ふルさト
田舎は静かで住みやすい。何の変化もなくただ時間が過ぎていく。ずっとそう思っていた。
僕が住む地域は、僕が生まれる前から田舎でお店なんて小さな商店が一軒あるだけだった。小学校や保育所もあったけど、入る人数が本当に少なかった。一学年一人なんてことはよくあることだった。そんなことを不思議に思うことはなくて、逆に少ないからこそみんなの仲は良かったと思う。
そんなある日、僕が下校しているとすれ違い様に地域の人たちが何かを話していた。僕の耳には、「トチカイハツ」って聞こえたけど何のことか分からなかった。だから、僕は家に帰ってすぐにお母さんに聞いてみた。
「お母さん、トチカイハツってなに?」
お母さんは突然のことで驚いていたけど、すぐに答えてくれた。
「それはね、ここの土地を×××することなんだよ」
「え?」
僕は聞きとれなくて聞き返した。
「この地域をね、×××するの」
「…なにそれ?」
どうしてかよく聞こえなかったから、僕はまた聞き返した。
「大丈夫よ、危ないことはないからね」
お母さんが言ったその言葉は、何かを隠しているみたいだった。僕は、何だか不気味になって聞くのをやめた。でもその日の夜、聞きとれなかった言葉が気になって眠れなくなった。
次の日の朝、僕はいつも通り学校へ行く準備をしていた。テレビは、なぜか「トチカイハツ」のニュースばかりを放送していた。お父さんやお母さんは食い入るようにテレビを見ていた。何かがおかしいと僕はそう感じた。僕には、テレビの音がほとんど雑音に聞こえていた。
「いってきます!」
僕はそう言って玄関を出たけど、いつもみたいな返事は返ってこなかった。
学校に着いて教室に入ると、クラスのみんなが「トチカイハツ」の話をしていた。教室に入った僕のところに友達のタキがやって来た。
「おっはー、マコト」
「おはよう。なんか騒がしいね」
僕がそう言うとタキは首を縦にふって返事をした。
「そういえばさ、昨日変なことあったんだよー」
「変なことって?」
僕がそう聞き返すとタキは僕の前の席に座った。それを見て、僕も自分の席についた。
「トチカイハツが何なのか父ちゃんに聞いたんだけど、何言ってっか全然わかんなくて…」
タキが話し終わる前に、僕は勢いよく立ち上がった。
「僕も‥!昨日お母さんに聞いたんだけど、なんかよく聞こえなかったんだ」
「え、マコトも?」
「うん。雑音しか聞こえない」
僕がそう言うと、タキは口元に手を置いて何かを考えているようだった。
「なあマコト、今日町探検しないか?」
「え?なんで?」
「町のみんなに、トチカイハツのこと聞きにいこうぜ」
「そっか、そうだな。何かわかるかもしれないし」
「んじゃ、学校終わったら行くぞ!」
突如決まった町探検を、僕とマコトは実行することにした。
学校が終わると、僕たちはさっさと帰る準備をして外に出た。町と言っても遠くに行けないから、僕たちは小学校や商店の周りを探検した。けれど、通る人はなかなかいなくてただ歩いているだけだった。
その時、僕たちの家がある方から高校生のお兄さんが自転車に乗ってやって来た。僕たちは両手で手を振ってお兄さんを呼び止めた。
「どうしたの?」
「あのね、聞きたいことがあるんだ!」
タキがそう聞くとお兄さんは快く頷いてくれた。
「ここでトチカイハツってやるんでしょ?」
「そうらしいね」
「トチカイハツってなにするの?」
お兄さんは少し悩んでから僕たちに教えてくれた。
「えっと、ここらにビルとか建てて×××することだよ」
「え?」
やっぱりよく聞こえない。僕たちは一緒に聞き返していた。
「嬉しいことだよ。でも俺は詳しく知らないから、お父さんとかに聞いてみた方がいいよ!」
お兄さんはそう言うと、また自転車をこいで街に繋がる道路を真っすぐ走っていった。
「なんで聞こえないんだよ!」
「なんでだろう…」
「今度はちゃんと聞いてやる!」
タキは大声で騒いでいた。僕は、聞こえない理由を考えていたけどやっぱり分からなくて、考えるのをすぐにやめた。
お兄さんと会ってから、僕たちは近くの川に行った。二人で平らな石を探して水切りをしていると、ゴミ拾いをするおじさんがやって来た。
「二人とも、水切り上手いなあ」
その言われて僕らは嬉しくなった。
「でしょ!練習頑張ったんだ」
タキがそう答えると、おじさんはほーうっと言って感心していた。僕たちは今がチャンスだと思っておじさんに聞いてみた。
「ねえねえおじさん、トチカイハツって知ってる?」
「ああ、もちろんだよ。ここもそうなるんだってな」
僕たちはアイコンタクトをして、気持ちを耳に集中させた。
「トチカイハツって、どんなことするの?」
「トチカイハツってのはな、ここらが×××になることだ。長年の夢が叶うんだぞ」
「長年の夢?」
僕たちは初めてその言葉を聞いた。聞こえない言葉を聞き返すよりも先に、その言葉が気になっていた。二人で聞き返すとおじさんは話し始めた。
「そうだぞ。俺らが住んでるあらみ市が30年も前から計画していたことなんだ。お前らが生まれるずっと前からな」
おじさんはそう言うと愉快に笑った。僕はおじさんの嬉しそうな顔の中に、少し寂しさが見えた気がした。
「30年も前に決まってたの?!」
タキはすごく驚いたようで、川の中にいる魚に聞こえそうなくらい大きな声を出した。僕は想像もできない話に驚いてぼーっとしてしまった。
「完成するとき、お前らは何歳になってんだろうな」
おじさんはそう言いながら立ち上がって、ゴミが入った袋を持ってどこかに行った。
いつの間にか空は赤くなり始めていた。僕たちは、手に持っていた石を捨てて来た道を戻ることにした。
「30年も前から、決まってたことなんだなー」
「想像できないね」
僕たちは探検を始めた時と比べて静かなテンションになっていた。自分の頭の上を簡単に飛び越えていく話を聞いて、頭は疲れ果ててしまった。僕たちはとぼとぼとゆっくり歩いた。
「なあ、喉乾かね?」
「乾いた」
喉が渇いた僕たちは、小学校の坂下にある商店で飲み物を買って、ベンチに座って少し休むことにした。空は夕暮れで夕日が僕たちを真正面から照らしていた。眩しいけどどこか心地よくて、僕は体の中が温かくなるのを感じた。そのとき、商店のドアが開いて店主のおじいさんが出てきた。
「こ、こんにちは!」
僕たちは驚いて咄嗟に挨拶をした。おじいさんはにこっと笑って僕たちの隣に座った。
「こんにちは。遊んできたのかい?」
おじいさんの声は優しかった。
「うん、探検してきたんだ」
「そうかいそうかい。お腹すいただろう。これ食べな」
おじいさんは僕たちにジャムパンをくれた。パンを見ると、僕たちのお腹の虫は鳴くことを今思い出したかのように盛大に鳴り出した。僕たちはお礼を言って夢中でパンを食べた。その時、僕の頭の中はジャムの甘さやおじいさんの優しさに溶け出していた。
「本当はね、知りたいことがあったんだ」
「知りたいこと?」
僕は、溶け出した頭で動いている口を止めることは出来なかった。だから素直に聞きたいことを聞いた。
「トチカイハツってどんなことするの?」
僕の言葉を聞いておじいさんの表情が一瞬止まった。でも、またすぐに戻った。
「そうか、トチカイハツのことか」
「父ちゃんに聞いても、なんかよくわかんないこと言ってんだ!」
タキがそう言うと、おじいさんは両手を太ももの上で組んでさっきより濃くなった赤い空を見つめていた。
「この地域の人はみんな、嬉しく思っているだろうよ。わしも嬉しいさ」
「嬉しいことなの?」
僕はおじいさんの顔を見上げて聞いてみた。おじいさんは、泣きそうな顔をしていた。
「嬉しいけど寂しいんだよ」
その言葉に、僕たちは黙り込んだ。沈みかけている夕日の光が、おじいさんの言葉に寄り添っている気がした。そう思うと僕は何だか少し寂しくなった。
「ここは、寂しくなるの?」
「わしは寂しいぞ。この景色が日々変わっていって、終いには見られなくなるかもしれんからな」
おじいさんはそう言うと、ははっと笑ってまた元の表情に戻った。
「トチカイハツって悪いやつなんだな!」
タキは立ち上がって、何もない空気に向かって悪者を倒すヒーローみたいにパンチをくり出している。
「悪者じゃあないさ。ただ、良いことも悪いことも持っているずるいやつなんだよ」
「なにそれー」
「なんだろうな。まあ、この景色を忘れるなってことかの」
「そうだね。きれいだもんね」
僕がそう言うとおじいさんは、またははっと笑って立ち上がった。
「暗くなってきたからもうお帰り。またおいで」
おじいさんは、僕たちに声をかけるとお店の中に入っていった。僕たちは、はーいと返事をして立ち上がり家に向かった。
おじいさんと話しているうちに夕日は沈んでいた。明るさだけがまだ少し残っていて、僕たちはそれを頼りに急いで帰った。
そのとき、トチカイハツをするという場所から声が聞こえてきた。僕たちは気になってしまい、急いでいた足を止めて物陰に隠れた。そして、声のする方を見てみた。すると、そこには作業員みたいな人が4人で何かを囲むように立っていた。少し離れたところから見ていた僕たちは、その何かが見えるところまでずれた。そこには、タヌキが横たわっていた。
「やっちまったなー」
「おいおい、どうするよ」
「どかすしかねえだろ」
「山にでも置いてくっか」
僕たちは、その声を聞いて言葉が出なかった。それでも目が離せなくて四人を見ていた。四人のうち一人がタヌキを持って山の方に歩いていった。山の手前には小さな小川が流れていたけど、その人は気にする素振りも見せずに、小川を挟んでタヌキを山の茂みめがけて投げようとした。でも、タヌキはその人の手から落ちて小川に入ってしまった。
「まじかよ。ま、いっか」
その人はそう言うとそのまま作業場に戻って行った。それを見ていた僕は悲しくて涙がこぼれた。隣を見るとタキも泣いていた。僕たちは涙を拭いて家まで走って帰った。僕はその日、ご飯が食べれなかった。ただ泣きつかれてぐっすり眠ってしまった。
次の日の朝、タキが家にやって来た。僕たちは休みだったから、あの商店に行くことにした。
「こんにちはー」
「はーい」
お店の奥から声が聞こえた。おじいさんがゆっくり出てきた。
「おや、お前たちか。いらっしゃい」
「おじいさん‥」
僕とタキは黙り込んでしまった。そんな僕たちを見て、おじいさんは店の中に連れてってくれた。
「ほれ、座ってこれでも食べな」
おじいさんはまたジャムパンをくれた。僕たちはそれをもらうと、また夢中になって食べた。
「うまいか?」
「うん、すごく美味しい!」
タキの言葉と同時に、僕は何度も頷いた。そして、涙がこぼれた。
「ねえ、おじいさん」
「ん?どうした?」
「トチカイハツって嬉しいことなんだよね?」
「…そうだな」
突然の質問におじいさんは小さな声で答えた。
「でも僕、悲しいんだ」
「どうしてだい?」
僕は流れてくる涙を腕で拭きながら話し続けた。
「昨日、トチカイハツのところでタヌキが死んでたんだ」
隣に座るおじいさんの顔は、少し険しくなった。
「またか」
おじいさんはその一言だけ言うと、深いため息をした。
「またって…?」
「最近、いろんな動物が死んどるんだ」
「え?!」
僕とタキは驚いて声をあげた。
「なんで…」
「森が壊されて食べるものがないから下りてくるんだろうが、運悪く機械に当たったり車に轢かれたりするんだよ」
僕はその言葉を聞いて両手に力が入った。力が入った握りこぶしには、もっと強い力を込めた。
「トチカイハツのせいじゃん!」
僕が涙混じりの声でそう言うと、おじいさんは僕の頭の上に手を乗せて優しく撫でてきた。
「そうかもしれんな。でもな、それを決めたのはわしらなんだよ」
「え…」
おじいさんの言葉に、僕の頭は考えることをやめたくなった。でも、僕はここで考えるのをやめたらいけないと思った。
「俺たちのせいじゃん…」
タキがそう言うと、おじいさんは困ったような顔をして笑った。
「誰かが悪いと言いたいわけじゃないんだ。ただ、物事には表と裏がある。わしらはその裏を知っておかないといけないんだよ」
「裏…?」
おじいさんが何を言っているのかわからなかった。コインみたいに簡単にひっくり返せたらいいのに、と僕は思った。
「そう。裏のことは誰も教えてくれない。だから、お前たちみたいに考える人がいることは大切なんだよ」
「そうなの?」
「ああ、大切じゃ。だから、お前たちが見たタヌキのことは忘れないようにな」
「ぼ、僕、覚えておくよ!」
僕がそう言うと、おじいさんの顔はさっきより晴れていた。
「そうだな、しっかり覚えておくんだぞ。人間は時間が経つと必ず忘れてしまうからな」
「忘れないよ!!」
僕とタキは、この目で見たタヌキの死やおじいさんと話したことを絶対に忘れないと決めた。
「おじいさん、教えてくれてありがとう」
僕たちがお礼を言うと、おじいさんは泣きそうな、でも嬉しそうな顔をしていた。
「これから何が起ころうが、忘れない人がいることはきっと何かのためになるからな」
おじいさんはそう話すと手を振って僕たちを見送ってくれた。僕たちは、その言葉をしっかり理解できていなかったけど、忘れないでいようという思いが強くなったのは確かだった。
おじいさんと別れたあと、僕たちはそれぞれの家に帰り次の日の朝を迎えた。
その日の朝は、なぜか早く目が覚めた。僕はいつもより早く学校に行った。少し時間が違うだけで、朝の空気や景色の見え方が変わった。澄んだ空気は、僕の口から入ってきて身体中を洗ってくれるみたいに気持ちが良かった。
教室に入ると、タキが席に座ってうずくまり寝ているようだった。僕はタキのところに行って声をかけた。
「おはよう、タキ」
僕の声で気がついたタキは、ヒュンっと上半身を起こした。タキの頭には変な寝癖がついていて、目もちゃんと開いていなかった。それを見て、僕はおもいっきり笑ってしまった。
「なんだよー」
「ごめんごめん。昨日寝なかったのか?」
「うん。早く目が覚めたから学校来ちまった」
「僕もだよ」
僕たちの間には、沈黙が流れた。僕の頭には、昨日の出来事が流れていた。
「僕たち忘れないでいれるかな」
僕はぼそっと呟いた。ずっと引っ掛かっていた不安だった。
「大丈夫だろ」
その不安を簡単に吹き飛ばすかのようにタキが言った。
「なんでそう言えるんだよ」
僕は、自分の中に流れる自分だけの不安を誰も分かってくれないと思っていた。僕が誰かの心を覗けないように、誰も他人の心を覗けない。でも、タキは覗いてきたわけじゃない。ただ、僕の不安の横に座ってきただけだった。それが歯がゆくて、反射的に強く言ってしまったことを僕は後悔した。
「だって、俺たち二人がいる。マコトが忘れたら、俺が思い出させる。俺が忘れたら、マコトが思い出させてくれ」
「もし、二人とも忘れたら…?」
「そうだなー。それはその時に考えようぜ!今は今なんだし!」
「…なんだそれ」
僕はタキの話を聞いて、頬も心も緩んでいった。根拠や証拠はないけれど、その時のタキの力強い言葉に僕は説得された。不安になることを考えるよりも、僕が忘れてもタキが思い出させてくれると、僕はそう信じることにした。
それから僕たちは小学校を卒業して、中学、高校へと進んだ。高校に入ると、タキは写真部に入部し、僕は陸上部に入部した。タキは三年間でたくさんの写真を撮り、三年生の時にはいくつもの賞をとっていた。卒業の日、タキは一枚の写真を僕にくれた。僕はその写真を見て泣きそうになったけど、どこか嬉しくもなった。
高校を卒業すると、タキは写真を学べる学校へ、僕は獣医になるため大学へ行った。陸上部時代に脚を故障した僕は、挫折していた時期にあのタヌキを思い出していた。どんなに時間が過ぎようと、僕の頭からタヌキのあの姿は消えなかった。それから、僕は動物たちの命を救いたいと思い獣医の道を選んだ。
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そして、あっという間に時間は過ぎ十年が経った。僕は東京から地元に戻り、小さな動物病院を開設した。今年で二年目になる。
「こんちわー」
僕が開院の準備をしていると、タキが裏のドアを開けて入ってきた。
「マコト持ってきたぞー」
「何を?」
「ほら、これだよ」
タキは、A四サイズの封筒を僕に差し出した。その中には懐かしい景色が写る写真が入っていた。
「うわ、これ…最高じゃん」
「だろ?」
「これはもう、絶対忘れないな」
僕が笑ってそう言うと、タキは照れながらはにかんでいた。
「どんな形でもさ、いろんな記憶残していこうな」
「うん、ありがとうタキ」
僕が写真を受け取ると、タキは店へと戻っていった。
僕は受け取った写真を、さっそく写真立てに入れてあの写真の隣に飾った。
あれから、「長年の夢」だったトチカイハツは着実に進み、僕たちが昔通っていた通学路は今はもうなくなってしまった。住んでいた地域も半分以上が新しい道路にとられ、前の風景は消えてしまった。昨日閉校した小学校も、時間が経つと忘れられていくのだろう。それでも、タキの撮る写真はいつでも僕をその場所に連れて行ってくれる。時間と共に変わっていく景色の中で、タキは「昔」となる場所を今も撮り続けている。タキが撮る写真は人目線で撮られていて、写真を見るとその場にいる気持ちにさせてくれる。だから、忘れることはないんだ。タキはタキの形で、僕は僕の形で昔の記憶も今の記憶も日々引き継いでいる。
時代と共に色褪せていく景色は必ずある。それでも、誰かの中で昔の景色が輝いていれば死んだとは言わないと、僕は強くそう思う。今はもう昔の通学路と小学校の景色は、僕の中で僕と共に生きていく。
二つの写真に映る景色は、いつまでも僕たちの故郷だ。