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第三章

~3.浅い眠りに堕ちての章~


 闇夜の中に浮かび上がるなだらかな山の稜線に向かい歩く。

 緩やかに流れる川に沿って坂道をゆっくり登り切るともうすぐだ。

 疲れた――。

 部屋に帰りバッグをベッドの脇に置くと、そのまま魅華は横になった。

 ソロコンサート。準備が大変だ。様々な思いが魅華の中を駆け巡る。

 音大時代。

 学内コンサートに於いて教授たちは、創設以来最高の旋律だ。『魂を揺り動かす旋律』だと、彼女のピアノを絶賛した。

 その直後、魅華は教授室に呼ばれた。オーストリアへの留学の薦めだった。

 奨学金を受けながら何とか大学に通う魅華にとって、その手続き期日の前夜まで、彼女は母に話せなかった。まして事業を倒産にまで陥れられた傷跡が未だ癒えていない父には聞かせる話ではないと思った。

 今でも顔を会わす度に老いた父は云う。

「魅華――すまなかった。お前の夢を断ってしまったね。あの時、私にもっと力があったら、叶えてあげれただろうに……」

「パパ、何を言っているの、今でもワタシにはピアノがあるじゃない。パパ、居てくれてありがとう」

 そんなとき決まって母は傍にいない。母は覚えているからだ。父に寄り添いながらも、胸の奥深いどこかで今でも無言の責めを父に送り続けているのだろうか。

 赦しているなら覚えていないはずだ。

 どんなに生活が困窮しよとも魅華がピアノを断念することだけは許さなかった母。

 留学手続きの期日の前夜、魅華は父が寝入った後、留学の薦めと、その辞退の意を固めていることを母に告げた。母は狂ったように嗚咽した。母はワタシに何を求めていたのだろう。

 どうしてあんなにもワタシがピアノを続けてゆくことに拘り続けていたのだろうか。

 もちろんピアノを続けてゆくのはワタシの生甲斐だ。母に強要されて続けた訳じゃない。

 地方の豪農の末娘として育った母と、都会で代々事業を営む家系の長男として育った父。

 このふたりはあまりにも違いすぎる。

 事業家としては優しすぎた父。主婦としては華やかすぎた母。

 それでもお互いに補い合える何かがあるからこそ今も一緒にいるのだろう。


 ワタシには補い合える誰かは居ない。いつもそうだった。

 大学院に進んで間もなく、徹と知り合った。

 彼はもうずっと前からワタシを知っていたという。専攻は違ったが入学間もない頃からだという。半ば彼の強引なアプローチに押し切られて気がつけば同棲していた。

 彼の大学への進学は趣味の延長でしかなかった。

『ビッグなアーティストになって世間をあっと言わせてやるんだ。オレは売れるさ。音大卒はそのためのひとつの看板さ。クラシックなんて窮屈で出来るかよ』

 開業医の三男だった。

 自分勝手で強引で、何時も夢だけを追いかけている男だった。

 だけどワタシが沈んでいる時には絶妙なタイミングで優しくしてくれる。

 大学を卒業してからも彼はライブコンサートを何度も開催した。

 会場の選定や手配も機材の準備もステージ衣装やチケットにポスター、コンサートの進行演出、そのどれをとってもプロのアーティストのそれに引けを取らない凝りようだった。

 大手プロダクションに幾度もデモを送りつけたりしていた。そんな資金は全て親元から出ていた。

 お遊びだ――。

 彼はただ自分の夢に酔っていただけだ。

 自分の夢をあれこれ書き出せば、必要なモノは即座に整えられる。

 与えられるのだ。幸せなオトコだ。

 彼にとっては、リストアップする作業が彼の努力であり苦労だったのだ。

 リストが完成すれば、それが自分の実力であると彼は錯覚していたのだ。

 産まれ落ちた環境の違いとはこういうことを言うのかも知れない。

 今思えば、本当は不幸なオトコだったのかも知れない。

 ワタシはそんな彼のリストに書き込まれた中のひとつのモノでしかなかった。

 魅華の卒業を待っていたかのように徹はプロポーズした。

 徹の両親は反対しなかった。だけど、喜んだとも思えない。

 魅華の父は、「そうか、お前も、もうそんな歳頃になったのか」とだけ云った。

 母はこの上なく喜んだ。

 同棲と結婚。なにが変わるのだろうと思った。

 姓が変わり新しい親戚がひとつ増えるだけだ。

 それと、これでもう自分の親とは、同じお墓には入れないのだなと。

 魅華は思う。ワタシはどうして徹と結婚したのだろう――。

 あ、そうか、徹はワタシが身体を委ねたハジメテのオトコだったから。

 もっともっとドラマチックな理由があったとしたら離婚なんてなかったのかも知れない。

 結婚してからも、相変わらず彼は夢を見たままだった。

 ライブに明け暮れて、まるでワタシは彼の飾りだった。

 少しだけひとよりも容姿が良かったワタシは彼を引き立てるためのアクセサリーのひとつでしかなかった。

 ライブで食べて行けるなんてとんでもなかった。そんな実力も技量も彼には無かった。

 親元からの支援があるからこそ成り立った生活だった。

 ささやかでいい。華やかな生活なんて望んでいなかった。ふたりで向き合いながら暖かくなりたかった。だけど――叶わなかった。

 義父が健在な間はそんな彼に誰ひとり何も言わなかったし、生活も変わらなかった。けれど突然に義父が倒れ、病院の一切を長男が跡を継ぐことになってからは、全てが変わった。彼ひとりの力ではライブは愚か毎月の食費でさえまま成らない。

 これまでの目に余るほど奔放に振舞ってきた彼に、ふたりの兄は一切の支援を拒んだ。

 義母に兄達を説得する術はなかった。

 住居は結婚したときに買い与えられたマンションだったからすぐに生活の場所を失うことはなかった。だけど、維持してゆけるのは時間の問題でしかなかった。

 魅華は子供向けのピアノ教室に通いはじめた。教室のレッスンが空いた日には、個人宅のレッスンにも訪問しながら自分たちの生活を成り立たせようと頑張った。

 そんな魅華を横目で見ながら、徹は荒れていった。

 荒れる以外に彼には術がなかったのだろう。

 その日の夕方、魅華は訪問レッスンを終えて部屋に帰った。

 リビングに入ると、ワタシの――スタインウェイの周りに、握り潰したビールの空き缶が散乱している。

 その前に立ちながら、じっとそれを見つめていた。

 泣いている。スタインウェイが。

 立っていることが堪らなく苦しくなってその場に膝を折った。それを拾い集めようとしたけれど、目が滲んでうまく拾えなかった。

 彼の気配を背で――感じた。

 彼はワタシの腕を引っ張って寝室へ連れてゆこうとした。

 腕を引き返そうとした瞬間に彼の手拳が飛んだ。次の瞬間、鉄の味がした。

 あとは真白になっていた。

 真白な世界の中で、黒い影が荒い息を放ちながらワタシに覆い被さり蠢いていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 彼は云った。

「お前の身体凄くいいんだからさ、それにプラスして男を悦ばせるためのテクニックのひとつくらい早く覚えろよ。毎回同じ恰好でオレの下でキュウキュウ鳴いてるだけじゃオレもいい加減に飽きてくる。爪くらい伸ばして綺麗に飾った指で淫らに悦ばしてくれよな。お前って全然分かっていない女だな」

(ワタシはいったいアナタの何なの? 全然分かっていない女……)

 悲しくなって目が滲んでなにも視えなかった。

 徹は玄関に向かいながら、振り向きもせずに云った。

「今夜は帰らないからな。これから打ち合わせだ。ビッグになってやるから楽しみにしとけよ」

 このオトコはまだライブのためのリストを書こうとしているのか。

 書き出すだけでは、望みは、もう、叶わない――。

〈爪くらい伸ばして綺麗に飾った指で淫らに悦ばしてくれよな………………〉

 なにを――分かれというのだ。

 ――アナタに何が分かる。

 この手は、オトコを悦ばせるための――――玩具なんかじゃない。


 スタインウェイの前に頭を項垂れて浅い眠りに落ちていた魅華に、天上から一条の光が射しこんだ。天空からは無数の真っ白な柔らかな羽がひらひらと舞い降りた。

 一条の光りは真白な柔らかな羽と相まって荘厳の輝きとなり魅華に降り注いだ。

 満ち溢れた輝きはゆっくりと魅華を擁き始め、全てを包みこみ終えようとしていた。

 その時だった。

 耳朶を劈くような轟音が轟き、魅華を擁き包みこもうとしていた輝きがすぅと消えた。

 はっとして魅華は項垂れていた頭をあげ、リビングの壁の時計をみると、午前5時を少し過ぎていた。

 誰かが、今にも打ち破りそうなほど玄関ドアを狂ったように激しく叩いているのだった。見えない恐怖が魅華を襲った。


 両手で頭を覆い、耳を塞ぎ、恐怖から後ずさりビングの隅に小さくなって震える魅華。

 ドアは激しく打ち叩き続けられる。

 無秩序に打ち叩き続けられるドアの向こうから怒鳴り声が混じって聞こえた。

「早く開けろ! バカヤロウ! 魅華! さっさと早く開けろ!」

 トオル……。

 膝に力が入らない。やっとの思いで立ち上がり、今にも倒れそうになりながら廊下の壁に寄りかかりやっとドアの施錠を解いた。

 早朝の廊下に乾いた音が響いた。

 その途端、外側からもぎ取るようにドアが引かれた。

「バカヤロウ!」

 ドアが開き切る前に、徹は玄関に傾れ込んだかと思うと、壁に寄りかかりやっと立っている魅華の髪を強く掴み引き下げた。前のめりになると、鋭く折った徹の膝が魅華のみぞおちに食い込んだ。

「――ぐぅっっ」息が出来ない……。

 魅華の涼しげな切れ長の瞳が見る見るうちに充血してゆく。その場に崩れ、冷たい床に頬を付けうなだれる。

「それくらいで大袈裟に倒れてるんじゃねえよ! 起きてさっさと何か作れ。腹減ってんだよ!」

 廊下に倒れ、うずくまる魅華を跨ぐように徹はリビングへ入っていった。

 リビングと対面式になっているキッチンの冷蔵庫を乱暴に開け、無造作に缶ビールを取るとその場で一気に飲んでいる。

 片手でみぞおちをおさえ、前屈みになりながら、もう片方の手で壁伝いに身体を支え、リビングの入口に立ち、魅華はそんな徹を見つめた。

「なんだよ! なんか言いたいことあるなら、言ってみろよ!」

「…………」

「お前のそういうところがムカつくんだよ! 早く何か作れよ」

 言い放つと徹は飲み干したビールの缶を握り潰し、魅華に向かって投げつけると、ソファに倒れこんだ。

 切れ長の瞳から零れ落ちそうになるものを魅華は手の甲で拭いながら、開け広げられたままの冷蔵庫の前に立つと、朝食の用意を始めた。

 フライドエッグにベーコンと野菜を添えて、テーブルに置く。

 コーヒーを入れ、トーストしたパンを別の皿に置くと、魅華は徹をみた。

 いつの間にか、ソファで寝入っている。

「ゴハン、できたわよ」

「…………」

 薄く眼を開いた徹は何も言わずにテーブルの前に座った。

 手をつけず、目の前にあるそれを徹はじっと見つめていた。

「こんなもん食えるか!」

 テーブルクロスを引き上げて立ち上がると、座っていた椅子を蹴り飛ばした。

 食器が激しく床に砕け散る。

 肩を震わせて拳を握り絞め、膝を震わせながら徹は云った。

「なんか言ってみろよ! え! 言えよ! お前もオレをバカにしているんだろう!」

 床にうずくまり砕け散った食器を拾い集める魅華の髪を掴み上げ、徹は拳を魅華の頬に浴びせた。唇が切れ、魅華の頬が見る見るうちに青く腫れあがってゆく。徹の指の間には幾本もの魅華の髪が絡みついていた。

 いつものことだ――。――いつの頃からだろう。

 もう――、慣れた。ワタシに何を――言えというのだ。

「早くなんとか言えよ! バカにしているんだろう! 言えよ! 言ってみろよ!」

「ぐぅ……っ。うぅっ……」

 再び拳が浴びせられた。床に手をつき崩れる魅華を徹は見下ろしていた。

「なんなんだよ! え! 文句のひとつくらい言ってみろよ! バカじゃねーかお前は、それとも苛められて感じてるのかお前は、気持ち悪い女だな!」

 徹は罵声を浴びせると、床に付いた魅華の両手をにじる様に踏みつけた。

「やめて! 手、手だけはやめて! この手、手だけは……嫌! 手だけは絶対に嫌!」

 砕け散った食器が魅華の手のひらに食い込む。指から真紅の滴りがじわじわと床を染める。壮絶な絶叫の――叫びであった。

 魅華の叫びに徹は後ずさりした。

 ぜえぜえと肩で荒い息をしながら、膝はがくがくと震えている。

 唇は切れ、腫れあがった瞳に見上げられ、真紅に染められた床。

「オレは、オレは、あああああ――」

 魅華から後ずさり、リビングボードのウィスキーを喉元に垂れ溢しながら狂ったように飲み干すと、徹はその場に倒れた。


 ソファでぜいぜいと不規則な荒い息をしながら、寝入っている徹の顔を魅華はじっと見つめ彼の傍に寄り添い座っていた。やがて荒い息遣いは整った呼吸となっていった。

 短く切り整えられた爪。真紅に染まった両手を徹の頬に添えた。

添えた両手が彼の頬から首筋に滑って落ちてゆく。

 首筋に両手を添えて、魅華は立ち上がった。

 ゆっくりと両手に力を込める。

温かい。なんて温かいのだろう――。

 体重をかけ更に力を増してゆく。これでいいんだ。――これで。

 過ぎた日の様々な想いが魅華の中を駆け巡っていった。

 自分勝手で強引で、何時も夢だけしか見ていなかった徹。

 渾身の力を込めようとした時だった。

 音大時代、魅華が沈み落ちそうになっていたあの頃の彼の声が聞こえた。

『魅華は独りじゃない。オレがずっと傍にいてやるよ。オレだって、すきであの家の息子になった訳じゃないさ。オヤジのせいさ。オフクロはオヤジの元愛人さ。オフクロが生きてたらあんな家にもらわれはしなかったさ。だからオレはあの家を利用してやるのさ。オフクロに代わって復讐してやるんだ』

 穏やかな寝息をたてる徹の顔を見つめた。

 あまりにも穏やかな寝顔だった。穏やかに眠る彼の瞼に一筋の涙の跡があった。

 両手にはもう力は入らなかった。

 魅華は立ち上がり、スタインウェイに向かって云った。

「しばらく、徹をお願いするね。あなたを置ける場所がみつかるまで」

 その日、魅華は部屋をでた。


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