2-1 神代隗斗と申します
──現実世界 八月二十一日・side【神代隗斗】──
ぷつ、と途切れた意識が間を置かず浮上する。
次第に感覚器官が働き出すのが分かった。最初に知覚したのは温度。空気中に熱気が篭もり、蒸し暑い気温が肌を包む。頬に張り付く毛髪の感覚が鬱陶しい。それでも、放り出された砂漠のど真ん中で寝るよりは遥かにマシだろう。
ざわざわ。雑踏と呼ぶには少々不足気味の雑音を耳が拾う。寝起きの頭で拾う単語は「旅人」「起きないな」「どうする」といった自分を気に掛けるものばかり。どの声色も敵意や悪意が含まれておらず、まるで救護室に運び込まれた気分になる。
どうしたものか。装備していた武器を手に取り手近な者を人質にする方法もあったが、それにしてはやけに雰囲気が重苦しくない。そもそも太ももに装着していたホルスターの感覚が無い以上、そのお粗末な作戦も無駄足に終わった。
まあ、身包み剥がされたとか、金品を盗られたとか、そういう不穏な集団でもなさそうだ。あれこれ考えても仕方無い、と瞼を開けると、自分を覗き込む瞳の数が異様に多く僅かに動揺する。予想していたよりも人口密度が高い。
すぐさま己を囲い込む人の特徴を探る。密集する肌の焼けた人ばかりで形成されていた。熱が篭もらないようにラフな格好を身に纏う民族的な人達は皆、目尻を下げ、にっこりと隗斗に微笑み破顔する。警戒心を溶かすお人好しの笑顔に、隗斗の緊張していた筋肉が解れる。
(………僕は、この人達に助けられたのか)
ここはテント内だろうか。独特の暗さで保たれた広い空間の天井を、蒼紅の瞳でぼんやり見つめた。「目が覚めたぞ」「ああ、良かった」「大丈夫か?」安堵の声。そして、隗斗を気遣う言葉の数々が頭上に降り注ぐ。
残念だが、起き抜け早々返事をする気力がどうにも湧かない。仰向けに寝かされた体勢ではあったが、ぐらぐらと頭が揺れている。気分が悪い。嘔吐するまではいかないが、しゃきっと起き上がって意気揚々とお喋り出来そうもない。
奥からうちわを持った青年が駆け寄るのが視界の端に映る。おや、あの青年だけ肌の色が青白いな。砂漠の民にしてはどうしても違和感を覚えてしまう。烏の群れの中、ぽつんと白い鳩が交ざっているような感覚。
たくさんの人間の中で、一番年老いた翁がしゃがれた声で隗斗に問う。
「気が付いたようだね。気分はどうだい?」
おそらく民族の中で立場のある人間なのだろう。長老かな、と隗斗は当たりをつける。
どうやら、気絶した自分は運良く砂漠の民に拾われたようで。あの少女が運んでくれたなら、ぜひともお礼をしなければならない。
意識が戻り、多少は状況が掴めてきた。返事をしようと顔を横に動かせば、額に当てられていた濡れたタオルがずるりと落ちる。そこではじめてタオルの存在を認識した。こまめに冷たい水を交換して絞っていたのか、タオルはぬるくない。
砂漠に住む民にとって水は発展した都市よりも貴重だろう。なのに、行き倒れた余所者に惜しみなく使う温情の厚さに隗斗の胸はじんわりと温かくなる。よくよく観察すれば、自身の両足は丸めた布団の上に安置されており、熱中症の対処に手馴れていると知れた。
服装も出来る限り薄着になっていて、脇にはひやりと冷えたタオルの塊が置いてある。おそらく中には氷があるのだろう。なんと手厚い介抱だろう。人情が溢れてる。パタパタとうちわで扇いでくれる肌の白い青年に向けてお礼を言うと、彼は照れたように俯いた。
「ありがとうございます。おかげさまで、随分と良くなりました」
「それは良かった。ここは旅の者がよく行き倒れていてね、君のような人は今までたくさん居たよ」
だから介抱にも手馴れている、と言外に告げられた隗斗は苦笑する。手馴れた様子を見受けられたのは前例が多々あったらしい。「お恥ずかしい限りですね」その前例の一部になったことが羞恥心をくすぐる。
額に乗せられていたタオルを手に取り上体を起こす。ぐら、と頭の中身が混ざる感覚に酔う。思っていたよりも体力が消耗していたようで。どれだけ砂漠のど真ん中で寝ていたか定かではないが、相当意識を失っていたのかもしれない。
「ワシは砂漠の民スナトリの長老クニミツという。よければ君の名を聞かせてはくれんか」
クニミツと名乗った翁は気さくに隗斗に問い掛ける。柔和な物腰の人たちに感化され、隗斗も快く答えた。
「神代隗斗と申します。此度の温情、感謝いたします」
「ほう、神を名前に含むのか。良い名だ」
クニミツの言葉に、隗斗は苦笑を崩さずに口を一文字に結ぶ。笑顔は何物にも勝る武器だ。相対する人物に余計な勘繰りを与えない優れものである。
隗斗とクニミツのお互いが名乗りあった後、周囲を取り囲んでいた人間が次々に隗斗に名乗っていく。うずうずと会話を邪魔しないようにしていたのだろうが、今やそれは決壊し濁流のごとく隗斗に圧し掛かる。フレンドリー精神溢れる光景に、隗斗はうっすらと身を引く。
それぞれが嵐の勢いで名前を紡いでいく中、常人なら困惑し全ての名を覚えることは不可能だろう。物覚えが抜群に良いとまでは言えないが、そこそこの記憶力だと自負している隗斗は表面上の笑顔はそのままに冷静に対処する。覚えるためには連想し印象付けるのが大事だ。
髭を蓄えたダンディなおじさまはノブシゲさん。真っ黒な髪を背中で一つに結んだお兄さんがキクさん。目尻の皺がチャーミングなおばあちゃんがレイコさん。ピンク色のカチューシャが愛らしい女の子がニコちゃん。
この人はこうで…この人は…、……、……
隗斗は脳内で名前と印象を関連付け、受け答えを繰り返す。結果、砂漠の民の者の名をほとんど記憶した。一仕事終えたような感覚に隗斗はこっそり細く息を吐く。気分としてはやってやったぜ、である。
中でも特に印象深かったのは、隗斗をうちわで扇いでくれた照れ屋な青年だった。
薄暗いテントの中だと灰色に見える髪は、青年の目元を覆い隠している。長い前髪からちらりと見えるのは翡翠色の綺麗な瞳。彼はか細い声で「雪彦」と名前を言った。砂漠の地に住む人間にしては色白で、少々人馴れしていない彼はどうにも記憶に強く残る。
よろしく、と隗斗が握手を求めれば雪彦は目尻を赤く染め、しばしの逡巡の後控えめに握手を応えたのだ。人見知りなのだろう。しかし、隗斗を一番に心配し介抱してくれた彼は心優しい人だと思い至る。
ほとんどの砂漠の民は各自の生活のため、各々散っていった。無理するなよ、とか。腹が減ったら長老に言えばいい、とか。ありがたい言葉をもらった隗斗は一人一人に頭を軽く下げて応じた。
人は減り、今はテントの中にはクニミツと雪彦が隗斗の傍に残っている。そもそも、このテントは長老クニミツの家なのかもしれない。豪華とまでは言えないものの、緩やかなカーブを描くテントは、星を模る細やかな刺繍で紡がれていた。天上部分には模した月が浮かんでいる。
熱中症の症状は大分治まり、ぐるぐると揺れる脳髄の感覚も過ぎ去っていた。手足の脱力感も既に皆無。今すぐ立ち上がって激しい運動をするには心許無いスタミナだが、重症からは外れている。だというのに、雪彦はうちわで緩やかな風を送り続ける。彼をそっと覗き見すると責任感という文字がありありと描かれていた。生真面目だな、と隗斗は内心思う。
酷暑の砂漠にしては涼しい風だと不思議に感じたが、すぐに仮説が立てられた。おそらく、雪彦は氷系統の魔法・魔術に明るい。彼の傍に居ると体感温度がぐっと下がった。砂漠の地ではさぞ重宝がられることだろう。
「そういえば、隗斗くんは何故ここに?」
クニミツは自分の手で扇子を用いて風を送っている。
然程真剣さに欠ける声色だったので、余所者がテリトリーに踏み入ったこと事態に腹を立てている様子は見受けられない。嘘を吐く理由も無いため、隗斗は素直に旅の理由を口にした。
「探し物を。ここには神秘的な遺跡があると聞いたので」
隗斗は自身の願望のため、手当たり次第に曰く付のものを見て回っている。
結果的に旅人となったがそれはそれで良い。旅をしていれば悪い出来事に当たることもあるが、それ以上に絶景や美しいものを目にすることが出来る。目の保養はいつ何時でもして損は無い。
ここ、砂漠の地スナトリには古くより残っている遺跡があると聞いて訪れた。旅人が集まる酒屋の掲示板にも載っていない遺跡だったので、気分は掘り出し物をたまたま発見したようなもの。
隗斗がここに辿り着いたのは半分偶然で半分必然である。噂の又聞きは本来するべきではない、のだが。たまたま近場に居たのも相俟って足を運んだ次第だ。志半ばで砂漠にて倒れたのは馬鹿としか言い様が無い。
「君も遺跡マニアってクチかい。そんな大層なモノじゃないけど、ぜひ見ていってくれ」
「はい。見学さえ出来ればいいので、荒らさないと誓います」
クニミツは隗斗をただの観光客と判断したのか、陽気に許可を下す。これ幸いと言わんばかりに隗斗は笑顔で首肯した。
スナトリに存在する遺跡。古くから在る、というのはそれだけで価値がある。長い年月を耐え、雨に晒され嵐に見舞われても決して倒壊することなくそこに在り続けるには、何らかの理由がついて回るのだ。
エネルギーの密集体。倫理を解いた、人の言語では説明不可能の力。神秘と言えば一番類しているだろうか。オカルトとはまた違う。思考を有し、欲望を宿し、生活を営む知的生命体とは相反するもの。言葉を交わせずとも、荘厳を前に人は感嘆するより他に無い。
そして、神秘の奥には様々なカラクリが息衝いている。隗斗が知りたいのはそこだ。スピリチュアル的な力を分け与えてもらおうなどとは欠片も考えていない。隠された深奥の仕組みの中に、隗斗が最も欲する願望の手掛かりがあるに違いない。それだけが旅の原動力と化している。
「その遺跡……お、俺が、案内してもいい」
ぽつり、と小さく呟いた雪彦の言葉に、隗斗は勢いよく振り返った。
提案したわりに此方に目を向けていないが、意識が向けられている。空耳や独り言の類ではないと判断し、お願いしますと頭を垂れてみる。すると雪彦も慌てて「た、体調が良くなってからだぞ!」と声を張った。
空気が柔らかくなっているのを肌で感じていると、慌しい足音と共にテントの垂れ幕が前触れもなく上げられる。
突如射し込む強烈な光に目が眩み瞳を細める隗斗。暑苦しい空気がテント内を充満する前に雪彦が気温を調節し冷気が周囲を包む。
突然の来訪者を出迎えるように、太陽が後光を照らした。静謐だった雰囲気が一気に霧散し、明るい声が耳朶に響く。
「行き倒れの人が起きたって本当!?」
鈴を転がしたかのような若い少女の声色だ。
扉代わりの垂れ幕を下におろして射光を防ぐ。
隗斗は顔を上げて少女の姿を確認する。少女は丸く大きな瞳を自信満々に輝かせ、猫背とは無縁の活力に満ちた姿をしていた。栗色の髪は肩につかない程度の長さで、両頬には少量のそばかすが散っている。ふっくらとした幼い輪郭は、表情共々彼女をあどけなくさせる。
先程の砂漠の民や、クニミツ、雪彦は統一して静寂な空気を持った人達であったが、少女は活発そうで今を楽しく生きているのだと一見で理解出来た。圧倒的光属性だ、と隗斗は内心で感想を零す。陰鬱という言葉すら知らなさそうな、朗らかで明るい女の子。膝丈の白いワンピースがよく似合う。
「これこれ。彼は意識を取り戻したばかりなのだから、そう大声を出しちゃいけないよ」
クニミツは苦笑を浮かべながら少女を叱る。それでも咎めるようなトーンではなかったので険悪な雰囲気にはならなかった。
「あっ …ごめんなさい」
少女はハッとした様子で両手を口に当てた。今更な動作だが愛らしい仕草に癒される。
すぐに体勢を整え、胡坐を掻いている隗斗と同じ目線になるためにしゃがみ込んだ。にこにこと笑っているのは彼女にとって普通で標準装備なのだろう。
「意識が戻ってよかった。私のこと、わかる?」
「僕を見つけてくれた人ですよね。あの時、名乗っていたような……みく、でしたか?」
語尾が跳ね上がり疑問になったのは自信がないからである。おそらく名字は砂取だろう。砂漠の民は皆同じ名字であった。推定みくは目を丸め、すぐに柔らかく微笑む。嬉しそうに、楽しそうに。
「その呼び方、とってもいいわ! ねえ、ぜひ、みくって呼んでくださる?」
「…構いませんが、やっぱり間違ってましたか」
「間違っているというか、足りないだけ。私は砂取みくの。覚えててくださって嬉しい、ふふ」
惜しかったらしい。意識が朦朧としていたとはいえ、人の名前を間違って覚えていたことに隗斗はこっそり恥じた。
しかし少女本人は然程気に留めていないようで。怒りや悲しみとは無縁そうな、陽だまりの中に居るほうがしっくり来る。
己を助けてくれたであろう少女──砂取みくの。本人があだ名を好ましく感じたならば、みくと呼ぼう。みくは少女らしいほっそりとした手の平をこちらに寄越す。隗斗は握手に快く享受した。
「みく、僕を助けてくれてありがとう。神代隗斗です、よろしく」
約四十人相手に自己紹介をし終わった隗斗は手馴れたように名乗り返す。
みくの方から握手を求めてきたのだから、彼女は相当人懐っこい。繋がれた手は強く結ばれ、よろしく!と元気な一言を添えられた。
雪彦とは間逆だと感じて彼を見てみたが、雪彦はみくが居る方向を頑なに見ようとはしなかった。確かに対極のタイプだろうが、彼が照れ屋だと片付けるには拒絶の色が強いように思う。どうしてだろう、と疑問に成長する前の違和感が喉に引っ掛かる。
その違和感を声に出す前に、意識をみくへと戻す。スナトリの民の交友関係をいきなり勘繰るのは失礼どころの話ではない。多少時間を重ねたとしても、やっていいことと悪いことがある。人間関係への質問など、後者でしか無い。
隗斗の不躾な思考を打ち切るように、みくは自分の目を指で差し、隗斗に向き直る。
「すっごくきれいな目。オッドアイ…って言うのかな?」
どき、と胸が弾む。それは決して高鳴りだとか、踊るような歓喜ではない。もっとずっと、心がずれて軋むような無遠慮の問い掛け。
目のことを、聞かれている。問われている。隗斗は自分の表情が凍らないように、コントロールへ全力を注ぐ。みくは蕩けるような笑顔で言葉を続けた。
「赤と青、まるで宝石みたい」
「…どうも、ありがとうございます」
少々間が空いただろうか。いや、相槌の範囲内だとどこか他人事の目線で隗斗は思う。言葉を重ねるみくに罪は無い。悪意も無い。しかし確実に、隗斗の癪を抉った。
(この娘、随分と世間知らずなことで)
隗斗は内心で嘆息を零す。この世界にとって【赤】は忌み嫌われる色として名高い。忌み色、と呼ばれる赤は差別の対象としても成り得るのだ。他にも少数民族の内輪で嫌われる色はあるだろうが割愛しよう。
赤とは汚らわしい血の色であり、恐怖を煽る忌まわしい色であり、命を脅かす危険を示すものであり、人々を興奮に陥れる魔性の色であり、様々な災厄を呼び寄せる色彩と呼ばれている。
それを片目とはいえ、生まれ落ちた時から持ち合わせている隗斗は、数え切れないほどの罵倒や中傷を受けた。今となっては塞がった傷だが、不躾にも触られると不愉快にもなる。
何十年も時を過ごした隗斗は感情を表に出さずに礼を言い、隙の無い笑みを携え心に生まれた感情を潰す。大丈夫、不自然じゃなかった。みくの言葉に偽りは感じない。だから、宝石みたいに綺麗という言は嘘じゃない。はず。
──何の虚飾もなく綺麗、と言われたのは正直、別腹で嬉しかったのだけれど…
それはそれ、これはこれ。
人の見た目を褒めるのは上等だが、タブーを知らなければこの先苦労しそうだと隗斗は他所事ながら思った。