第五話 膿
瑛太は二人を座間へと案内した時、お茶を出そうと急須に湯を注ごうとした。
しかしそんな事は後だと食い下がる弟に負けて、結局座る事もない栄介の話を立ったまま聞き届けていた。
望美が英書を読めた事と、算術を解き明かした事。全て引っくるめて本人が目の前で証明して見せた。
しかしその後でも瑛太の顔色が変わる事は無く。
「にわかには信じられんな。望美さんは農家の娘で、そんなものを習う暇も金も無かったはずだぞ」
兄の反応も二人とはまた異なるものだった。
困惑でも歓喜でもなく、そこには疑いや呆れ、要は栄介の言葉など一切信じてなどいないと言う様子である。
当事者である望美の困惑は当然、他者である瑛太の反応は至極当然の物であって、栄介自身も自分の反応がどこかズレている事は理解していた。
「それでも現に読み解いて、知識として飲み込んでいるんだ。望美さんには才能がある、僕よりも兄さんのいる場所に近い能力がある。そうじゃないかな」
瑛太は栄介の言葉を信じてなどいない。それでも目の前で望美がして見せた解法と読み上げて見せた英書の訳までも信じていなかった訳ではなかった。
それでも瑛太の感情が大きく揺さぶられる事は無く、しかしまったく無反応とはいかず頭の片隅である可能性が引っかかっていた。
「とにかく、望美さんの才能だろうと能力だろうとお前自身がそれを解かなければ話にならんだろう。良かったな、教鞭を取れる者が増えたぞ」
からかい混じりにそう応えると、栄介の肩を叩き兄の姿はまた奥へと引っ込んでいってしまった。
「どうして兄さんは分かってくれないんだ……」
ぼそりと呟くその胸中は、常人とは多少食い違っていた。
栄介が兄を訪ねたのは、妻を社に迎えてもらう為だった。未だ男性社会であったこの時代のただそれだけの理由で望美の能力が活かされない事がただ一つの恐怖で、同時に彼女の助けになる事だけが彼の本懐になっている。
しかし先の態度を見て理解した通り、瑛太は望美を迎え入れるつもりも、ましてや栄介が望美を支える為に会社に入らない事を認めるつもりなどあるはずも無かった。
肩を落とす栄介の背をさすりながら、望美は母屋へと栄介を引っ張って行く。
その夜、瑛太の頭の片隅で引っかかっていた物は、いとも簡単に鬼へと変貌するのだった。