憂える若き瞳
「俺、今は大学二年なんだ」
彼の語り出しはそんなものだった。
何も見えないはずの窓の外。その窓枠に両手をついて、若い男はその黒の中をずっと見つめている。その瞳が見ているものは景色でなく、自身の過去や未来なのかもしれない。
彼の第一声は、眼鏡の女の予想していたものとは異なる内容だった。彼女はてっきり不老不死を望むようになった発端が語られることを予想していたのだが、彼が話しているのは今の彼であって過去の彼ではない。まったく無関係でもないが、直結する内容ではない。
「これでも家は裕福でな、親父が医者やってるから、俺も追いかけるように……というか、半ば強制的に医学の世界に足を向けていた」
彼の風貌にそれらしいものは無く、あてもなく夜の街を徘徊しているといった方が真実味がある。この状況においてそんなくだらない嘘をつく必要などないので本当のことなのだろう、と眼鏡の女は無理矢理に自分を納得させた。
「無論大学は医学部。学費は親が払ってくれてる。二人とも、俺にでかい期待を寄せてるんだ。将来について話すときの二人の顔を見ればよく分かる」
「会ったこともないので私には分かりませんけど……。それにしても、すごいですね。充実した人生を送ってる人って、羨ましいです」
口ではそう言いながら、次に出る彼の言葉を予想していた。
そこから不老不死の理由も連なって予想される。
「そのおかげで何でも欲しいものは手に入った。お金では買えない特別なものとして、次に欲しくなったものが不老不死、といった流れですか?」
「それは違う」
そして、予想は外れた。
「俺の人生が充実? 違うね、外側だけ豪華に塗りたくって中はスカスカのケーキみたいなもんだ。いろんな奴らが俺のこと羨ましいって言ってきたけどな、人生を充実させるのはお金や親の職業じゃないだろ。……まあ、親がそうだったからそれに気づけた俺は、ある意味ラッキーなのかもしれないが」
一度だけ、彼の眼が彼女の方へと向けられた。
彼女のことも、そして自分のことも蔑んでいるような孤独の眼だった。
そのまま、すぐに視線が窓の外へと戻る。
「俺は……正直言って迷ってる。このまま医者になるべきかどうかって」
「でも、ご両親は勧めてくださっているんですよね?」
それが好意の押しつけだということは、眼鏡の女も分かっている。
彼はきっと、一度たりとも自分の口から医者になりたいと言ったことは無い。
「医者になりたくてもなれない奴がたくさんいるのも知ってる。俺にはその選択肢も存在してる。だから俺は恵まれてるんだろうな。けど、だからって医者になるのを強制されるのは違うだろ? もっと自分にふさわしい仕事があるかもしれないって考えれば、このまま医者になるのは間違ってる気がしてな。まあ、学費を親に払わせてる身でこんなこと言うことこそ身勝手かもしれないが」
そこで一度言葉を切った。
「欲しいものがあるのはホントだ。それも、お金じゃ買えないような途方もないヤツをな」
「……?」
「時間だ」
顔が、彼女へ向けられる。
「これから俺はどうなるべきなのか、どう道を選んでいけばいいのか……考える時間が欲しい。ひょっとしたらこのまま医者になるのが妥当なのかもしれないし、まだ俺の知らないものにもっと俺に適したものがあるかもしれない。どのみち、判断するにはまだ時間が必要なんだ」
眼鏡の女ははっとした。紆余曲折の果てに、彼が不死を望む理由にたどりついていた。
結論は同じ。だが、その過程は彼女の予想よりも遥かに下向きだったのだ。
「でも、決断できた後もあなたはずっと同じ年齢のままで生きていくことになるんですよ。それに苦痛を感じることはありませんか?」
時間が欲しい、という理由。ロングヘアの女のそれと比較してみた場合、それは一概に納得できる理由ではない。彼の決意を揺らがせるような一言が出たのも、当然のことと言えた。
「分からない」
俯き、首を振る。
「けど、もしこれで不死にならないで結論の出るのが遅れたら……今さらって年齢になってからじゃ取り返しがつかなくなるだろ? 道に乗りそこなった人生の難民になりたくはないんでね」
再び上がった彼の顔には、複雑そうな苦笑いがあった。
彼がどれほど悩み抜いてこの結論に至ったのかは不明だ。しかしそこには、過ぎ去っていく時間と親の期待がずっと彼にこびりついて苦しめ続けていたのだろう。それから逃げたくなって不死になろうとするのは、仕方のないことなのかもしれない。
「……分かりにくい比喩ですね」
だから、そうやって彼を茶化した。
若い男はやや驚いたような表情を一瞬だけ横切らせ、
「悪いな」
と短く呟いた。
バンダナの男と話し合いを済ませた後、薬の男は一度一階へと降りてきていた。灯りは何もないが、男は苦もなく歩いて行ってテーブルに前に立ち止まった。
四人の着いていた席。ボロボロの木のテーブルをはさんで自分と向かい合っている人間。そのいずれの顔にも、人間離れした緊張と期待が入り混じって表れていた。それを見回すと、言葉は悪いが愉快な気分になることができた。
彼らが、自分の持つ不死の飛躍を求めて躍起になっているのだ。自分の意思一つで彼らの表情がせわしなく移り変わっていく様は、彼らのコントローラーを握りしめて遊んでいるような感覚にさせた。
悪意はない。ただ、彼の言動にどうしてもその色が表れてしまうのは以前から注意されてきていることだった。そして今回も、それで不愉快な思いをさせてしまっていたらしい。
先程ついていた自分の席に着くと、制御できない自分に溜息をついた。
「冷静にならないとなぁ……もっとこう、クールに」
独り言が暗闇に木霊する。首をかしげるが、無意識の産物をどうこうできる自信が彼には無い。
「それは今後の課題かな……今はひとまず、あいつらの先導が先だ」
言葉は残らず闇に吸い込まれ、そして返答を待たずに消えていった。
そこで男は、ふとした違和感に苛まれた。
このテーブルの周辺に、先ほどは無かった物の感触がある。四人が集まっている間は彼らの感触で分からなかったのだが、おそらくその時に誰かが何かを忘れていったのだろう。
「これか」
テーブルの下に手を伸ばすと、右端の方に転がっていたそれが指先に触れた。
小さなカードのような感触がある。革の素材で四辺と背後を包み、正面は薄いプラスチックの素材が貼られている。
定期券のようだが、少し様子が違う。
「これ……」
テーブルの上に戻ってきてそれをまじまじと見つめる。
定期券の代わりにそこに納められていたのは、一枚の写真だった。
少し幼い風貌の男。どこかの公園だろうか、背景は噴水を携えた池が見える。その手前の柵に寄りかかって、その男は満面の笑みをこちらに見せつけていた。
勝気な様子で、というより、こちらをからかうような雰囲気で。しかしとても優しく、少し頼りない。
「……」
それが誰のものか、今の彼にはすぐに予想がついた。だが、今から持って行ってももう就寝していて渡せないだろう。
起きているときに渡せばいいのだろうが、彼女のものすごく慌てる様子が容易に思い浮かぶ。それを想像すると、また優越感を覚えて自然に笑みが零れた。
「おっと」
そこで慌ててその笑みを内側にしまいこむ。
「またやっちまったな……渡すときににやけないようにしないと」
自分の悪い癖を思い出して、男は照れ隠しのように頭を掻いた。
それは、誰の目にも止まることなく。
闇に吸い込まれていった。
部屋に戻ると、バンダナの男が自身のベッドに座って腕を組んでいた。
パッと見だけでも恐ろしい風貌だ。縄張りに入ったものを例外なく惨殺するのではないかと思われるほどに。
入る時にも若干の躊躇を覚えたが、入った途端にそれは後悔へと変わった。
――やっぱり入らなきゃよかった。
どのみち部屋に荷物も置いているので入らないで済ますことはできない。それでも、最後に見た彼の様子では何の気なしに入ることはできなかった。
「……世間では、不老不死は苦痛でしかない、とか言われてるな」
地の底から響くような低い声。
「俺たちは、今まさにそれに逆らおうとしてるってわけだ」
そこで若い男は気づいた。
彼が、自分の不死を求める理由を話しだしていることに。
「……そのくらいは、知ってるけど」
思いのほか落ち着いているようだったので、若い男も平常を装って返答をする。
「永遠の生は、永遠の苦しみ。周囲の知った顔がみんな年老いていく中で、自分だけが変わらぬ姿のまま。そしてそのうち知った連中が残らず寿命で死んで、死よりも辛い孤独にさいなまれることになる」
「ああ。寿命で死ぬ前に、みんな気味悪がって自分を避けるようになるから孤独になる、って話もあったな」
ここに来るまでに、いろいろな情報を収集してきた彼ら。その過程において、そういった『一般論』が耳に入ってくるのは必然的なことだったのだろう。それぞれは、あいてがそれを知っていると前提して話を進めている。
「どのみち、なったやつは遅かれ早かれ死を望むようになるってのが結びの文句だった」
「俺は……人が神の領域に踏み込まないようにする戒めみたいなもんだと思ってるが」
「なるほどな……確かにそう聞けば、大抵の人間は不死になるのを嫌がるようになる。死にたくないって同時に感じてしまう、厄介なわがままが尽きないままにな」
このままどこから自分の話を始めるのか。若い男には見当もつかず、ひとまず様子の急変した理由を問いただすことにした。
「確かに、人間はわがままだな……でも、急にどうしたんだ? 関係ない話じゃないが、ここで話しても不毛な気がするぞ」
「滑稽だとは思わないか?」
若い男の言葉を遮るように、バンダナの男は続けた。
「滑稽? どこが?」
「そう言いだした奴が、実際にそんな体験をしたことがあるのかってことだ」
バンダナの男の顔が上がっていた。真剣な目つきで若い男の顔を睨みつけている。
「どういうことだかさっぱりだ」
「食ったことのないメシの味を食ったかのように語れるのかってことだよ」
「……ああ、なるほど」
実際は理解していたのだが、彼がそれを話題に上らせる理由が見当たらない。どのみち彼の『きっかけ』が語られ始めるのは確定しているのだが、この話はどうもそんな単純な話ではなさそうだ。
「俺は腹が立ってたんだ。誰も不老不死になんてなったことないのに、まるで知ったような顔して不老不死は死ぬより辛いって言い張るんだ。でもって、世間はそんな根も葉もない言葉にホイホイついていく。情けなくて涙が出たね」
腕で涙をぬぐうジェスチャーをしてみせる。
「そこまで言うか……」
あきれ顔になりながら若い男も横のベッドに座る。バンダナの男は思いのほか冷静な態度だったので、ひとまずは安心することにしたのだ。
「俺は不老不死になる。そして絶対後悔しない。絶対に」
繰り返すバンダナの男の横顔には、大きな使命を帯びた戦士のような風貌が備わっていた。
誇らしげで、かつ力強い、不思議な雰囲気。
「……不死になりたがる理由を俺に話すのか?」
「……」
反応しないが、もし違っていたらここですぐさま否定してきただろう。彼は否定せず、そのまま次なる言葉を紡ぎ始めた。
「薬を持ってたあの男に話すべきかもしれないが……それは俺のプライドが許さないんだ。おれから聞いたお前があとからあいつに話してくれた方が、俺としては気が楽なんだが」
「俺を伝言板みたいに使わないでくれ」
彼に話す気にはなった。しかし、あんな言い争いをした手前では面と向かって話しづらい。だから若い男に話し、彼から間接的に伝えてもらおうとしているようだ。
彼にも意地があるのだろうと考え、ぶつぶつ言いつつも若い男はそれを承諾した。
「……で? 話すなら早くしてくれ。夜も遅いし、眠い」
「そうか。手短に話すか」
その時初めて若い男は、バンダナの男が頼れる兄のような顔をしたのを見た。
バンダナの男と若い男の見分けがつかなくてすみません。もう少し個性を輝かせた人たちにしたかったのですが……力不足でした。