第八話 楔
一月四日午後五時。
ボッ、ボッと何かが燃え爆ぜる音が細い路地の中にこだました。
不敵に笑んだ稲村の拳が、ゆっくりと緩められて指の隙間から真っ黒な炎が零れだす。
斜陽に照らされた黒炎は次第に姿を変え、真っ白な天秤の形を成した。
「最後の天秤。貴女も知っているわね」
風に煽られ傾くたびに天秤は軋み、それにつられるように柿谷の表情は一層暗くなっていった。
一言目を発しそこねて、二言目。俯いたまま飲み込んだ言葉を少しづつ吐き出していく。
「……はい。それは、間宮さんの——」
「そう、間宮智恵の魔法。でもそれは正しい答えじゃない」
途切れ途切れに吐き出される言葉に、封じ込めるように被せられた稲村の言葉と、笑みの消えた冷徹な視線。
無意識に荒くなる柿谷の呼吸とは裏腹に、震えた声は驚くほどスラスラと出てきた。
「間宮さんの……。間宮さんが使っていた魔法……」
「そう、彼女はもう魔法商女では無い。間宮智恵への憧れや期待があるのなら、今ここで捨て去りなさい」
稲村は指を鳴らした。
一つの会話の終わりと、それは魔法の終わりを告げて最後の天秤はどろりと形を崩してまた黒炎へと姿を戻す。
「本題に入りましょうか、柿谷さん。貴女は、魔法商女間宮の最期を見てなお……。あんな物と同じ道を辿るつもりかしら?」
「……あんな……物?」
稲村の非情な一言一言が柿谷を刺す。ただの空気の震えが、柿谷の体をひどく震わせた。
「そう」
右手を口元に当て、それまで大きく変わることのなかった表情は口角を吊り上げる。
あふれだす笑い声を抑えながら稲村は嬉々として続けた。
「私に魔法を奪われて、居場所も仲間も全て奪われて。もう魔法商女ですらない魔女の体で、惨めに一人よがっていたあの間宮智恵と同じ道。貴女も辿るのかしら?」
憤り、顔を上げて掴みかかった柿谷の目に、見た事もない程顔をゆがませて笑う稲村の姿があった。
勢いそのまま胸ぐらを掴んだ柿谷だったが、その得体の知れない嫌悪感からすぐに手を離して間合いを離す。
「あら、良い判断ね。その判断を続ける事をお勧めするわ」
睨みつける柿谷など意に介さず付箋を一枚、何かを書き込むと指で弾いて足元に捨て置いた。
「貴女にはまだ、二人もお友達が居るでしょう?」
付箋の束をポケットにしまって、踵を返して歩き出す。
柿谷もそれを追いかけようとしたが、ふと足元に落とされていた紙くずを目に止めた。
「…………っ!」
拾い上げようとしゃがみ込みながら、付箋に書かれた言葉を手の届く寸前で理解する。
そして理解を終えた頃には、既に足音すら消えていた。