第三十話 不倒
「……出来るのかしら? 貴女に」
真希の不敵さに相対し、先程までの余裕ある笑みを少し冷たくする。
しかしそんな間宮の視線を厭わず、真希は柿谷に指示を送った。
「柿谷さん。絶対珠算を終了して、ここへ来る前にフロントで会った子を探してきてくれないかしら」
「分かりました。えっと、城ヶ済さんですね」
真希の言葉を受けるとなんの戸惑いも無く電卓を回収し、絶対珠算を元の小さなそろばんの形へと戻していく。
「沢衛材株式会社との取引資料の青色のバインダーを持ってきて欲しいの」
電卓とそろばんをポケットに押し込む柿谷に囁くと、柿谷はそのまま会議室から飛び出して行った。
「可愛い後輩を使って、何をしようと言うのかしら?」
危惧しているようでも無く、かと言って嘲るようでも無い、唯純粋な興味を向けるような口調で問いかける。
「何も……しませんよ」
一瞬だけ、間宮はがっかりした。何の事は無い自分の優位に対してどんな手を打って来るのかと言う期待を裏切るような言葉を受けた事に熱を失ったのだ。
しかし熱を失い、冷め切った思考回路は必要以上の感情移入を止め、この後起こりうる可能性を模索する作業に移って行く。
「何をしない……ね。そうだと知れば、あの子も悲しむんじゃ無いかしら?」
鎌かけでもブラフでも何でも無い、かと言って深からぬ意味も無い上辺だけの言葉を投げかけ、思考に没頭する。
「それは、柿谷さんが帰って来てから分かることです」
互いに無為な言葉を投げるのを止め、場が完全に沈黙してから五分程すると二つの足音が聞こえてきた。
「柿谷さん、帰って来たみたいね」
先に口を開いたのは間宮だった。
無為な言葉になど耳も貸さず、真希はドアを開けて入って来た柿谷と城ヶ済から分厚いバインダーを受け取った。
「真希さん、これは一体……」
沢衛材(株)取引と油性ペンで殴り書かれた、妙に分厚いバインダーを不思議そうな目で見る柿谷に真希は小さく答えた。
「取引資料は会議室にあった物が全部じゃ無いのよ」
取引を円滑に進めるために、膨大な資料と伝票の中から選び抜かれた情報が詰まっている物が会議に使われていた資料。少なくとも最初はそう思っていた。
しかし以前自分で纏めた資料では無く、恐らく間宮の持ち込んだ虚偽の資料が今使われている事に感づいた真希は、“情報の根拠まで纏められた”スクラップとも思える資料を使う事で信頼性を高める作戦を思い付いた。
「水月部長、手元の資料とバインダーの資料を見比べて見てください」
慣れた手つきで資料を捲り、開いたバインダーを水月の目の前に差し出した。
「円……これが一体なんだと言うんだ」
真希の顔を覗き込み、そしてバインダーのページを覗き込み困ったような声を上げた。
「今行われている沢衛材株式会社との取引資料のスクラップです。これを見れば手元の資料がどれだけデタラメか――」
「だから、これは“沢衛材”との資料だろう。今は沢衛材との取引会議だぞ」
真希は身震いした。水月の言葉そのものにでは無く、水月の言葉を“受け入れかけた”自分に。そして、自分が受け入れかけたと言う事実にだ。
「残念だったわね、円さん」
間宮の言葉が耳に届くと共に、真希は柿谷と城ヶ済の方を振り向いた。
「真希さん……この資料一体何の関係があるんですか? 沢衛材(株)って……今は沢衛材株式会社との……っ⁉︎」
悪寒として現れた恐怖は、既に柿谷までも飲み込んでいた。