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それは人々が思い出せないくらい、昔の頃だ。さして大きな争いもなく、平和な日々が続いていた。そんな時代に、特殊な二つの存在が誕生する。
「語り術師」と呼ばれる人々と、彼らが語り術師と呼ばれる理由となった「所有単語」というものだ。
語り術師は、己の内に秘めた強い想いを、具現化出来る者たちのことを言う。その具現化して出来たモノが、所有単語と呼ばれていた。
強く願った想いが現実になるのだから、人々が語り術師になりたいと思うのは必然である。かといって、そう簡単になれる訳でもない。
語り術師に惹かれた者達は、彼らの所有単語に興味を示した。なれないならば、奪えばいいと。
欲に溺れた者達が彼らを巡って、大きな争いを起こすのはそう遅くはなかった。それは大陸全土を巻き込み、後世にレムリア紛争と呼ばれるようになる。
紛争の最中、語り術師の一人であるエオス・ウェンティが仲間と共に立ち上がる。彼女達は大陸全土を周り、平和的交渉で争いを終結へと運ぶ。
数年の月日を費やし、他の種族と同様に、語り術師が隠れて生きる生活はなくなったのだ。しかし、多くの者が紛争の影響で身を隠す暮らしを変えなかった。語り術師など、最初から存在しなかったと言うように。
それから、二十五年の月日が流れた。
真上から照らす草原の中、栗色の毛並みを持つ馬が街へと向かう。背に少女と、少しばかしの荷物を乗せて。少女は心地良い風を全身に受けながら、馬の手綱を握る。
「ひゃー、風がきもちいいー!やっぱり、馬は最高だなー」
漆黒の髪はショートウルフほどの長さ。整った容姿ではあるが、服装の関係で少女と気付ける者は少ないだろう。ところどころ穴が開いた長い外套を羽織っており、ひと目で旅人だと解る格好をしている。御世辞にも女の子らしい格好とは言い難い。
彼女は、ノトス・ウェンティという名を持つ。かつて起きたレムリア紛争を止めた英雄の一人娘であり、若くして語り術師の才能を開花させた者だ。ファエトンと名付けた愛馬と共に、家出という名のあてもない旅をしている。
「ファエトン、もうすぐ新しい街だよ?」
必要最低限の言葉で話しかければ、徐々に速度を落としてくれる。言語を理解しているかのような動きは、見た者を驚かせるだろう。
ファエトンは街の石壁の外にいる衛兵に気付き、その近くで足を止めた。
「この街へ何の用だ」
「私は旅の者です。あてのない旅をしていたのですが、しばらくこの街に滞在しようかと思いまして」
「ふーん、さては路銀が少なくなってきたか?」
「あはは……。ま、そんな感じです」
衛兵は埃一つ見落とすまいと、ノトスの足の爪先から頭のてっぺんまで、目を光らせる。何度か頷いた衛兵は「それなら一番大きな建物に向かうといい。いい仕事があるぞ」と言って笑う。
「ただ、面倒事だけは起こすなよ? ……空の街ウラノスへようこそ。厩舎は近くにある建物だ」
あとは勝手にしろと、衛兵はその場から離れて見回りを始める。それを見送るノトスは手綱を引いて、ファエトンを厩舎で休ませた。
厩舎の向かい側には木造の建物があり、宿屋を現す「INN」の文字が刻まれた看板が見えた。彼女は街の観光より先に、宿を確保する事を優先する。久しぶりに街へ来たというのに、進んで野宿をしようとする気にはなれないというものだ。
戸を開けば、それに連動してカランカランと鈴の音が鳴り、来訪者の存在を知らせた。
「すいませーん。誰かいますかー?」
「はーい、今向かいますー!」
ノトスが尋ねれば、カウンターの奥の部屋から女性の声が届く。バタバタと騒がしい音を立てながら、長身の女性が姿を現した。紅玉の瞳はノトスを捉え、揺れ動く長い金髪は、稲穂が風で揺れるのに似ている。
「お客さん、一人?」
「はい、そうです。暫く滞在するつもりなんで、一番安い部屋で」
「せっかくウラノスに来たってのに、それは……。そうだ、ちょっと待ってね」
カウンターの下に姿を消したかと思いきや、一枚の羊皮紙を投げて寄越した。慌てて受け取ったノトスがそれを確認すると「空の街ウラノス」と題された、街の地図だった。女性が何故これを渡すのか、ノトスは不思議そうに首を傾げる。
「街の中心街に出掛けたうちの娘を、連れ戻してくれない? 連れて来たら宿泊代半額にしとくよ」
「見ず知らずの人間に頼むことかな、それ」
「大丈夫よ、貴方は優しい目をしてる女の子なんだし」
女性は椅子に腰掛け、カウンターの向こう側にいるノトスの返事を待つ。手に持った羽根ペンは、インク瓶の中に差し込まれ中身を吸う。
それを見つめるノトスは、しばし思考する。子供一人連れて帰るだけで宿代が浮く。実に魅力的な話だ。何か訳アリな気もするが、背に腹は代えられないのもまた、事実である。
「……安くしてくれるなら、それくらい構わないけど」
「成立ね、娘は私に似た子だから分かりやすいと思うよ。あ、この羊皮紙に名前と滞在日数書いてね」
差し出された羊皮紙の上で、インクをよく吸った羽根ペンは踊り出す。半額ならばと、普段の滞在期間の倍ほどある一ヶ月間と書き、女性に返した。
「それじゃ探してくるけど、娘さんの名前は?」
「娘はアエロー。街で有名な魔術師様がつけてくれたの。あの方が言うには、私の家系はハルピュイア族の末裔らしいのよ」
「ハルピュイア族……?」
聞いた事もない単語がノトスの耳に残り、違和感を作り出す。女性は待ってましたと言わんばかりに、目を爛々と輝かせながら語り出した。
「あ、知らない? ハルピュイア族っていうのは、街が出来るより前にウラノスで暮らしていた太古の種族よ。人間とだいたい似てるけど、腕と腰から翼が生えているの。それは天使みたいに美しいらしいわ。ただ、寿命が人間の半分程度だから絶滅したって話」
「へぇ……そうなんだ。初めて聞いたよ」
「御伽噺だと、街造りの手伝いをしたり、外敵を追い払ってくれたりしたって話は有名ね。他にも色々あるんだけど聞いてく?」
にっこりと笑う女性はノトスから目を離さない。それは獲物を見つけた鷹のようだ。誤魔化す様に愛想笑いを浮かべるノトスは、「アエローを探して来る」といって宿から逃げ出す。
外に出てから振り向けば、看板の下に「鷹の巣」という名前が刻まれていた。それを見て、違いないと彼女はクスリと笑う。