第十話 弱者
黒炎の中から現れたのは二つのサイコロだった。
それは宙に生まれて、地面に落ちる。そして砕けて灰になるだけだった。
そんな様子を視界の端に捉えた稲村は怪訝な顔を浮かべながら、何かに押さえつけられた今の状況を脱すべく腕を立て、足を堪え、口を開いて笑みを浮かべる。
「どんなトリックかしら……? 魔法商女に人を傷付ける力なんて無い筈なのだけれど」
「【磨り潰す】第四の腕。重ねて顕現、【握り潰す】第三の掌」
骨の軋む音、折れる音、裂け砕け散る音。肉の千切れる様と飛び散る血潮。
朝倉の眼前では一つの人間が肉に成り果てる過程が映し出されていた。
「磨り潰す第四の腕。握り潰す第三の掌。面白い魔法ね」
声は近くから聞こえてきた。
ゆっくりと振り返ると、そこには着衣の乱れも無い新品の稲村の姿があった。
「模倣開始、握り潰す第三の掌!」
付箋を掴み、威勢の良い声を上げる。
やがて拳の隙間から黒炎が溢れ出し、たちまち稲村の周りを取り囲うように燃え広がった。
「さあ、どんな魔法なのか。じっくり見せてもらおうかしら」
黒炎は轟々と燃え上がっていたが、次第にそれも弱くなり、おさまればそこには付箋の燃え殻が落ちているだけに終わった。
稲村の余裕のある笑みも消え、焦燥と懐疑の色を浮かべて朝倉を睨みつける。
「【突き穿つ】悲哀の爪痕——」
新たな魔法の詠唱に身構え、三歩間合いを取って稲村も付箋に文字を書き込む。
その時、稲村の耳に届いたのは水の滴るような音だった。
びたびたと足元で鬱陶しく鳴る音に気を取られ、少し視線を泳がせた先には真っ赤な血溜まりが出来ていた。
頬、喉、指先、手の甲。稲村の体は自分の手の届く範囲で抉ったような傷に満ちていた。
文字を書き込もうとした付箋は血で染まりふやけきって、ボールペンもインクなのか自分の血なのかもはっきりしない筆跡しか残せなかった。
「重ねて顕現。【掬い留める】慈愛の抱擁」
混乱から覚めぬ中、稲村は血の海に溺れることになった。
焦り狼狽え、字の如く足元を掬われる。
稲村自身から溢れ出た血液は、ゆっくりと足元から這い上がり体全体を覆い尽くさんとしていた。
足を振るってみても手で払ってみても血液の進行は一切足を止めることはなく、丁度全身をスッポリと覆いつくしてしまう。
必死になって顔に纏わり付いた自分の血を振り払おうともがいていた稲村も、結局一度の呼吸も成せぬまま仰向けに倒れていった。
「まだあったのか。便利なデコイだな」
朝倉は肉塊にも血の塊にも関心を示さない。
視線の先にいたのは今までのどの稲村明美よりも小さく見える、恐怖に震えた稲村だった。
「【磨り潰す】第五の——」
朝倉は言霊の続きを飲み込んだ。
立っていることすらままならない、這いつくばって逃げる事しかできない稲村に同情したからでは無い。
それがデコイでは無いと気付いたからだ。
「…………稲村明美」
朝倉の呼びかけに体を震わせ、手で、腕で頭を覆うように小さくうずくまる事が今の稲村には精一杯の保身だった。
「話せ。お前の目的、理由、その不可解な魔法の事。そして……」
一言一句にうずくまったまま必死に首を縦に振り、言葉を詰まらせた朝倉の方に視線だけを動かした。
「……間宮智恵の事を」
そして、稲村は小さく頷いた。