第十五話 引潮
「お父さん! おーとーさん‼︎ 遅刻するよ!」
雄鶏の声より目覚ましの音より、秋栄は愛娘の声で目を覚ますことが多くなった。妻の死から十年が過ぎようとする五月のことだった。
「いってきます」
コンクリートでしっかり舗装された道を、おさげを揺らしながら走っていく明美の背を見送ると秋栄は欠伸をしながらノリの利いたシャツに袖を通す。九条社の看板もずいぶん古ぼけて、綺麗になり続ける町並みから取り残されたように屋敷は佇んでいた。
秋栄は葬儀後すぐ日本に戻らされた。栄介から瑛太に頼み込んで、九条社の後を継ぐ準備も兼ねて入社する事になったのだった。それが栄介の言い分だったが、孫と会いたいのが半分とその世話を負担してやりたいのが半分だろうと秋栄は瑛太から耳打ちされて幼少を過ごした屋敷へと戻ってきた。
「母さんおはよう。父さんはもう下かな」
「ええ、アキも早く行かないと」
九条社はすでに望美の魔法を使わなくなっていた。その力が無くとも栄介は立派に取引仲介を行える実力があったし、なにより望美の負担を取り去ってやりたかったのだ。
望美は片目の視力を失っていた。正解を弾き出す演算力も、真理を見通す視力も、無条件の物ではなかったという事だ。何かの拍子に望美自身に影響が出る、後にバックファイアと呼ばれる現象であった。望美の魔法には媒介が存在せず、内在的に処理が行われていたため少しの齟齬が身体に影響する、それが判明してからは望美は内部事務に徹させていた。
「父さ……おはようございます社長」
娘に叩き起こされるだらしない父も、ビシッとスーツを着こなしてオフィスである一階に降りれば一端の商社マンである。父であり社長でもある栄介に挨拶をすると、デスクとブラウン管モニターのパソコンが並べられた部屋に入っていった。
同じ頃未来の魔法商女が一人、運命の岐路に立とうとしていた。
彼女は加耶岬市と名前を変えた地元の高校に通う二年生であった。成績こそ優秀なものの素行に問題があり停学する事も多かった彼女だが、ついにこの年退学の危機に陥る事になる。
彼女こそのちに【Un de blanc comme neige】を発現する若かりし朝倉京子その人であった。