優しい怪盗
「じゃあ、留守番よろしく」
「うん!ママ、いってらっしゃい」
アパート[門脇荘]。
建物はそれなりに立派だが、住人はあまりいない。故に、無人の時間が長いアパートだ。
そこに冴えない顔の女がやってきた。
門脇荘の住人ではない。しかし、彼女は当然のようにその門をくぐる。
管理人の部屋の前へ行き、しばしその前で棒立ちする。時間が止まったかのように動かない。それを5分ほど続けて、彼女は一つ頷いた。
次に彼女はピンを取り出した。そしてガチャガチャと鍵穴をこねくりまわす。
そう、彼女は空き巣だ。明日の食いぶちに困り果てたどうしようもない駄目人間。彼女はそう自覚していた。だから、こんなこそ泥稼業をしているのだ。虚しくても、明日生きてりゃそれでいい。それが諦めた彼女の信念というにはお粗末な根性だった。
彼女が開けた鍵は数知れず、なのだが、今回は何故かなかなか開かない。ドアの前で悪戦苦闘する。人がいないとは言え、焦りは募る。普段はいともあっさり開けられるのにーー5分、10分と時が経つにつれて、焦燥は胸をひりひりと焼いていく。
とうとう、やけくそになった。
「えいっ!!」
ぐにっとピンは歪んだ。そんなのでドアが開く訳がない。
しかし。
かちゃ。
「ママ!」
開いた。
う、嘘……
動揺して、混乱して、自分がどんな状況にいるのかわからなくなった。頭から思考がすぽーんと抜け落ちて、真っ白だ。
誰?この子。
今、なんて言った?
「おかえりなさい、ママ」
嬉しそうに笑って言った。
そう、確かにママって言った。この子は私をママって呼んだ。
「ママ、今日は早かったね。枝里がいい子で待ってたから、早く帰ってきてくれたの?」
……この子は、枝里というらしい。そして私を、母親と勘違いしている。
しかし、抱きついて、ここまで間近で、気づかないものだろうか?
女が枝里というらしい女の子を見下ろす。そこではっとした。
満面の笑顔なのに、その子の目に光がない。
目が見えないんだ、この子。それにさっき「えいっ!!」って言ったのを「枝里」って呼ばれたんだと勘違いしている。……それだけ、お母さんを待っていたのね。
女の子が哀れだった。だから、彼女はこう返した。
「そうよ。さあ、今日はいっぱい遊んであげる」
「やったぁ!!」
枝里が喜ぶ。その笑顔に女も微笑む。しかしやはり光のないその目にちくりと胸を刺すものがあった。
ぱたん。
静かに玄関の戸を閉めて、部屋の中に入る。
「さ、何して遊ぶ?」
「じゃあねぇ……絵本読んで」
大体もののある場所は把握しているのか、枝里は近くの本棚を示す。
「色々あるわね……」
鉄板どころの童話が何冊もある。ヘンゼルとグレーテル、親指姫、アリとキリギリス……
「枝里はどのお話が好き?」
「えーとね、いばら姫」
なかなか渋い好みだ。
「いばら姫って、ずーっとお城の中にいて、外のこと、なんにも知らないで、魔女の魔法でずーっと、眠らされて……でも、目が覚める時、王子様に大好きって起こしてもらうんだよ。きっと、すごく幸せ。だから好き」
目が覚める時ーーなんとなく、わかった。この子は、光が見えないから、いつか見えた時、幸せが待っていることを夢見ているのだ。
きっと、お母さんが側にいてくれることを。
「じゃあ、いばら姫読もっか」
「わあい!!」
読みながら、切なくなる。枝里の嬉しそうな顔が、楽しげな声が、罪の意識を苛んでいく。
私は、あなたのママじゃないの……ーー言えない。どうすればいいんだろう?
「ママ?」
話が止まったことに枝里が首を傾げる。女は俯いて、本を閉じた。
「ママ、どうしたの?続きは?」
「あのね……」
彼女はあらんかぎりの勇気を出して、真実を明かそうとした。ところが、その決意は直後に折れた。
光が灯らないはずの枝里の瞳にゆらゆらとした儚げな光が見えたのだ。
駄目だ。喩え偽善でも、私にこの子を泣かすようなことは言えない……!
彼女は唇を強く噛みしめた後、にっこり笑った。
「ママ、お腹空いちゃった。何か食べよう?」
「なーんだ、そうだったんだ。うん、食べよ!」
枝里が笑う。彼女はほっとすると同時に、ますます酷くなる痛みに胸を押さえた。
嘘を、吐きとおさなくては。
彼女はその決意を抱き、台所へ向かった。
きっとそのうち、枝里の本当の母親が帰ってきてしまうだろう。けれども、それまでは。
彼女は腕捲りをし、台所を見回す。アパートの割に広く感じるのは、あまり使われた跡がないからだ。こざっぱりした台所。調味料や材料などはある。ただ、少ない。彼女は何が作れるか考える。
「えっ、今日はママ、お料理してくれるの!?」
台所に立った気配に枝里が目を輝かせる。口振りから察するに、母親はあまり料理をしないようだ。
「ええ。今日は枝里のために張り切っちゃう!」
メニューが決まった。
こんこんこん、かちっ……
かたかたかたかた……
さっさっさっさっさっ、かたかたかた
「ん、フライパン、いい感じね。そろそろ……」
じゅあぁぁぁ……
「おっと、弱火弱火」
ふつふつ……
ママの声とお料理の音だけが部屋の中にある。わたしは仄かに漂う甘い香りに、にこにこした。
……本当に、にこにこできているか、わからないけれど。
わたしは目を閉じなくても耳を澄ませる。匂いも、触った感じも、おいしいとかそういうのもよくわかる。でも、わからないのは、色。
わたしはママの顔を知らない。見たことがないから。ママは何も言ってくれないから。わたしは何もわからない。
今日のママは違う。優しい。枝里の思うことに答えてくれる。枝里の話を聞いてくれる。
ママは何を作ってくれているんだろう?
気になったけど、今は訊かない。だって、ママが楽しそう。
わたしは楽しそうなママの声なら、いくらでも聞いていたい。
「さ、できたよ」
「ママ、何作ったの?」
ああ、やっぱり見えないんだな、と彼女は寂しく微笑んで答えた。
「ホットケーキよ」
「ホットケーキ?」
首を傾げる枝里。ホットケーキがわからないらしい。
どう説明したものか、と考えを巡らし、彼女はこう言った。
「この世で一番、あったかい食べ物だよ」
言って、彼女はホットケーキを切り分けた。メープルシロップがたっぷりかかったそれを、枝里の口元に運ぶ。
「はい、あーん」
「は、あーん……」
枝里は若干躊躇いつつも、それを頬張った。
「どう?」
枝里の顔を覗く。
「えっ!?」
その表情に思わず驚きの声を上げる。
目に、いつぞやと同じ、ゆらゆらとした儚げな光が灯っていたのだ。
「ごめん、熱かった?美味しくなかった?」
慌てふためく彼女の問いに、枝里はふるふると首を横に振った。
「すっごく……おいしい……」
ぽろぽろと透明なものが落ちていく。
「ありがとう。ママ、ありがとう……」
ほろほろと心に滞っていた何かが崩れていくのを感じた。
「ホットケーキ、本当に、世界で一番、あったかい食べ物だね……」
ああ、よかった。認められた。
彼女は枝里の言葉に心の底からそう思った。
「ほらね、言った通りでしょ?」
なんでもない日常の風景。
それが幸せだというのなら、長続きしないのも、また然りーー
外は暗い。
よい子は寝る時間よ。
そう言って、枝里を眠らせると、彼女はそこから立ち去った。
部屋を出ると、ちょうど、ロングコートを着た女性が帰ってきたところだった。
女性は女を見て、言った。
「あなた、誰ですか?」
すぐわかった。この女性が枝里の本当の母親なのだ。
「私の家で何やってるんですか?枝里は?中にいた女の子は?」
女は悲しくなった。同時に腹が立った。
「そんなの、自分で確かめればいいじゃない」
「枝里!」
母親が慌てて家に入っていくのを見届け、彼女は去った。
彼女は何も盗まなかった。
ただひとかけ、この世で一番あたたかい食べ物を持って、帰路につく。
「○月×日
今日はママと一緒に遊んだ。
本当は気づいてた。ママじゃないって。本当はたぶん、ドアの鍵を勝手に開けて入ってくる悪い泥棒さんだったかもしれない。でも、優しかった。
その人は、わたしに優しくして、結局何も盗んでいかなかった。
無理にでも盗んだというなら、あの人はーー卵と牛乳と小麦粉を盗んでいった。
きっと、世界で一番、幸せになるために。
枝里の声日記」




