第十九話 be
ちょうど半紙に墨を垂らしたように、じわりじわりと認識が上書きされていった。そこは壁。何もなく、剥げた塗装を塗り直した跡でちぐはぐになった白塗りのコンクリートで、ほんの数メートルの余裕をもたせて魔女と一人の社長、そしてパイプ椅子と長机を連ねた空間のはずで。
ひたっ、ひた、ひたひたと数度にわたって滴る墨汁でみるみるうちにその認識は染め直された。
白い半紙の上に浮かび上がったのは濃紺のスーツ姿で、ちょうど並び立つようにして魔女、桜田の隣に現れた。
「私達、と。後ろに誰がいるんだか、嫌なもんだ。全部筒抜けなのかい」
余裕の笑みも、頼りの澄まし顔も、安堵さえくれたしたり顔も消えて朝倉は、挑発の語調とは裏腹に弱々しく二人の魔女を睨みつける。
「そうピリ。ピリしないで、はじめま。して。桜田の同、僚岩垣と申、します、私で、は朝。倉京子貴、女には太、刀打ち出来。ない」
この時は、真希も柿谷も朝倉の異変には気付いていなかった。
朝倉は強く、ただ自分達よりも強く、魔女よりも強く。それだけの認識で二人は気付くことが出来なかった。
「柿谷、こっちのは分が悪すぎる。正直あっちのも見た感じじゃダメっぽいけど、無理でもなんとかしな」
とーんと一小節沈黙が流れる。それから十六分と八分の休符を挟んで二人の緩んだ表情は凍りついた。
「あら、もしかしてもう気付いたのかしら。いえ当然ですね。影響を二度も目撃しているのですから、貴女ほどならば」
桜田の言葉のピリオドも聞かず、慌ててしまい込んだ電卓を鞄から引きずり出し、ポケットにしまい損ねたそろばんに押し付ける。
「絶対。珠算! 発動!」
叫びとプラスチックのぶつかる音に紛れて鈍い音を鳴らし、柿谷の手のひらは電卓を取りこぼした。
白い長机にピッと赤い線が書き込まれると、そのまま指先に覆い被さるように柿谷は身をうずくまらせた。
「まあ痛そうですね。爪を挟みました? ダメですよ狭い場所で腕を振り回したら」
目に涙を溜めながら、柿谷は強く息を吐いて桜田の言葉ごと睨み返す。指先を握りしめた右手の手のひらにはべっとりと血が溜まり、痛みと何かに震えて撒き散らすように滴り落としていた。
「発動、純。白の……」
発しかけて朝倉は言霊を噛み潰す。そしてそれを飲み下したまま、冷笑を浮かべる岩垣と名乗った魔女をひと睨みした。飲み込んだ膿を吐き出すように、朝倉はまた言霊を唱え直す。
「純。白の、賽でダ、メらしいから……。仕方ない、【Un de blanc comme neige】発動!」
言の葉を載せて、左耳のピアスは今までよりも強く鋭い光で朝倉を飲み込んだ。