第三話 前兆
「栄介さん栄介さん。そんな格好で寝んで下さい」
栄介と望美が夫婦になってふた月。
着物も間に合い、婚儀は無事執り行われ晴れて九条望美として兄弟の住む九条の屋敷へと入ったのだった。
「ああ、ごめん。今起きるよ」
紐閉じの本の山から起き上がってまた手元に開いた活版の若葉色の本に目を通す。
栄介も所帯を持つ身ということで兄の斡旋で会社に勤める事になった。社長である父親が逝去していたため復興の最中に瑛太が立て直した九条貿易へと。
その為の条件として最低限の英語教養と商用算術を学んでいる最中だった。
「兄さんも僕と五つしか変わらないのに、これ全部頭に入れて社員の人を仕切っているんだもんなぁ。変な人だけどやっぱり凄い兄を誇りに思うよ」
ぱんぱんと本の山を手のひらで上から叩きながらそう言った。
その兄である瑛太はと言えば、二人に気を利かせてか元来の性分からか母屋に二人を住まわせて離れで生活していた。
もっとも食事の時は同じ卓を囲むし、風呂やらの水場も一つしか無い。少し離れた自分の部屋とでも言ったところか、兄弟間も別段悪くなったと言うものでも無かった。
「しかし随分眠っていたつもりだったけど、まだ眠たいや。望美さん、もう布団を出してくれないかな?」
「はいはい、言われんでも栄介さんの事ならわかっとりますよ」
少しだけ開いた襖の先でろうそくの明かりに照らされた布団を指さすと、望美は微笑みかけて肩を抱いた。
「無理なさらんで下さいね。体が一番の資本ですよ」
「うん、おやすみ」
スーッと襖の閉まる音と共に、ゆらゆら揺れながら伸びていた弱々しかった明かりも千切れて、部屋の中は電球の濃い明かりと窓を抜ける夜風の音だけになった。
「栄介さんも瑛太さんも、何が楽しくてこんな本ばっかり。私には何が書いてあるかもさっぱり——」
ボソボソと独り言を呟きながら、望美は一つだけあった活版の、英語で書かれた表紙の本をペラペラとめくっていた。
そしてふと目を留めて行を視線でなぞっている最中に、その独り言と一緒に不意な違和感をどこかへ追いやってしまう。
横書きで連ねられたアルファベットの羅列も、漢数字算用数字入り混じった奔放な手書きの算術書の山も望美には等しく理解できない束としか写っていなかった。
理解できない束は不可解にも本人の意思や判断の及ばないところで身近な事柄に落ち着いて、望美は足を崩す事も忘れて英語の本を読みふけった。
「おはよう望美さん……? 望美さん?」
「栄介さん……私、何がどうなっとるのか…………」
明くる朝、望美は合わせて三十二冊の算術書と英冊子を読み終えていた。