第二十六話 決壊
明美の一日は大抵早くから始まる。と言うのも祖父母が早起きで、他人より音に敏感な彼女にはそれが目覚ましとして十分な役割を果たしているのだ。
幼い彼女にとっての朝とは祖母の手伝いと朝食と、他人より寝起きが悪い父親の目覚ましと、出掛けるための時間である。そしてその時間は九条社に勤める社員達の朝よりも少し早く、彼女と出社する社員とが顔を会わせることは殆ど無い。それでも夕方に帰宅すれば、社員達はまだ働いており、それから二時間もすると部屋の窓からポツポツと帰宅する彼らを眺める事が出来た。
彼女はそれを飽きもせず毎日覗いていたのだが、ある日からセーラー服の少女が出入りするようになった事に気が付いた。いつしかセーラー服がレディーススーツに変わった事も。
初めは物珍しさからか、明美はスーツ姿の少女の帰宅を眺めるのが楽しみになっていた。それも気付けば少女の背中を追う事に夢中になっていた。祖母、望美が嬉しそうに話すのである。少女の名は朝倉だと。そして少女が九条社に幸福と変革を運んでくるのだと。
そうして彼女の中で朝倉京子と言う存在が憧れへと昇華した頃、栄介と秋栄が明美の主な話し相手になっていた。祖母と話さなくなったのでは無く、朝倉の話を専らする望美との間に割って入るように二人が構ってくるのだ。事の真意は幼い明美には分からずとも父と祖父が相手をしてくれる事は嬉しいものだった。
それはある日のことだった。栄介は朝倉京子の相手をしていて、望美もそれに付いていて。帰って行く社員の背中を眺めていた明美に話しかけたのは秋栄だけだった。
「明美、また外を見てるのかい?」
「うん。今日は朝倉さん、遅いね」
秋栄にとって明美の興味が朝倉へ向かっている事は好ましく無かったが、かと言ってそれを否定する考えは遠ざけていた。明美の教育の為に悪い事を、自分が否定し遠ざけてはそれこそ教育に悪いと考えたのだ。
「朝倉さんはお爺ちゃんとまだ仕事だよ。あの子もまだ若いから、覚える事がいっぱいなんだ」
「ふーん。あたしも会って話してみたいなあ」
娘は随分と朝倉京子に関心を持っているのだな、と考えなかったわけでは無かった。
じわ、じわりと秋栄は自分の内側に染み込んでくる何かについに気付くことなく無造作に口を開いてしまう。
「なら、会って話してみるかい?」
それからはもう引っこみも付かず、秋栄は自分の意思とは無関係に言葉を滑らせていった。
「お婆ちゃんの孫だ。明美、お前ももしかしたら——」