世界の色
――私、もう少ししたら死ぬんだって。
両親と担当の医師が話しているのをこの前、偶然聞いちゃったんだ。
私の中には、手出しできない所に腫瘍がある。
手術する事はできないから、強い薬と放射線を使った治療を受けているんだけど、どうやら状況は芳しくないらしい。
でも私は、私に近付く死を実感しても、そんなに動揺はしなかった。
だって、治療はつらいし、特にやりたいこともないし、友達もいないし、生きていく理由が見つからないから。
あるのはただ、やっと終われる。やっと解放されるんだっていう、張り詰めた空気が抜けていくような、そんな感慨だけ。
――そういえば、一人だけいたっけ。友達とは呼べないけど、それ未満の知り合いが。
隣の病室の、たぶん同い年くらいの男の子。
気が付いたら、いつの間にかよく喋るようになっていた、不思議な男の子。
話しかけてきたのは、確か向こうが最初だったような気がするけど。
彼も私と同じ病気なんだって。でも、私と違って治療がうまくいっているみたい。
うらやましいとは思わない。それが彼の運命で、これが私の運命なんだから。
――あ、今日もきた。
相変わらずの笑顔。
いつも無表情の私とは正反対で、彼はいつも笑顔だ。
改めて振り返ってみると、ほんとうに笑ってる顔しか記憶にない。
いったい何がそんなに楽しいんだろうか。
だから私は、さっき聞いた話をして困らせてやろうと考えた。
すると、彼は笑みを崩さないまま言った。
――大丈夫だよ。絶対に君は死なない。僕が保証するよ。
――呆れた。その根拠の無い自信はどこから溢れてくるんだろう。
でも、その能天気さだけは少し羨ましいかも。
たぶんだけど、彼と私の見ている世界の『色』は全然違う。
私の見ている世界の『色』は、白黒のモノトーン。
そしてたぶん彼は、鮮やかな七色の世界。
――ううん。こいつのことだから、私の想像してる以上に色が濃くて、そして光り輝いてるんだろうな。
まあ、もうすぐ死ぬ私には関係ない事か。
私が鼻を鳴らしてそう言ってやると、彼はにやりと悪戯をするときの子供みたいな笑みを浮かべた。
――今夜、消灯の時間になったら来るよ。連れて行きたい所があるんだ。絶対に寝ちゃだめだよ。
彼はそう言い残すと、回診の時間だからと言って帰って行った。
私の返事など、全く聞くことなく。
――えぇ……めんどくさ。
私は零れ出るため息を吐くと、治療の時間まで寝て過ごすことにした。
ベッドで横になると、窓から雲ひとつない晴れ渡った青空が見えた。
でも私には、その青空はくすんで見えて――。
私は何か無性に腹立たしくなった。
勝手に約束を押し付けて行ったあいつ。
勝手に晴れ渡るこの空。
勝手に私の中に住み込む、この悪魔。
――ま、いっか。
いつの間にかむっとなっていた口元を緩め、この鬱屈とした気持ちをため息と共に吐き出す。
――どうせ、もう少ししたら死ぬんだし。
次、生まれ変わるなら何がいいかなー。
――なんて考えながら、私の意識は闇の中へと吸い込まれていった。
――――――――――――――――――――
――やあ、来たよ。
いつものようにノックもせず、ずかずかと入り込んできた彼は、昼間に寝過ぎたせいで寝付けずにいた私に、笑顔で片手をかかげる。
しらっとした目で見返してやるが、そんな私の無言の「帰れ」というメッセージを無視して、彼は私の眼前に手を差し出して言った。
――さ、行こう。
不承不承。どうせ今日は見たいテレビもやっていなかったし、こいつに付き合ってやるか――と、彼と共に病室を抜け出す。
長く伸びる廊下は、最低限の明かりを残して消されている。
そんな薄暗い廊下を彼に手を引かれながら歩いていく。
――というか、何でこいつはさりげなく私の手を握っているのだろうか。
そんな私の不満を余所に、彼は曲がり角に張り付いてはきょろきょろと辺りを見渡し、まるで潜入ミッションでもしているかのように進んでいく。
確かにこんな所を見つかれば、すぐさま病室へと連れ戻されてしまうだろう。
それに心なしか、こいつはこのスリルを楽しんでいるようにも感じられる。
何とも図太い神経をしているというか、子供っぽいというか――。
私に内心で馬鹿にされているとも知らず、彼は屋上へと続く階段へと足を進める。
連れて行きたい所とは、屋上のことだろうか。
お互い病人ということもあり、息を切らしながら階段を上りきる。
えらい、しんどい、つらい、疲れた――。
こんな事ならトイレにでも逃げてればよかった。
――いや、こいつのことだから、トイレの前で出待ちとかしかねない。というか、絶対する。それも笑顔で。
酸素を求める肺の要求に応じて深く空気を吸い込むと、先ほどの想像で淀んだ気持ちを空気と共に吐き出す。
すると、彼は荒い息を吐きながらも、笑みを崩していないその顔を私へと向けて来て。
――さ、開けるよ。
――いちいち確認しなくてもさっさと開ければいいのに。
そんな私の気持ちが顔に出ていたのか、彼は苦笑して頷くと、いったいどこからもってきたのか、懐から鍵を取り出す。
そしてそのまま鍵穴に差し込み、開錠。
扉を押し開いた。
夜の肌寒い空気が、肌を撫でる。
身震いする私の手を引きながら、彼は落下防止の手すりの元まで歩く。
そして――、
――見てごらん。
――――。
一瞬、言葉を失った。
見下ろす町は、夜の闇を押し返す勢いで燦爛たる光を放っていた。
しかしよく見れば、光は様々な色をし、そしてその輝きの度合いも全て違う。
人が作ったものは、基本的に自然を汚す。
でも、これは、この光色は――。
どうってことない、夜になれば病室からも見える、いつもの景色だ。
でも、どうしてだろう。ちゃんと『色』が見える。華やいで見える。そしてなにより――、
――綺麗だと、そう思える。
しばしの間、呆然とその景色に見入っていたが、ここで私ははっとなる。
私がこんな反応をしたのだ。彼は絶対にドヤ顔でこちらを見ているに違いない。
彼の嫌味ったらしい顔を脳裏に思い浮かべながら、屈辱で頬の辺りが熱くなるのを感じながら振り向いた。
そこには――、
――――。
無言で微笑んだまま、人工の光を網膜に焼き付ける彼の姿がそこにあった。
彼は普段とは違った雰囲気で――。
そしてどこか、悲しそうにも見えた――。
――――――――――――――――――――
色鮮やかな夜の景色を彼と見てから、一か月が過ぎた。
最近、彼は治療が大詰めになったということで、私の病室には足を運んでいない。
おそらく、退院も近いのだろう。
そして私の方も相変わらず、苦しくてつらい治療が続いている。
具体的にいつ死ぬのか。それは分からない。
明日死ぬのか、それとも一週間後、はたまた一か月先の場合もある。
もしかしたら、今日かも――。
なんら変わらない病院生活。ただ死を待つ日々。
しかし変わったことがある。
ひとつは彼が来なくなったこと。もうひとつは――、
――今日は、曇ってるなぁ……。
あの夜以降、私の世界に久しく『色』が戻って来ていた。
曇り空の灰色。でも、以前とは違い、ちゃんとした『色』が認識できる。
それが、分かる。
特に何かが変わったとは思わない。
でも、彼が来ないと暇だな、とは思った。
――――――――――――――――――――
自動ドアをくぐり、外へと出る。
空を仰げば、雲ひとつとない青空が広がっている。
――私は退院した。
私に死をもたらすはずだった腫瘍は、もう私の中にはいない。
医師も驚くほどの快復だった。
何がきっかけだったかは分からない。
――いや、本当は分かっている。
きっと、あの景色を見てからだ。
『色』を取り戻してからだ。
そして、私に『色』を再びもたらしてくれた彼は、もういない。
快復に向かう私とは裏腹に、彼の病状は悪化していった。
そして一昨日、私の退院が決まると同時に、彼は眠るように息を引き取った。
青い空――青。
光り輝く太陽――白。
『色』を認識する私の目から、熱く、透明な想いが溢れ落ちる。
周りの人が不審なものを見る目で横を通り過ぎて行く。
私は空へと手を伸ばす。
この手が触れた、そして今は届かない所へ行ってしまった彼に、もしかしたら触れられるかもと思って――。
――ああ、そうか……私は――
胸の奥が熱く、締め付けられるような痛みを訴えてくる。
私は自覚する。遅すぎる自覚をする。
私はきっと、彼のことが――
――――
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――――――――――――――――
――どれくらいそうしていただろう。
長い入院生活ですっかり筋肉が衰えた、悲鳴を上げる腕を下ろすと、私は頬を伝う水滴を震える手で乱暴に拭う。
そして目を開ければ、『色』のある真っ直ぐ伸びた道が、私の目の前にある。
私は長い息を吐き出すと、足を前へ踏み出した。
そう、歩く。私は歩く。
彼の分まで生きるなんて、そんな大仰なことは言わない。
それでも、彼が見るはずだった『色』は、私が見ようと。
私は歩く。『色』の戻った世界を生きていく。
たったひとつ。彼という名の『色』が欠けた、美しくも儚い、この世界で――。