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靴底と枕  作者: 眞木 雅
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車と缶ビール

 台風一過の陽気を窓越しに浴びつつ、私は職場へ出勤できない旨を伝えようと電話をいじくっていた。担当に電話をかけようにも決心がつかず、今の職場へ私を誘ってくれた上司でもある兄に相談することにした。

 いい大人が、己一人の事情について処理できないとは、それだけで情けないことだが、そうと分かっていても判断を仰がねばならぬ程、私は弱り切っていた。

 昨晩から体調が悪かった。頭痛で眠れず複数回嘔吐した。出勤したところでまともに働けないのは目に見えている。しかし、私の頭に浮かぶのは「ずる休みをする己の背中」、情けなく丸まった、いかにも社会に見放されたようなぽつねんとした背中のみで、どうして体を治そうとか、安静にしようとかいうことは、一向に考えられなかった。

 まるで覚えたての言語かのように、片言の抑揚のない、しかし小刻みに震えた声で頭痛と不眠について述べると、兄はそれは休むのがよい、と優しく言った。それに対し、電話越しに伝わる伝わらないもなく、項垂れるように頭を下げて、そのまま職場に電話をかける。電話は2分より短く済んだし、職場の対応もずいぶん優しいものだったが、その数分生きた心地がしなかったのは、何よりも己が、この不労を軽蔑しているからに他ならない。

 

 私は落ちこぼれだ。人間として足らない。それはまだ小さな頃からそうだったように思うし、母親はそのことに気がついていたので、私に学を与えようとした。しかし心がついていかず、ちょっと変わり者だけどお勉強のできる子だったものが、おしゃべりの雰囲気はまともなのに実際はどうやら精神が未熟らしい高卒のフリーターというあきたらないものになってしまった。

 なにより、高卒が悪い、フリーターが悪いと言うのではない。これと言って取り柄もない上に学がない、そして生きていく力も無いようなわたしという存在が問題なのだ。

 電話をかけ終えた私は、テーブルの上に放ってあった車の鍵を取り上げて、文庫本を一冊持ち、安アパートにやや斜めに駐車された、中古の軽自動車に立てこもった。鍵もかけず、後部座席のシートに寝そべって本を読んだ。情けない気持ちを混ぜ返しながら、時々泣き、読んでもいないページをめくって、いよいよ社会のゴミになってしまったなと己を嘲った。

 死ぬのがよい。死ぬよりほか無い。

 高校にあがってすぐの頃、そう思いつめていた。自意識をぱんぱんに膨らませ、その破裂に怯え前にも後ろにも進めず退けず、手首を切った後、漂白剤を口に含んだ。

 粗末である。覚悟のない未遂は、誰に語るでもなく速やかに己で隠蔽し、結局たどり着いたのはこの埃っぽい車内ときては、恥晒しもいいところである。

 途方に暮れていると、母が車に乗り込んできた。驚く私に、缶ビールを差し出すとこう言った。

「ドライブに行くぞ」

 指先を缶の結露で濡らして、呆ける私を理解の外に、エンジンに火が入る。初心者マークを前と後ろに貼り付けた淡い水色の安自動車は、私を励ますべく出発した。母曰く、憂さ晴らしのドライブではあるが、運転が拙くヒヤヒヤさせられ、かと言ってひどく落ち込んでいるから、気持ちはいやに混乱する。

「本当は、いい車をあげたかった」

 私は運転席の母を見ずに言った。返事は無くとも、言葉は溢れる。

「本当は、綺麗な家に住まわせてあげたい」

 自分でも驚くほど平坦に響く。

「本当は、毎日働いて楽をさせてあげたい」

 母は、苦手なはずの左折を綺麗にやってのけた。

「本当は、あなたに自慢される娘でいたい」

 この人は幸せになるべきだ。中古の車ではダメだ。朽ち果てそうなボロアパートではダメだ。まともに働かない娘を持っていてはダメだ。親戚に馬鹿にされるようではダメだ。もっと、楽しく不安なく暮らすべきだ。言葉にするうち、悔しさがこみ上げてきて、飲まないつもりで握っていた缶ビールを開け、一気に半分飲んだ。

「いい車だよ」

 ウインカーの忙しい音と、独り事のような静かな声がようやく私に返事をする。

「無理をしないでも、やれることをやって、お金を貰うんだからいいじゃない」

 もっと飾っても気障にはならないだろうに、母はそれをしない。私はぼんやり頷いて、誤魔化すようにぬるくなった缶ビールの残りを呷った。

 母は、それきり話さず、私は私で納車の日のことを思い出していた。 

 古いアパートの小窓から顔を覗かせて待っていると、砂利を慣らしながら水色の軽自動車が入ってくる。情けないような寂しいような気持ちで、車が停められるのをじっと見ていた。ハンドルを握るのは五十過ぎの私の母、 車体の後方前方のみならず、本人のひたいにまで初心者マークを貼り付けてありそうな慎重な駐車だった。

 重大任務をやり遂げると母親はこちらに手を振った。私はなんとなくひらひらと振り返して、窓を閉め、お茶を淹れた。湯気がぽやんと柔らかく膨らんで伸びた。母に車を買ってあげる時は、もっと誇らしい自分であると思っていたのに、今はただ申し訳ない。ため息をついて、お茶を啜ると扉が開いて、母が私にありがとうと言った。

 何がありがたいのだ、何が嬉しいのだ。古いアパートの駐車場に、中古のとびきり安い車が止まっただけだ。

「ごめんね、自慢できる車はもう少し後だね」

 自分で口にしながら、情けなくて笑いが出てしまう。母はそれでも楽しそうにしている。

「いきなり高級外車は無理よ」

 それが優しくて強くて、私はまた情けない顔をした。

「あんたそれより、あの音楽聴くとこ、古いけどあれ使えるのかしらね」

 はしゃいでいる様子で、あれもこれもと話しかけてくる。余ってるキーホルダーを寄越せだの、CDをかけてみようだの、よくもまあ思いつくなと感心する。そして小さな声で呟いた。

「愛車というやつですよ」

 長く息を吐くような、静かな口調だ。

 母は、こちらに来てからずっと働き詰めで免許を取る暇が無く、気がつけばもう年を取り、半ば諦めていたらしい。そんな母が、免許を取ったきっかけというのはいくつかあった。しかし、なにより父の視力が急激に落ちたというのが大きかったように思う。ちょうどその頃、私が今の職場に移り、収入が増えたため、気持ちの踏ん切りも付けやすかっただろう。

 そして今こうしてドライブをしている。金を稼げなくなった貧弱な娘を乗せて。

「何でもやり過ぎる、勉強も仕事も。出来なくなる前に休まないと、立ち上がれなくなる前に眠らないと」

 母の言葉を両手で受け取る。

「明日、頑張らないとな。」

 呟くと、なんとなく胸がすっとした。車で飲むアルコールも、悪くはないなと思った。

「最近のは遜色ないんだね」

母がぽつりと言った。

「え、なにが」

「ノンアルコールもごくごく飲むほど美味しんだねって」

 へ、と空気の漏れたような間抜けな返事をした後、親指でへこんだ缶を見やると、確かにノンアルコールビールだった。

「体調不良の人にアルコールをすすめたりしないさ」

 当然のことだった。なんだか拍子抜けして笑いが出た。

「そりゃそうだ、あはは」

 全く意味のない会話に、意味のない笑いに、救われる思いがした。ヘラヘラしているうちにいつの間にか家についた。うまく休むのも仕事だろうか、と考えてすぐ忘れた。間延びした平日の夕方、生活の片隅の話である。

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