2-5 底意地が悪いのは分かってるんですが
「とうちゃーく!」
雪彦に代わり先頭を切っていたみくは、くるりと踊るように一回転し弾んだ調子で宣言する。どうやら無事に遺跡に到着したようで。隗斗は篭もった熱を逃がすようにフードをばさばさと扇ぐ。
──ここが、僕の目的に近付くための遺跡か。
まず目に留まったのは、己の身長を大いに超える草花だった。伸び放題、育ち放題。人の手入れを受けていないそれらは悠々自適に生を謳歌している。遠目から見ると遺跡があるとはまるで思えない。みくと雪彦の案内が無ければ素通りしてしまうだろう。
旅人の蒼紅の瞳に映る花の色は、青、薄水、紺碧、藍…寒色のものばかり。地質の問題だろうか?環境によって育つのが常とはいえ、他の色を許さないとでも言いたげである。寒色以外を間引いたのではないか、と推測してみたものの、その線はどうにも薄そうだ。人の手が加わった形跡が見当たらない。
「あっ、だめ。近寄らないで。危険だから」
「…? 分かりました」
胸の前で大きなバツを作った少女。案内はありがたかったが、どうして制止するのか。みくの思惑を推し量れない隗斗は納得を置いて遺跡に意識を集める。
草花の隙間から見えるのは目的としていた遺跡だろう。隗斗は真正面に建つ遺跡をどうにか観察出来ないか、その場を二、三歩動いて様子を窺う。僅かな隙間から覗く古い建造物は、時間によって食い潰されているのが分かった。
砂漠の地にひっそりと聳える遺跡は相当古いらしく、あちこちが退廃へ進んでいる。柱は崩れて形を失っており、扉は人が通れる隙間がギリギリあるか無いかくらい。遺跡の周囲を守るように生える草花の放置具合からして、まともな修復はされていないらしい。
ここまで古い遺跡を見たのは初めてかもしれない。隗斗は感慨深く目の前にある遺跡に視線を送る。確かに、観光向けではない。整備も無ければ、補強さえ手付かずの状態のそれは、神秘と謎に満ち溢れているように映った。
ここに自分が求める手掛かりがある可能性は十分ありえるだろう。
密集する砂漠の民スナトリの住処から離れた場所にある遺跡。まるで隔離されているかのようだと印象を持つ。事実、そうなのだろうと思った。老朽化を辿る遺跡に近付く愚か者はそう居ない。
遺跡を取り囲んだ草花は三メートル以上背丈がある。丁度みく二人分の高さだろう。貴重な文化遺産としては小規模の砂漠の地の遺跡を、すっぽりと覆っている。
無秩序に伸び放題の草花は決して野蛮な印象を与えず、むしろ清廉と高潔な彫刻を目の当たりにしたような感情を抱かせる。そう、この感慨は至高の芸術を前にした者の姿形だ。隗斗は無意識の内に感嘆の溜め息を零す。
「綺麗な遺跡ですね。年季が入っているのに、どこか生き生きとしている」
素直に感想を述べれば、すぐさま否定するかのごとく雪彦が冷酷な言葉を下した。
「この遺跡は誰も手入れをしてない。いや、出来ないとでも言うべきか。周囲の草花が何者も侵入を許さぬように、毒ばかり持ったものなんだ」
毒。穏やかではない単語に隗斗は眉を顰める。
先程まで観光ガイドを嬉々としていたみくも、悲痛に顔を歪め肩を落とした。
「猛毒なんだって。昔、手入れしようと草の根を掻き分けて進もうとした人が居たけど、その人…死んじゃったの」
聞けば、触れただけでもアウトらしい。どんな治療も薬も効かないままに命を失ってしまうもののようで。
雪彦は「遺跡の観光もここまでだぞ」と、どこまでも温度の無い声で進行中断の意を唱える。
より近付いて注視しようとする好奇心旺盛な旅人の足取りを訝しげに見やった雪彦は、隗斗の腕を取って止めた。青年の手の平は冷たく凍えている。その感触に隗斗は思わず「わっ」と声を出す。
「あまり近寄ってはいけない」
話を聞いていなかったのか、とじとりとした目がフードから覗く。
「すみません、ついうっかり」
とぼけた謝罪はほどほどに、隗斗は厳しい目で毒を孕む草花を睨んだ。これまでに大小関係無く何度も毒にやられたことはある。伊達に長年旅路をした訳ではないのだ。毒への耐性と知識はそれなりにある方だと自負していた。
だが、眼前のそれは今までとは異なるもの。ただ触れただけで死に至る毒など初耳である。毒は、様々な方法で体内に摂取してからようやく発揮されるものだ。それが接触だけで死ぬとは恐ろしい。
粘膜や呼吸器官、傷口から毒が侵入してはじめて猛威を揮うのが毒の特性ではなかったらしい。しかし裏を返せば接触しなければ安全ということだ。ウイルスのように、外気に飛散する毒よりマシである。
隗斗はジッと前を見据えて状況を定める。寒色の草花の高さは三メートル。草花は遺跡の周囲をぐるりと生えているだけで、扉付近には生息していない。
(狙うとしたら、そこか)
隗斗の思惑を遮るように、雪彦が一歩前に出て注意をひきつける。
フードを深く被り、表情を隠していた青年。口元しか見せなかった彼は、フードをそっと上げて翡翠色の瞳を旅人に寄越す。剣呑を帯びた雪彦は警告の言葉を口にした。
「アンタが何を目的としてこの地にやって来たのかは聞かない。だが、これで分かっただろう。遺跡の外は見られても、中までは無理だ」
「みんな、中のことは気になってるんだけどね。でも、だめ。残念だけど、ここは危ないから…諦めていただくしかないと思うわ」
雪彦に続きみくが心配そうに眉を下げている。少女の憂う姿を見ていられず、隗斗は「そうですね」と肯定の言を舌に乗せた。
「毒が邪魔立てして、遺跡の中なんてとても行けそうにない。お二人とも、案内と説明ありがとうございました」
旅人の諦観を汲み取ったのだろう。途端、緊張から解けたみくが「よかった」と胸を撫で下ろす。少女を背にした青年雪彦も、安堵の表情を浮かべている。
「今回は見学出来なさそうなので、潔く止めておきます」
今回は、ですけど。
隗斗は心の中で、そっと付け足した。
* * *
「毒の壁。触れると死に至る守衛。越えられない要因としてはまあまあですかね」
時は夜更け。墨を混ぜた夜空にぽっかりと浮き上がる月が美しい。淡い月明かりに照らされた旅人の横顔は、白磁の肌を際立たせている。隗斗は再び遺跡の前に姿を現した。
不作を義務付けられた砂漠の地にしては豪勢な夕飯を頂戴してしばらく時間を置き、寝る準備を思案する頃合の時間帯である。ちなみにサボテンステーキは出なかった。
生命を脅かすほどの酷暑の昼間とは打って変わって、真夜中の砂漠は骨まで凍える空気を醸し出している。隗斗は暖を取る目的で、ベージュのロングコートを羽織っていた。
夕飯を頂き旅人用簡易テントに戻ると、見慣れた靴がきっちりと揃えられていた。スナトリの民の誰かが置いていったのだろう。さすがにずっと裸足で居るのは辛いものがある。
見学出来そうにないから止めておく。そう言ったが、今回に限ったことだ。嘘は言っていない。そして、次回とはたった今。みくと雪彦の案内が居ない単身での見学のことを指す。
あれほど忠告してくれた二人には悪いが、バレなきゃ問題無い。イカサマだってそうだ。誰にも気付かれなければイカサマでは無くなるのだから。
そもそも、外出は禁止されていないのだ。スナトリの長クニミツは「身体を休めていってくれ」と労わってくれた。その厚意につけ込むような真似をするのは心苦しいのだが、隗斗の表情に遠慮の文字は無い。
「底意地が悪いのは分かってるんですが」
遺跡の中は決して荒らさない。何かを持ち去ったりしない。過剰な破壊と強奪は罪だ。命に関わるトラップがあった場合はその限りではないのだが。まあ、その時はその時で。額を地面に擦り付けて謝罪する。
夜のほうが何かと都合が良いのは自覚済みだ。人目が少ないのも利点だろう。だが、ひとつだけ難点がある。旅人としては致命的な欠点。「…見にくい、ああ、形もよく見えない」神代隗斗はいわゆる鳥目であった。
さて、接触すると死ぬ毒の対策を練ろう。恐ろしい威力を誇る草花の毒。触ったらアウト。掠ってもアウト。遺跡を守るように横に広がる草花を、真っ直ぐ突っ切るなど愚直以外の何者でもない。
ならば。と隗斗は長大に伸びる草花に視線を向ける。防衛の術を駄目元でやるにはリスクが高い。横が駄目なら、上か下。下──地面を潜って進むにしても、毒の根が張っていれば無意味と化す。
──なら、壁を越えれば良い。
思考を纏めた隗斗は手の平を前に翳し、意識を集中させた。彼の空を彷彿とさせる蒼髪が風に遊ばれる。否、隗斗が辺りの風で遊んでいるのだ。
「風よ。先駆の架け橋を願い給う──、」
歌う。謳う。謡う。詠う。唄う。
人よ歌え。言葉こそ祖の歴史。人類と怪物の契約。
人よ謳え。聖俗こそはじまりの詩。徒人と魔物の忠誠。
人よ謡え。愛唱こそ連なる結び目。世界と異界の楔。
人よ詠え。生死こそ輪廻の道。万物と尊きものの彼方。
人よ唄え。久遠こそ彼の終焉。人と化け物の邂逅。
「『無明を連ねるもの』」
周囲の風を凝縮させ、眼前に風で形成された階段を模る。きらきらと月の光を乱反射する透明の階段は遺跡の扉前まで続いていた。
隗斗は一段目を踏んで感触を確認する。次いで満足気に口角を上げた。何度か体重をかけてみるが強度は問題無さそうだ。風を編み固めた階段は、まるで高圧なガラスのように硬い。
横も下も駄目なら、上だ。単純明快。多種多様な魔法・魔術が存在するこの世界、隗斗の強引とも呼べる方法を取らずとも安全にことを運べる術もあるのだろうが…
「やはり、単身で強行突破しかないでしょう」
隗斗は脳筋の仲間であった。
毒の草花の上、風の魔法で編んだ階段を一歩一歩進む。月光を反射する階段は無色透明であり、傍からは隗斗が浮いているようにも見えた。
幅は広く作ってある。足さえ滑らせなければ安全に渡れることだろう。ロングコートに足を取られる間抜けも、大きな風に煽られるような不運も、隗斗は見舞われずに遺跡の入り口まで辿り着く。
近くで見ると荘厳さえ感じる遺跡の古さだ。いくつもの時代を越え、幾重の年代も渡ってきたと知れる。スナトリの民と共に在る遺跡は、自分のような旅人さえ受け入れ見守ってきたのだろうか。
「……入り口に重厚な扉は無い」
古くから存在するスナトリの遺跡。神秘を纏い、幻想を魅せる。
このまま、素直に入り口へ進むのが正しいことだろう。隗斗は警戒を怠らず、身を滑らせるように歩を進ませた。ひやり、と肌を撫でる冷風が一段と下がったのを感じながら。