第三十七話 死
朝倉京子はその手を伸ばす。希望を繋ぐため、窮地を脱するために、比喩ではなく手を伸ばしその一歩を大きく蹴り出した。
閃光が収まるよりほんの少しだけ早く、朝倉の伸ばした右手は顔を覆った泥人形の腕に届き、そしてその生暖かい血の通った泥塊を鷲掴みにした。そして確信を持って口角を上げ狂気的に笑いかける。
「掴まえた——」
バシャッと液体の飛び散るような音が微かに響いた。次第に取り戻された視界の中に、間宮と柿谷は左腕を赤く染めた九条の姿と、血の中に転がる朝倉の靴を見つけ出す。
「〜〜ッ⁉︎」
絶望の声など上がらない。全てを覚悟し、ただ一人を信じて、間宮智恵は動じない事を約束してきた。打ち拉がれる後輩の手を握り、立ち尽くす九条の姿を睨みつけ続ける。
力任せに薙ぎ払われた泥人形の左腕は、小動物を撥ねとばすダンプカーのように彼女の身体を吹き飛ばし、朝倉京子は間違いなくここで死んだ。理解し、納得した上で、人形はより一層警戒を強め汚れたスーツを脱ぎ捨てる。
「……京子……?」
そうして待ち続けた人形はその静寂に段々腹を立て始めた。ほんの十数秒でしか無い間に、待ち望む朝倉京子は本当にたった今自ら屠ってしまったのでは無いかと、思考を巡らせる。そうしてやっと現実に引き戻されたのだ。
「……本当に……殺してしまったのか……」
朝倉京子は彼自身の手で間違いなく殺されている。その事を確信した上で彼女を薙ぎ払い、その事を受け入れられず彼女の再起を待ち望んでいた。九条瑛太はやっと冷静に現実を受け入れる事が出来る機会を押し付けられたのだ。
「……そうか、仕方がないな」
そうして人形は視線を二人の方へ移し、ゆっくりと口を開く。
「折角だ、君の趣向に付き合おう……。【生まれ変わる】己が両腕、顕現」
右手は杖をついたまま、左手はネクタイを締めなおしているまま、彼の両腕はボンヤリと生まれ変わり始めた。その拳は人形の身の丈半分程もあり、その腕は空に浮かぶ雲の様に揺らめきながら九条の背後に漂い始める。
そして固く握られたその拳で、九条瑛太は自身の背後を思い切り振り抜いた。
「うぅっ⁉︎ 一体何を……⁉︎」
振り抜かれた巨大な腕が突風を巻き起こす事はなかった。しかしそれが打ち砕いた何かが、火花とともに爆風を上げ土煙を巻き起こす。目を覆い、伏せていた二人が再び顔を上げたその先にはネクタイを掴む左手を胸元にぶら下げ、折れた杖を頼りに膝をつく泥人形の姿だった。