生死の境で
健介はまだ働き盛りの年齢でありながら、生死の境をさまよっていた。会社から家に帰宅する途中、歩道橋で足を滑らせ、階段から転げ落ちたのである。
目立った外傷こそなかったが、打ちどころが悪かったのだろうか。病院に運ばれてから三日ほど経過しても、一度も目を覚ますことはなかった。
様々な機材につながれてベッドに横たえられている健介のそばには、妻の春奈が寄り添っている。
沈痛な面持ちを作りながら、春奈は医師に訴えた。
「お願いです。どうか、主人を助けて下さい」
「できる限りのことは致しました。しかし……」
医師の横にいる看護師も、黙ったまま目を伏せるばかりである。
「この歳で死ぬなんてあんまりです。子供だって、急に父親がいなくなったりしたら……」
健介と春奈の間には、幼い育ち盛りの子供がいる。この歳で片親を失うというのは、あまりにも不憫過ぎる。
「外傷はほとんどなく、脳波にも異常は見られませんでした。あとは、ご主人の生への執着次第としか言いようがありません。生きる気力が強くなれば、あるいは意識が戻るかも……。積極的に、声をかけてあげて下さい。懸命に声をかければ、きっとご主人に届くはずです」
「声をかけて、生きる気力を……」
春奈は小さく呟きながら、青白い頬をしたまま眠り続ける夫を見つめる。
しばらく険しい表情をしたまま動きを止めた後、再び医師の方に顔を向けた。
「あの。申し訳ありませんが、しばらく席を外していただけませんか。主人と、二人きりにしていただきたいのです。どうか、二人だけで話を」
「ああ、私達がいては話をしづらいと。確かに、夫婦水入らずとなった方が話しやすいこともあるでしょう。わかりました。私達は一旦病室を出ましょう。ただし、何かあったらすぐに呼んで下さい」
「わかりました。ありがとうございます」
医師と看護師は、病室を後にした。
春奈はそれを見届けてから、そっと健介の手を取り耳元で話を始めた。
「あなた、お願い。目を覚まして」
依然として、反応は全くない。だが。
――今のは、春奈? 春奈、なのか?
その声は医師の言う通り、健介の元に届いていた。
彼の意識は今、深い闇の中で朦朧としているのだった。
――俺は一体……。そうか、家に帰る途中で転んで、そのまま。ということは、俺は死んだのか? いや、違う。微かに温もりを感じる。死んでいたら、感覚なんてあるわけがない。
戸惑う健介の意識に、さらに春奈の声が伝わる。
「……やっぱり、駄目なのね。何度問いかけたところで、私の声は届かないのね」
――いや、君の声は届いているよ。しっかりと、俺の元に。
「あなたがいなくなったら、私……」
――春奈……。
「これから、どうやって生きていけばいいのよ! あなたがいないと、家にお金が入らないじゃない!」
――……え?
今までぼんやりとしていた健介の意識が、思いがけない言葉で妙にはっきりした。
――ちょっと、春奈? え? それってどういう……。
「私、専業主婦なのよ? あなたに死なれたりなんかしたら、どうやって子供を養っていけばいいの。今のご時世、子持ちの未亡人を雇ってくれるところなんて早々ないでしょうし。ああもう、お先真っ暗だわ」
――あの。俺って、君にとって何だったの? 俺は、君にとっては金を運んでくるだけの存在だったっていうのか?
失望のあまり生きる気力が失せていき、健介の心拍が弱まっていくのを心電図が忠実に伝える。
だが、春奈の爆弾発言はまだ止まらない。
「あ、そうだわ。あなたが死んだら、生命保険がおりるのよね。それでしばらくは暮らしていけるわね。あわよくばその間に婚活して、新しい人を見つけることもできるでしょうし。うふふ、案外何とかなりそうだわ」
――何だって? 春奈。お前は俺を忘れて、新しい男を見つけるっていうのか。俺が死んで手に入る金で、自分だけ幸せになろうっていうのか。
「子供もまだ小さいし、すぐに新しい父親を受け入れてくれるわね。私だってまだ若いし、きっといい人を見つけられるわ」
――ふざけるな。俺は今まで家族のために身を粉にして働いてきたっていうのに、たかが歩道橋でコケただけでこんな目に遭うだなんて。
先程まで弱々しかった心拍数が、みるみるうちに上昇していった。
「大丈夫。私達、あなたの分も幸せになりますから」
――こんなことが許されてたまるか。俺は絶対認めない。俺は……まだ……!
どこか青白かった顔にも、血色が戻っていく。
――死んで……。
「死んで……たまるかあーっ!」
健介は固く閉じられていた目を開け、身体につながれた機材などおかまいなしに半身を勢いよく起こした。
その瞬間、健介の胸に何かがバフッと飛び込んできた。
「よかった……。あなた、やっと目を覚ましてくれた……」
視線を向けてみると、そこには目元を腫らして涙を流す春奈の姿があった。
「春奈?」
……そうか。春奈は、わざとあんなことを言ったのか。俺の生きる気力を取り戻させるために、あえて怒りが込み上げてくるようなことを。
妻がどんな表情を作ってあのようなことを話したのかを知った健介は、ようやく全てを察した。
「悪かった。今まで、ごめんな……」
健介はただ、自分の胸の中で泣きじゃくる妻の背中を優しくなで続けた。