第二十六話 闇黒
影はもう見えなくなった。しかし肌を刺すような緊張感が収まることはなく、間宮はただ車を飛ばし続ける。
ダッシュボードの上で揺れる小さな天秤を何度も横目に確認しながら、バンッと言う破裂音とともに間宮は遂に車を止めた。勿論止めざるをえなかったと言うだけの事でもある。
「……ブローさせちゃった…………」
ハンドルにごつんと額をぶつけ、陳謝の気持ちに目を強く瞑った。二人はその足でまた目に見えぬ目的地を求めて歩き始める。
「間宮さん、一体どこへ向かって……」
「分からない……けど、京子さんはきっと私達の道標になってくれているはず。だから天秤の引き合う方、賽のある方へ」
歯切れの悪い言葉とは裏腹に彼女の返答は妙に落ち着いていて、柿谷も不思議と確信を持っていた。朝倉京子の無事と、その力の絶対性に。
それから二人は一時間足らず歩き回り続けることになった。疲弊した体と、徐々に募り始めた不安と不信。時折見せる天秤の揺らぎの意味も、彼女達は嫌という程に理解していた。
「急がないと……私達がしっかりしないと、円さん達が……ッ!」
ぼたっ、とそれは降ってくる。雨よりも数段大きな黒い水の塊は、間宮の周りを取り囲むように渇いた地面に染みを作り始めた。
「……柿谷さん。まだ走る元気はある……?」
「…………でも……ッ!」
その手を掴もうとする柿谷の手を払い、間宮はもう一本のボールペンを胸ポケットから抜き出し、抵抗の言霊を叫ぶ。
「悪徳と劣情、ただ仮面のままに。優雅なる利得と失落帯びし旋律に踊る弱者——」
歯を食いしばり走り出した柿谷の後ろで、墨汁のような液体は意志を持って間宮の体を包み隠してしまった。最後の言霊を掻き消すように。
『——一時は烈火。果ては悪鬼。募る祈りと絶望の輪廻を舞わす指揮者。淫靡と汚濁に塗れた騎手の矛先は、血に穢された聖者の咽に!』
降り注ぐ闇のその上から、更に激しく叩き下ろす言霊の雨は、黒い塊を鋭く貫き、一帯の光を奪い去る。
『暗転せよ、大いなるものよ。窒息せし子等と共に。首絞め吐き出す泥の内に、闇の焔よ灯らんとせよ! 発動! 【La balance du dictateur】』
それは悪夢の再来とも映る光景だった。黒は既に霧散し、そこには闇が闊歩する。
柿谷の背中も小さくなり、並び立つ影と一人対峙するその姿は、かつての闇の魔女だった。