第十一話 出発
兄瑛太は長いようで実際のところ数日の籠城から一夜明けると、何もなかったように会社へと出勤した。
瑛太は一度も通帳の事や会社を建てろと言った事も含め、あの夜の事を栄介に切り出す事はなかった。ただそれでも栄介の手元には手元に置くには重たすぎる桁の書かれた通帳が残されていた。
「栄介さん、入りますよ」
書斎の座卓で本を読みふける栄介の背中に、ふすまを開ける音と妻の声が飛んできた。
「瑛太さんはあのあと何にもおっしゃらんですか」
「うん……。兄さんの事だから、僕から動き出すまでは」
どうしても歯切れの悪い言葉しか返せない事が妙に栄介の気を逸らせて、にぎった通帳の重さがずんとまた重たくなっていくように感じてしまう。
「……会社を建てろと、兄さんが言うんだ。ただ望美さんと一緒に九条の会社と同じような物を作るだけではきっと……いや、絶対に兄さんはそんな程度の事にこんな額を投資したりはしない筈だ」
深く思いつめたような表情の栄介だったが、思案の深く先、奥の方から覗く手繰るには拙すぎる糸の存在に気付いた様子でもあった。
「……栄介さん。私には学も名前も無いですけど、お二人が私に何かを垣間見たんですよね」
ぎゅっと握られた栄介の両拳をすくい上げるように、望美は両手を広げて通帳ごと包み込んだ。
「そんなら、私も向き合います。私のこのよう分からん自信と、お二人の感じた物を」
「……うん。一緒に……一緒に兄さんを驚かせてやろう」
栄介の瞳はまた一段と強く、そして幼い少年のような輝きを放ち始めるのだった。
それから半年が過ぎて、屋敷は門前に新品の看板を備え付けられ、ぽつぽつと人の出入りが目立つようになって行った。
小さな看板には大きく【経営取引仲介及び意見案内所 九条社】と彫り込まれていた。