第十二話 泡
滑落し砕けた吊るし皿も、頭を垂れるようにへし折れた支柱も、焼き払われた網膜も、全てがそこにはあった。
「……どうなっているのかしら……? 媒介が無ければ魔法は発現しない。だと言うのにむしろその光を取り戻すなんて、貴女も大概デタラメな存在みたいね……」
思い描いていた理想へと数段飛ばしで駆け上ってきた目の前の現実に、稲村は喜びと同時に困惑を隠しきれない。平静を取り繕ってみても、どうしても言葉の端々に動揺の色が滲み出してしまう。
「しかし視力が戻った事は私にとって都合が良い。願っても無い副産物ね」
稲村としては気圧されまいとした挑発のつもりでもあったのだが、目の前の魔女はただの一つとしてリアクションを見せず、またそれが余計に不審や不安を募らせ彼女の表情を曇らせた。
「……間宮さん——」」
眼前の靄を振り払うようにそのの袂へ手を伸ばしたその時、黒い天秤は姿を崩しそれこそインクのように真っ黒な液体となって床に叩きつけられた。
足元まで走ってきた黒い波を二、三歩後退りすると、稲村はハッとしたように床からまた間宮へと視線を戻した。
「…………そう、そうなのね……」
彼女は視線の中央に、黒い沼の真ん中でボソボソと呟いた魔女の次の行動を見張る。先の一件の時とは違う、穏やかな素顔をした間宮が見せる次手を待ち焦がれていた。
しかし、彼女の期待はあっさりと裏切られてしまう。
「…………ッ⁉︎ 間宮さん貴女……」
「ええ……ごめんなさい」
間宮智恵は彼女以上に困惑した表情で笑いかけるように振り返った。
「目も……結局また見えなくなってしまったし、天秤も維持出来なかっただけなの……」
流石に落胆する。その双眼はまた白く濁ってしまっていたのだ。結局現実が理想を乖離して更に上回るという事は無いのだと、一度は浮かれた心をまた低く落ち着ける。
「……それでも一度は発動する事に成功しているわ。元々魔法商女の力の発現には何らかの切っ掛けが存在するのだし、勝手を知った状態でまたやり直すだけだと思えば随分気が楽になるでしょう」
それは間宮に投げかけた慰めでは無く、自分に言い聞かせた戒めであった。自分のしている無茶の難解さと、それ故に容易く達せられる筈のない事を再認識する為の。
「一度場所を変えましょうか。手を貸すわ」
バシャバシャと水溜りを躊躇無く越え間宮の手を取ると、彼女はゆっくりとその場を後にした。