二日目に目が覚めました。
次の日に起きた。
仕事が気になっていたので起きた。
そこには課長と泣いたお母さんと弟がいた。
分からない場所だ。
「仕事が心配です」
と言った。
課長が「眠れ」と言った。
寝た。
起きたら暗かった。
ぼーとして寝た。
この時の状態と言いますと、
倒れた後に救急車を呼んでグランドに運び、ヘリコプターで加古川の救急医療センターに搬送になったのだ。
残った会社の方は心配と共にションベンの掃除をしていたそうです。
課長はグランドまで救急車で行きましたが、ヘリコプターには乗れず、会社の人に頼み加古川まで向かったのです。
で、医療センターで服を切り、入院服にして検査に。救急医療室で寝かされ、
家族に言ったそうです。
脳の左視床で出血。
手術は危険。
このまま出血が止まらなければ死ぬ。
居ても何も出来ないので帰宅するようにと。
それが一日目。
血が止まったが目が覚めないとこのままですと、言われて声をかけたが一切反応しない私。
代わる代わる声をかけるも、課長が来て声をかけてもらい、起きたのが二日目でした。
この時の事を聞いて感謝しかないです。
しかし、私はこの時に話した言葉も伝わりませんでしたし、顔を見て誰だろう?あっ、お母さん?弟?妹?課長?としか分からず、名前も出ませんでした。
お母さんと言えば母親ですよね。
今はわかります。
その時は親ではなく、お母さんとしか分かりません。肉親とも親とも思わず。
いつも言っている言葉が思い浮かんだだけ。
いわば、知ってる!見たことある!あの人!
と同じような事でした。
で、左の脳にダメージを受けると右側に障害がでます。私も後に知ることになるのですが、右側が動かなくなっていました。右側とは?右手とか腕とか足ではなく、体を上から下で半分にして右が動作しないのです。
頭の先から爪先までの半身が動きません。
言葉も話したと思ったのですが、誰も聞き取れない程のうめき声でした。
そこから4日後に医療室の小部屋、大部屋となり病室に移るのです。10日は医療室に居たのです。
この間の食事はと言うと7日目の大部屋でオートミールを食べたでした。
今思うと、以外と食べなくても大丈夫かな?と思いましたよ。無理ですがね。
ま、先に進み過ぎましたが、課長の声で目が覚める事が出来ました。
そして二日目が過ぎたのです。