそうに項垂れた。

「それは違うだろ」

「……え?」

 そして言葉が、紡がれる。

「生きた証ってのは、残そうと意識しないといけないようなものなのか? 孤独だって感じてた今までの間にも、歩んできた足跡が残ってるとは思わないのか? どんだけ薄くなったって、そこにその人がいたっていう事実は消えないだろ。自分が『証』になるってのは、言葉は悪いが自己満足だ。『彼』をこの世にとどめる足跡は何もアンタだけじゃないだろう」

 突き放すような、だが決して冷たくはない言葉。

 男は分かっている。このまま『彼』のために彼女が不死になるのは、彼女も『彼』も不幸にすると。

 あるいはそれが男の早合点で、実際は彼女に幸福をもたらすかもしれない。男にはそれを確定するだけの知識も経験もないのだから、強い口調で彼女を説き伏せることはできないだろう。

 ロングヘアの女は背中を向けていた。いつの間に体の向きを変えたのか、熱弁をふるっていた男は気付かなかった。話した内容を聞いていないはずがないので、彼女も考えるところがあるのだろう。

「……強要はできない。けど俺個人の意見としては、それがアンタを不死にするほどの理由になるとは」

 思えない、と続けようとして言葉が途絶えた。何が起きたのか分かるより前に、眼鏡の女のひきつったような表情に違和感を覚えさせられる。

 呼吸が一時停止し、小さな塊の感覚が腹部に居座っている。男はそれで、自分がロングヘアの女に腹を殴られたことを理解した。

「勝手なこと言わないで!」

 叫び声は悲鳴のように。

 そのままの勢いで反対のこぶしが男の顔面を捉え、地面にたたきつけられる。そのままマウントポジションになった女は、繰り返し男の顔を殴り続けてくる。力加減は一切なく、下手をすれば殺意さえも感じられた。

 痛みは感じない。頬に落ちてくる水滴の存在が、物理的なダメージなど彼女の苦痛に到底及ばないことを示唆しているのだ。

「私たちが……彼がどんな気持ちでいたのか、アンタに少しでも分かるの!?」

 眼鏡の女は制止することもできずにただおろおろしている。明らかに本気になっているロングヘアの女を力で止めるのは難しそうなので、それは正しい判断とも言えるだろう。

 降りかかる拳の鋭さは変わらない。それをよけようとも思わない。

「アンタなんかに……アンタなんかに……」

「分かってるんだろ?」

 拳が止まった。

 彼女の動揺は明らかなものだった。水滴の量が増し、覆いかぶさるように男を見下ろす姿勢のままで硬直している。

 図星なのだ。

「何を言っても死人に口なし。『彼』がそれを望んでいるとアンタが言い張るのなら、俺はそれ以上意見することはできない。けど、誰より『彼』のそばにいたはずのアンタなら……この状況で『彼』がアンタにどうしてほしいのか、分かるはずだ」

 反応はなかった。ただし自由の利かない姿勢からは解放されたので、男は顔をさすりながら立ち上がる。落ち着いてくると、やはり顔部の痛みが猛烈に抗議を始めた。かなりひどい顔になっていることだろう。

「……ま、俺の言うことについても『死人に口なし』なんだけどな」

 それだけ言い、男は扉のほうへと歩き始めた。持ってきていたポットとカップはそのまま置きっぱなしにしてある。

 ロングヘアの女は、泣いてこそいなかったが、俯いて男のほうを見ようともしなかった。眼鏡の女がなだめているが、しばらくはその言葉も耳に入らないと思われる。

 眼鏡の女は恨みがましそうな視線を男へと向けているが、男はそれに気づかないふりをして部屋を出て行った。



「おー痛て……真っ青になってるかもな、俺の顔」

 玄関付近で顔をさする男。さわり心地からも、いつもより膨れ上がった輪郭線に背筋が凍りつく。もう人間の顔ではなくなっているかもしれないと考えると、先刻の行動を後悔しないでもない。

「しかし、はがきか……こんなとこまで持ってくるとは」

 男が郵便受けから取り出したのは、一枚のはがき。

 宛名は男性名のようだが、ここにやってきている人間の名前は誰のものも知らない。なので名前からはだれ宛の物か判断ができず、何の気なしに裏面をひっくり返してみた。

 黒い縁取りに、パソコンで印刷されたであろう決まり文句と、そこだけボールペンで書いたような人名の部分。時候の文句から始まり、本題が三行ほどの間に簡潔にまとめられている。

 誰に宛てたものか、それだけで確定した。

「孤児院のおばあさんが亡くなったのか……」

 これを渡しに行くと、また言い争いになるかもしれない。かといって渡さないわけにもいかない。

 これを受け取ったとき、彼はどんな顔をするのだろうか。

 それを想像することはもちろん、はれ上がった顔で渡しに行かなければならないことも男のため息を誘った。

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