第五話 予兆
朝倉が教鞭を取り出して二時間ほどが経った。
テキストを読み込み、深く唸り続ける柿谷に付きっきりになる形で、真希が朝倉に教えを受けたのはほんの十数分だった。
『最優先はイメージだ。取引をするのに必要な物。いや、あれば便利な物でも良い。具体的なイメージを作ること』
オフィスの玄関を出て、朝倉の言葉を頭の中で反芻しながら今まで見てきた魔法商女による取引を思い返す。
『イメージが決まれば次はそれに沿った媒介を準備すること。柿谷のそろばんと電卓なんてのは教科書みたいな解答例さね』
『間違ってもインクとかピアスなんて持ち出すなよ。手間ばっかりかかってロクなことは無かったからな』
頭の中で徐々に固まりつつある魔法のイメージを段々と身近にある物へと近づけて行く。
ふっ、と一息吐くとゆっくり瞼を開けてポケットの中からボールペンを一本取り出した。
『あとは魔法の素養次第だ。これまで発動出来なかった以上、ここにちっとばかし難があるかも知れないけどまあ——』
後に続く朝倉の言葉を反復して、ボールペンをぎゅっと握りしめる。
目を瞑って、イメージしている魔法の形を手の中の細いプラスチックに近づけていく。
目を開けた時、変化は何一つ起こってなどおらず胸中に沸いて出たのは落胆と焦燥。
それでもその中に、小さな希望を持って何度も発動を試みる。目を瞑り、イメージを浮かべ、恐る恐る目を開く。
二十五度ほど繰り返してなお変化を見せないボールペンに、流石に辟易してオフィスに戻って行った。
ボールペンはペン立てに戻して朝倉と柿谷の元へ向かう。
「お、首尾はどうだい……って、聞くまでも無さそうだな」
無言で俯く真希を見て、座っていた椅子の背もたれから椅子を倒すように降りると、眼鏡を外して歩み寄って来た。
「まあ焦るこた無いって。そこの馬鹿もすぐにモノになる。それに——」
真希の横で立ち止まり、くるっと身を返すと肩を抱き込んで不敵な笑みを浮かべる。
「——この京子先生が守っててやるんだからな。核シェルターにでも入った気持ちで居なよ」
肩に回していた手で背中を強く叩くと、朝倉はまた柿谷のところへ戻って行った。
肩甲骨の少し下辺りにジンジンと痛みを感じながら、真希は小さく拳を作るとまた玄関を飛び出した。
目を瞑ってイメージを浮かべる。初めて見た天秤のイメージ、初めて操作したそろばんのイメージ。
そして今背中に感じる痛みとサイコロのイメージ。
ふと、いま自分が媒介に出来るような物を何も持っていないことを思い出し、イメージを崩さぬよう何度も目を瞑りながらペン立ての前まで戻ってきた。
そして先程使っていたボールペンに手を掛けた時、真希の右手は爆音とともに光に飲まれた。