第八話 殻
「兄さん! 居るんだろう、出てきてくれ兄さん!」
兄の背中に影を見たあの夜、それはもう三日も前の事だった。
「栄介さん今日は……。そうですか……」
ちゃぶ台の前にどっかりと座り込んだ栄介に、望美はおそるおそる問いかける。その問いの末も聞き届ける前、彼女が言葉を言い淀みつっかえを喉から追い出さんとする間に栄介は首を横に振って見せた。
この三日間、瑛太は離れの戸に錠をかけ通風窓から適当な返事をこぼす他は一切、二人と勿論他の誰とも関わりを持たないでいた。
「あそこには昔兄さんが引いた水道も、前々から貯めていた食料も多少ある。返事も聞こえるし無事だとは思うけれど……」
弟が案じていたのは兄の身などではなかった。無論栄介と瑛太の仲はかつてと何も変わらず、ただ兄が自分の命に障るような事を避けられぬような人ではないと信頼していたのだ。
栄介は毎日のように説得に来る兄の部下、社員たちを見てそれを案じていた。
一族で繋いできた地元では大きな企業であったが、父亡き後瑛太が半ば一人で建て直した会社からその兄が抜けてしまえば社の行く末を指し示す磁石と、舵を切り石炭を焼べる運転士とをいっぺんに失ってしまったようなものだ。
「父さんの代から勤めている人だっている。このままだとそんな人達は黙ってはいないはずだし、なんとか兄さんを説得しないといけない……」
やかんに入った麦茶をそのまま注ぎ口から飲んで、また立ち上がって離れへ向かって歩き始めた。
「……栄介さん」
肩まで捲り上げられたシャツの袖をクイと引っ張られ、栄介は歩みの出鼻を挫かれる。
半身振り返ればそこには強く瞳を向ける望美の姿だけが映った。
「……こう言うんはなんですけど、落ち着いて下さい。身近な人にほど返せん言葉もあると思うんです」
もう半身振り返って相対した栄介の、固く握った拳を両手で包み込むと、望美は柔らかくその凝り固まった緊張を解きほぐしていった。
「少し私に話をさせてもらえませんか? 仕事の人とも兄弟とも話せん事を話してもらえるかは分かりませんけど、物は試し言いますから」
穏やかなその言葉に首を縦に振ると、栄介はすれ違い兄の元へ歩いていく妻の姿を背中で見届けた。
縁側を少しして外履きの下駄で離れまで、気持ち早足で辿り着くと望美は正面の戸ではなく裏手に回って固く閉ざされたままの雨戸を三度叩いた。
「……瑛太さん、ここに。ここにおるんでしょう。話をしませんか」
しんと静まり返るその前に望美はもう一度先程より強く雨戸を叩いてみた。