第三十二話 眼
轟音と共に天秤が倒れた。それを目で追う、何の事は無い数秒の事だった。しかし、その数秒の後、真希の発した小さな呼び声に間宮はハッとしたように振り返った。
「さがしたぞ……間宮」
「朝倉さん……貴女……」
間宮は困惑を理解へと昇華し、また同時に恐怖と不安に包まれた。
一方で真希は先程以上の困惑に包まれていた。目の前の女性は誰だろう。かつて二度自分の前に現れた余裕のある不敵な笑みでも、今朝現れた食いかからんばかりの剣幕でも無い、穏やかな表情の女性。真希はそれが同じ人物だと理解するのに少しの時間を要した。
「まあ、あんたらにはデカイ相手だったな。まあそんなに落ち込むなよ」
真希達に微笑みかける事も、間宮を睨む事も無い。朝倉はただ穏やかで、それでいて冷ややかな目を倒れた天秤に向け続けていた。
「あっさり、だったな。昔よりも弱くなってる自覚はあるんだろうな?」
左耳のピアスに手を当て、その冷ややかな視線を天秤の主に向け直した。
「っ‼︎ そんな目で……! 私を見るなぁああ‼︎‼︎」
取り乱し、畏怖し、悪意に溺れ声を荒げる。
ただそれだけの一時だった。
「発動、【純白の賽】」
金属の割れる甲高い音が鳴り、天秤の皿は砕け散った。曲がり切っていた支柱は黒く染まり、皿を失った腕は溶解するように垂れていった。
光を失った天秤とは裏腹に朝倉のつけていたピアスだった物は、強い光を発し、二つに分かれて形を成す。
曇りの無い純白の正六面体は、その身と反する様な黒々とした点を植え付けられ、賽子の様相を作り上げた。
「天秤が……」
最初に口を開いたのは、柿谷だった。
勝利に緩んだ心が口を開かせた。他に何の理由も無く、純粋に歓喜がこぼれ出した結果だった。
そしてこぼれ出した歓喜は伝染し、真希の表情をも和らげた。
間宮を打ち倒したと言う喜びでは無い。間宮を止めることが出来た、と言う安堵から真希の心は緩んでいく。
筈だった。
視界に映ったのは、苦悶の表情を浮かべた朝倉の姿。そして、その視線の先にあった間宮の異様な姿だった。
声を押し殺し、床にうち伏せられながら顔を抑える間宮に違和感を覚えた。泣いている? 違う。泣いてなどいない。苦しんでいる? 何に。
その答えが分かった時、真希は戦慄した。
「っ⁈ 間宮さん‼︎」
真希の目に映った間宮は、眼孔から黒い炎を上げていたのだった。