悪役令嬢、現代日本のブラック企業へ追放される
「イザベラ・フォン・ローゼンベルク公爵令嬢! 貴様のような傲慢で冷酷な女は、次期王妃に相応しくない! よって、この場をもって貴様との婚約を破棄し、異界への追放刑に処す!」
王城の煌びやかな大広間に、エドワード王太子の甲高い声が響き渡った。
彼の腕の中には、男爵令嬢でありながら『光の聖女』として見出された可憐な少女、リリィがすっぽりと収まり、怯えたような、しかし口元には微かな嘲笑を浮かべた表情で私を見ている。
周囲を取り囲む貴族たちは、王太子の唐突な宣言にざわめきながらも、誰一人として私を庇おうとはしなかった。
私、イザベラは、背筋をピンと伸ばし、扇で口元を隠しながら彼らを冷ややかに見つめ返した。
「……婚約破棄、並びに追放刑。謹んでお受けいたしますわ、殿下」
私が取り乱すことなく、あまりにも堂々と、そして優雅に頭を下げたものだから、エドワード殿下は顔を真っ赤にして激昂した。
「そ、最後までその見下したような態度……! ええい、魔導師長! 早く古代の遺物を起動させろ! この女を、二度と我々の世界に戻れぬ『果て無き苦役の奈落』へと叩き落とすのだ!」
殿下の合図とともに、魔導師長が黒い水晶玉を掲げた。
途端に、私の足元に禍々しい赤黒い魔法陣が展開される。空間が歪み、視界がぐにゃりと曲がる。
次期王妃として、この国の財政から領地経営、さらには王太子の尻拭いまで、完璧にこなしてきたというのに。無能な者たちにとって、有能すぎる存在は目障りなだけだったということか。
(まあ、よろしいわ。あのような暗愚な王太子を支える苦労から解放されるのです。どこへ行こうと、私はローゼンベルクの娘として誇り高く生きてみせますわ)
光が視界を白く染め上げ、私の意識はそこで途切れた。
*****
「……おい、起きろ。こんな所で寝てたら邪魔だぞ」
低く、ひどく疲労の滲んだ声で呼びかけられ、私はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない四角い箱(どうやら照明のようだ)が規則正しく並ぶ、無機質な白い天井だった。
体を起こすと、自分が硬く冷たい床……灰色の絨毯が敷かれた部屋の片隅に倒れていたことに気がつく。
「ここは……?」
私が周囲を見渡すと、そこには奇妙な光景が広がっていた。
等間隔に並べられた机。その上には、薄い黒い板のようなものが置かれ、それが青白い光を放っている。部屋の空気はひどく澱んでおり、得体の知れない苦い飲み物の匂いと、紙の匂い、そして何より『絶望』と『疲労』の匂いが充満していた。
「おい、聞いてるのか? コスプレなんかして、どこの部署の新人だか知らないが……早く席に戻れ。社長に見つかったら殺されるぞ」
声をかけてきたのは、私の目の前に立つ奇妙な衣服(黒い筒状のズボンと、白いシャツに細い布を首から下げている)を着た若い男だった。
彼の目は虚ろで、目の下には深いクマが刻まれている。肌は青白く、まるでアンデッドのようだ。いや、私が知るアンデッドよりも、はるかに生気がない。
「新人……? 恐れ入りますが、私はイザベラ・フォン・ローゼンベルク。ここは『果て無き苦役の奈落』という場所なのでしょうか?」
私がドレスの裾をつまみ、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露しながら尋ねると、男は呆れたように大きなため息をついた。
「ハァ……ローゼンベルクね。頭おかしいのが入ってきたな。ここは『株式会社ネオ・シナジー・システムズ』。IT土方の掃き溜め、あるいは地獄の一丁目だ。俺はシステム開発部の田中。ほら、遊んでないで仕事に戻れ。今日の納品が終わるまで、誰も帰れないんだからな」
田中と名乗った男は、ふらふらとした足取りで自分の机へと戻り、青白い光を放つ板に向かって、カタカタと指を動かし始めた。
私は立ち上がり、静かに部屋の中を観察した。
どうやら、王太子の言っていた『果て無き苦役の奈落』というのは、この異世界のこの場所を指すらしい。数十人の男女が、皆一様に死んだような魚の目をして、機械に向かって作業を続けている。
衣服こそ違えど、その光景は、悪辣な領主に搾取され、過労で倒れる寸前の農奴たちにそっくりだった。
(なるほど。私はこの、何かしらの作業場に労働力として召喚されたというわけね)
公爵令嬢たる私が、平民のように働くなど本来ならあり得ない。しかし、郷に入っては郷に従えと言う。現状を把握するためにも、まずはこの奇妙な空間のルールを学ぶ必要があるわね。
そう思い、私が田中という男の背後からその作業を眺めようとした、その時だった。
「おぉぉぉい!! お前らぁ!!!」
バンッ! と乱暴に部屋の扉が開かれ、腹の突き出た、脂ぎった顔の中年男が怒鳴り込みながら入ってきた。
その声に、部屋にいた全員の肩がビクッと跳ね上がる。強烈な恐怖と嫌悪の感情が、波のように空間に広がったのを私は肌で感じ取った。
「田中ァ! 昨日頼んだ『A社向け要件定義書』、なんでまだ俺のデスクに提出されてないんだ!? あぁ!?」
「ぶ、部長……! それは、昨日急遽入った『B社のバグ修正』を優先しろと部長が仰ったので……」
「口答えするな!! 俺は『両方今日中にやれ』と言ったはずだ! お前は本当に無能だな! だからお前はいつまで経っても万年平社員なんだよ! 給料泥棒め!」
「ひっ……す、申し訳ありません……すぐに、すぐ終わらせますから……!」
田中はすっかり縮み上がり、震える手で機械を操作しようとしている。
その『部長』と呼ばれた太った男は、田中の椅子を乱暴に蹴り飛ばした。
「終わるまで寝るなよ! ああ、そうだ。明日の朝九時からの会議で使う資料、百ページ分あるが、それのコピーと製本もやっておけ。俺は今日はもう帰るからな。戸締まりしっかりしておけよ、無能ども!」
そう吐き捨てて、部長はふんぞり返りながら部屋を出て行こうとした。
周囲の労働者たちは、誰一人として部長に反抗することなく、ただ下を向いて嵐が過ぎ去るのを待っている。
――ピキリ。
私のこめかみで、何かが切れる音がした。
公爵令嬢として、そして領地を預かる為政者として、私が最も憎むもの。
それは『民を不当に搾取し、自らは安全な場所で甘い汁を吸うだけの、無能で怠惰な権力者』である。
上に立つ者は、下の者を導き、守り、その働きに対して正当な報酬と評価を与える義務がある。ノブレス・オブリージュ(貴族の義務)。それを理解していない輩は、豚以下の家畜に等しい。
「……お待ちになって」
気がつけば、私は凛とした声を張り上げ、踵を返そうとした部長の背中に向かって歩み寄っていた。
「あぁ? なんだお前。どこのキャバ嬢だ? 勝手にオフィスに入ってきて……」
「キャバ嬢、とは何のことか存じませんが。あなたがこの労働者たちを束ねる長、『部長』という階級の者で間違いありませんわね?」
「そうだが? なんだお前、俺に文句でもあるのか?」
威圧するように見下ろしてくる豚……もとい部長に対し、私は扇を広げ、口元を隠しながら冷ややかに笑いかけた。
同時に、私の体内にわずかに残っていた魔力――『威圧』の魔法を、ほんの少しだけ解放する。
「ええ、大いにありますわ。先ほどのあなたの発言、あまりにも論理性に欠け、上に立つ者として恥ずべき愚行であると断言いたします」
「……は?」
「まず第一に。新たな急ぎの仕事を命じたにも関わらず、元の仕事の期限を延長しないのは、単純な『工数管理の放棄』です。人間の持つ時間と体力は有限。それを把握せず、ただ精神論で『両方やれ』と命じるのは、管理職としての無能を自ら露呈しているに他なりませんわ」
「なっ……お、お前……!」
「第二に。労働者に対して『無能』『給料泥棒』と罵倒し、さらに物理的な暴力(椅子を蹴る行為)を振るうことは、彼らのモチベーションを著しく低下させ、結果として全体の生産性を落とす愚策中の愚策。そして極めつけは、自らは定時で帰宅しながら、部下に深夜までの労働を強要するその姿勢。……呆れて開いた口が塞がりませんわね」
私の言葉に、オフィスの中が水を打ったように静まり返った。
田中をはじめとする『社畜』たちは、信じられないものを見るような目で私を見つめている。
部長はといえば、顔を茹でダコのように真っ赤にし、全身をワナワナと震わせていた。
「き、貴様ぁ……! 外部の人間が、うちの会社のやり方に口を出すな!! ここは俺の部署だ! 俺のルールが絶対なんだよ!!」
「ええ、ですからその『あなたのルール』が破綻していると指摘しているのです。領主が暗愚であれば、領地は滅びます。このままでは、この作業場は近いうちに崩壊しますわ」
私は扇をパチンと閉じ、彼に向かって真っ直ぐに突きつけた。
「私が、正しい上の立ち方というものを、あなた方『野蛮人』に教えて差し上げますわ。さあ、まずはその醜い態度を改め、不当な労働を強いられている彼らに謝罪なさい!」
現代日本の、ブラック企業の片隅で。
追放された悪役令嬢による、前代未聞の『お仕事改革(という名の蹂躙)』が、今まさに幕を開けようとしていた。
「私が、正しい上の立ち方というものを、あなた方『野蛮人』に教えて差し上げますわ。さあ、まずはその醜い態度を改め、不当な労働を強いられている彼らに謝罪なさい!」
凛とした私の声が響き渡った直後、数秒の完全な沈黙がオフィスを支配した。
しかし、その静寂はすぐに、限界まで膨れ上がった風船が破裂するような部長の怒声によって破られた。
「ふ、ふざけるなァァァ!! どこから入ってきたか知らないが、イカれたコスプレ女が偉そうに! ぶっ殺してやる!!」
完全に理性を失った豚――部長は、顔を真っ赤にして私に向かって突進してきた。その太い腕が、私の細い首を掴もうと無骨に伸ばされる。
「ひっ!」「危ない!」
周囲の社畜たちが悲鳴を上げる。彼らは私が殴り飛ばされると思ったのだろう。
しかし、幼い頃から公爵令嬢として、淑女の嗜み(という名の護身術と暗殺者対策)を徹底的に叩き込まれてきた私にとって、怒りに任せただけの単調な突進など、止まった的に等しい。
「……野蛮なだけでなく、知性まで欠如しているとは。救いようがありませんわね」
私は小さくため息をつき、彼が触れる寸前で優雅に半歩だけ横へスライドした。
そして、手にした扇をピタリと閉じ、すれ違いざまに彼の膝裏の急所を軽く打ち据えた。さらにもう片方の手で、彼の突進の勢いを利用するように背中をそっと押し出してやる。
『柔の理』と、ほんのわずかな『風属性の魔力』を乗せたその一撃。
「ぶべらっ!?」
見事な放物線を描き、部長の巨体はオフィスの中央にある長机に向かって無様に転がっていった。
ガシャアァァン!! という派手な音と共に、積み上げられていた書類の山が雪崩を起こし、部長はその下敷きとなって呻き声を上げた。
「あ、あぁ……い、痛ぇ……」
「暴力は、自らの無能を証明する最後の手段ですわ。それを自ら行使するとは。もはや上に立つ資格など一ミリも残っていません」
私は乱れたドレスの裾を優雅に払いながら、冷たく彼を見下ろした。
私の瞳に宿る、本物の『殺気』(かつて魔獣討伐の際に培ったものだ)を直に浴びた部長は、ヒッ、と短い悲鳴を上げ、這うようにして後ずさる。
「き、貴様、ただじゃおかないぞ……! け、警察を呼んでやる! 社長に報告して、絶対にお前を……!」
「お好きになさい。ですが、次に私の視界に入った時は、その首が胴体から離れる覚悟をしておくことですわ」
「ひぃぃぃぃっ!!」
捨て台詞を吐こうとしたものの、私の絶対零度の微笑みに完全に心が折れた部長は、書類の海から這い出し、惨めな姿でオフィスの外へと逃げ出していった。パタン、と情けない音を立てて扉が閉まる。
後に残されたのは、嵐が過ぎ去った後のような静寂と、口をポカンと開けて放心状態になっている数十人の社畜たちだけだった。
「さて……」
私はパチン、と扇を開き、パタパタと顔を仰ぎながら振り返った。
全員の視線が、一斉に私に突き刺さる。
「な、ななな……」
「お見苦しいところをお見せしましたわね。ですがご安心なさい。害虫は私が駆除いたしました。これで少しは空気が良くなるでしょう」
私が微笑みかけると、先ほど私に話しかけてきた田中という青年が、ガタガタと震えながら立ち上がった。
「あ、あんた、自分が何をしたか分かってるのか!? あれでも俺たちの上司で、この部署の責任者なんだぞ! 警察を呼ばれたら、あんた捕まるし、俺たちも全員クビだ!」
「クビ? それは、この労働施設から追放されるという意味ですか?」
「そうだよ! 明日からの生活が……!」
「素晴らしいではありませんか」
私が心から手を叩いて喜ぶと、田中は「は?」と間抜けな声を漏らした。
「あのような腐敗した組織から追放されるなど、神の祝福に等しいですわ。……ですが、安心なさい。私がこの場にいる限り、あなた方が不当な扱いを受けることは決して許しません」
私はコツン、コツンとヒールを鳴らし、オフィスの中央――先ほどまで部長がふんぞり返っていた、最も立派な革張りの椅子の前へと歩みを進めた。
そして、その椅子に座ることなく、背もたれに手を置いて全員を見渡した。
「自己紹介がまだでしたわね。私はイザベラ・フォン・ローゼンベルク。……どうやら私は、数奇な運命によりこの世界、この場所に召喚されたようです。帰る術は今のところありません」
社畜たちは顔を見合わせている。痛いコスプレイヤーの妄言だと思っているのだろう。しかし、先ほど私が見せた常人離れした身のこなしと、謎の威圧感のせいで、誰も口を挟めないでいる。
「私には、為政者としての血が流れています。あのような暗愚な長に虐げられている領民を見過ごすことは、私の誇りが許しません。――今日、この瞬間から、この『システム開発部』は私の領地とします。そして私が、新たな領主としてあなた方を導きますわ」
「……はあ?」
「さあ、まずは現状把握からです。田中と言いましたね。あなたが抱えている『要件定義書』と『バグ修正』という仕事の全貌を、私に説明なさい」
田中は頭を抱えた。
「もうダメだ……完全にイカれてる……。いいか、お嬢さん。俺たちは今、信じられないくらい忙しいんだ。あんたのロールプレイングゲームに付き合ってる暇は……」
「五分。五分でいいから説明なさい。私の知能を舐めないことですわ」
私の強い眼差しに気圧されたのか、田中はため息をつきながら自分のパソコンの画面を私に向けた。
「……いいか、これが『ガントチャート』っていうスケジュールの表だ。で、こっちがB社のバグ、つまりシステムの欠陥をまとめたリスト」
「ほう……」
私は画面に映し出された、色とりどりの線や文字列を素早く目で追った。
魔法陣の構築図や、国家予算の複雑な配分表に比べれば、この程度の表など児戯に等しい。論理構造さえ理解すれば、すぐに全容は掴める。
「なるほど。この『バグ』というのは、魔法陣の術式エラーのようなものですわね。それを修正しなければシステムは起動しない。しかし、こちらの『要件定義書』というのは、これから作る新しい魔法陣の設計図。……優先順位は圧倒的に前者ですわね」
「そ、そうだよ。B社のシステムはもう動いてて、今すぐ直さないと向こうの業務が止まる。でも部長は、明日の会議で上層部にアピールしたいからって、新しい方の設計図を今日中に作れって無茶を……」
「愚の骨頂ですわ。すでに稼働しているインフラの修繕を後回しにし、未来の青写真ばかりを語る領主は、必ず民の反乱を招きます」
私は即座に決断を下した。
「田中。要件定義書の作成は今すぐ破棄なさい」
「えっ!?」
「そして、先ほど豚が言っていた『百ページの資料のコピーと製本』。これも不要です。明日の会議には、私がたった一枚の紙に要約したものを出します」
「い、いやいやいや! 無理だって! あの部長は体裁を異常に気にするんだ! 資料がないなんて知れたら、マジで俺たち殺される!」
「責任は全て私が取ります。それに、あのような男の体裁など、紙屑ほどの価値もありません」
私は凛と言い放つと、オフィス全体を見渡した。
「他の者たちも手を止めなさい! 今、この瞬間、最も緊急性の高い問題は何ですか!? 期限が今日に迫っていて、なおかつ致命的な障害が発生しているものだけを抽出しなさい! それ以外の『明日でも良い仕事』『無駄な体裁を整えるだけの仕事』は全てストップです!」
私の声には、微量ながら『魅了』と『統率』の魔力が乗せられていた。
過労で思考停止に陥っていた彼らの脳に、私の声が直接響き渡る。
最初は戸惑っていた彼らも、私の放つ圧倒的なリーダーシップと、絶対的な自信を前に、徐々に生気を取り戻し始めた。
「わ、私は……明日納品のテストデータを作ってます! でも、量が多すぎて終わりません!」
女性の社員が手を挙げた。
「人員を割きます! 手が空いている者、もしくは緊急性の低い作業をしている者は彼女の補佐に入りなさい!」
「はいっ!」
「俺は、サーバーの再起動を待っているだけで、今は手が空いてます!」
別の男性が声を上げる。
「よろしい! ならばあなたは、田中のバグ修正のサポートに回りなさい。ダブルチェックを行えば、作業効率は上がるはずです!」
オフィスの空気が、劇的に変わっていくのを感じた。
先ほどまでの、ただ恐怖に怯え、言われたことを思考停止でこなすだけの淀んだ空気ではない。目的意識を持ち、効率的に問題を解決しようとする、生きた組織の空気に。
(素晴らしいわ。彼らは決して無能ではない。ただ、指揮官が最悪だっただけです)
「……よし、俺のバグ修正は終わった! テスト環境に反映する!」
「こっちのテストデータ作成も、あと十分で終わります!」
一時間後。
絶望的だと思われていた今日中の必須タスクが、次々と消化されていく。
しかし、彼らの体力は限界に近づいていた。目の下のクマは消えず、キーボードを叩く指は明らかに遅くなっている。無理もない、連日の過酷な労働で、彼らの生命力は枯渇寸前なのだ。
*****
「……皆様、よく頑張りましたわね」
私はオフィスの中心に立ち、両手をゆっくりと広げた。
「え……?」
「な、なにを……?」
怪訝な顔をする田中たちをよそに、私は体内の魔力を練り上げた。
この世界には魔法が存在しないようだが、幸いなことに、私の魔力は追放される前のまま保たれている。
私は、かつて領地の病院を慰問する際に使っていた、大規模広域回復魔法を無詠唱で発動させた。
『――聖なる息吹よ、疲弊せし者たちに安らぎの雫を与えよ(ヒール・レイン)』
私の体から、淡いエメラルドグリーンの光の粒子がフワリと舞い上がり、オフィス全体に降り注いだ。
その光は、彼らの体に触れると同時にスッと吸い込まれていく。
「なんだ、これ……光?」
「えっ……嘘、肩の凝りが……」
「頭痛が消えた……? 目もパッチリ開くぞ!?」
「それに、なんだか体がめちゃくちゃ軽い! 昨日の睡眠不足が嘘みたいだ!」
社畜たちが次々と立ち上がり、自分の体を見下ろして驚きの声を上げる。
現代の医学や科学では説明のつかない現象に、誰もがパニックになるかと思ったが……彼らの反応は、私の予想を少し超えていた。
「すごい……なんだか分からないけど、謎のオーラで疲れが吹っ飛んだ!」
「イザベラさん、あなた……もしかして、本物の女神か何かですか!?」
「いや、チートスキル持ちの転生者だろ! 現実にこんなことあるのかよ!」
……どうやらこの世界の住人は、こういったファンタジーな現象に対する適応力(オタク知識とも言うらしい)が異常に高いようだ。
「私は女神などではありません。誇り高きローゼンベルクの令嬢です」
私がクスリと微笑むと、田中が涙ぐみながら私に歩み寄ってきた。
「イザベラさん……あんた、マジで何者だよ。でも、あんたのおかげで、今日のノルマ、本当に終わりそうなんだ」
「当然ですわ。私の采配に狂いはありません。……さあ、残りの作業を速やかに終わらせなさい。そして今夜は、全員真っ直ぐ家に帰って、温かいお風呂に入り、清潔なベッドで眠るのです。明日の朝、あの豚がどのような顔をするか、楽しみではありませんか?」
私の言葉に、オフィスの中にこの日初めての『笑い声』が響いた。
それは、ブラック企業という名の奈落に囚われていた彼らが、反逆の狼煙を上げた瞬間だった。
「本当に……本当に今日中に終わった……。B社の致命的なバグも修正して、テストサーバーでの動作確認も完璧だ」
時刻は午後十一時。
いつもならば、日付が変わっても終わりの見えない作業に絶望しながら、キーボードに突っ伏している時間帯である。しかし今、システム開発部のオフィスには、達成感と安堵の空気が満ちていた。
私の『ヒール・レイン』によって疲労を完全に回復した社畜たちは、驚異的な集中力を発揮し、見事に本日の必須タスクを完了させたのだ。
「皆様、ご苦労様でした。これで後顧の憂いはありませんわね」
私が労いの言葉をかけると、田中をはじめとする社員たちは、深く、そして心の底からの感謝を込めて頭を下げた。
「イザベラさん……本当に、何から何までありがとうございます。あんたがいなかったら、俺たちは今日も徹夜で、しかも明日の会議で部長にボロクソに怒鳴られていたはずです」
「当然の導きをしたまでですわ。さあ、もう帰りなさい。体を休めることも、領民……いえ、労働者の立派な義務です」
「は、はい! ……あ、でも、イザベラさんはどうするんですか? 帰る家、ないんですよね……?」
田中の問いに、私は少しだけ考え込んだ。
確かに、異世界から追放されたばかりの私に、この見知らぬ鋼鉄とコンクリートの街で帰る場所などない。しかし、公爵令嬢たるもの、野宿などという選択肢はあり得ない。
「心配には及びませんわ。このオフィスという場所は、雨風を凌ぐには十分すぎるほど堅牢です。今夜はここで休ませていただきます。それに……明日の『会議』に向けて、少し準備をしておかなければなりませんから」
「準備って、まさか本当に一枚の紙で……?」
「ええ。田中、この『ぱそこん』という魔導具の基本的な使い方と、文字の打ち方だけ私に教えてから帰りなさい。私の知能ならば、五分もあれば完全に理解してみせますわ」
田中は驚きつつも、私に『キーボード』のタイピングと、『Word』『Excel』といった文書作成ソフトの基本的な操作方法をレクチャーしてくれた。
なるほど、キーボードの配列は一定の規則性があり、魔力ではなく指先の物理的な入力で盤面に文字を刻む仕組み。そしてソフトの機能は、書類整理の魔法陣を視覚化したようなもの。……たやすい。領地の税収計算を手書きと暗算で行っていた私からすれば、これほど便利な道具はない。
「完璧に理解しましたわ。さあ、もうお行きなさい」
「……本当に、何者なんだ。分かりました、何かあったらこのスマホ……いや、無理か。とにかく、明日の朝一番で俺も来ます。おやすみなさい、イザベラさん」
田中たちがオフィスを去り、誰もいなくなった静寂の空間で。
私は一人、青白いモニターの光に照らされながら、キーボードを凄まじい速度で叩き始めた。
(あの豚部長が要求していた、百ページに及ぶという『A社向け要件定義と新規プロジェクト提案書』。田中のパソコンに残っていた過去の類似資料と、B社のシステム障害のレポートを読み解けば、この会社の抱える根本的な『病巣』が見えてきますわね)
無駄に装飾されたグラフ。意味のない専門用語の羅列。実現不可能なスケジュールの提示。
全ては、上層部に対して「自分は仕事をしている」とアピールするためだけの、中身の伴わない虚飾だ。
真に為政者(経営陣)が知るべきは、現状の正確なリスクと、投資に対する明確な見返り、そして人員の適切な配置計画のみ。
「このような紙屑を百枚刷るなど、資源の無駄遣いにも程がありますわ。私が、本物の『計画書』というものを叩き込んで差し上げます」
カタカタカタカタ……!
私のタイピング速度は、魔法による身体強化も相まって、もはや残像しか見えないレベルに達していた。
たった一枚の紙に、一切の無駄を省き、本質のみを抽出した完璧な戦略を構築していく。
追放された悪役令嬢は、現代のブラック企業において、その恐るべき事務処理能力を静かに開花させていた。
*****
翌朝、午前九時。
株式会社ネオ・シナジー・システムズ、最上階の第一会議室。
重厚なマホガニーの円卓を囲むように、会社の役員たちがずらりと並んでいた。
上座に座るのは、白髪交じりのオールバックに鋭い眼光を持つ、この会社の代表取締役社長、神崎である。彼は腕を組み、不機嫌そうに眉間に行き皺を寄せていた。
その社長の斜め向かいで、額に滝のような冷や汗を流しながら直立不動になっているのが、昨日私に吹き飛ばされた『システム開発部』の部長、権田だった。
権田の後ろには、書類持ちの付き人として田中が控えている。
「……権田君」
「は、はいっ! 社長!」
「今日の会議は、我が社にとって最大のクライアントであるA社への、次期システムの大型提案の事前レビューだったはずだね。そして君は、『完璧な百ページの資料を用意している』と豪語していた」
神崎社長の低く冷たい声が、会議室に響く。
他の役員たちも、冷ややかな視線を権田に向けている。
「……しかし、今私の手元にあるのは、このペラペラの紙一枚だけだ。これは、どういう冗談かな?」
社長が人差し指でトントンと叩いたのは、私が昨夜作成し、田中に託した一枚のA4用紙だった。
権田の顔が、恐怖で青ざめ、次いで激しい怒りで真っ赤に染まる。
彼は昨日の夕方、私に叩きのめされて逃げ帰った後、朝一番で出社してきた。そして会議の直前になって、田中から「資料はこれ一枚です」と渡され、パニックのままこの会議室に引きずり出されたのだ。
「しゃ、社長! 違うんです!! これは部下の田中が……この無能な平社員が、私の指示を無視して勝手に用意したゴミクズでして!! 私は確かに百ページの資料を徹夜で作成しろと命じたのですが、こいつがサボりやがりまして!!」
「……」
権田は必死に保身のために田中をスケープゴートにしようと喚き散らした。
田中は下を向き、唇を噛み締めて震えている。ここで反論すれば、後でどんな報復を受けるか分からないという恐怖が彼を縛り付けていた。
「言い訳はいい。権田君、君は部下の管理もできないと自ら証明しているのかね?」
「ち、違います! こいつが異常なんです! すぐに私の手元のデータから資料を印刷させますので、五分……いや十分だけお時間を!! おい田中、何をしてるさっさと印刷してこい!! この給料泥棒が!!」
権田が怒鳴り上げ、田中の肩を乱暴に突き飛ばそうとした、その時だった。
「――無能の遠吠えは、耳障りなだけですわね」
ガチャリ。
重厚な会議室の扉が、静かに、しかし威厳を持って開かれた。
全員の視線が、扉の入り口に集中する。
そこに立っていたのは、豪奢なフリルのついた真紅のドレスに身を包み、手には黒い扇を持った私、イザベラ・フォン・ローゼンベルクだ。
朝の陽光を背に受け、背筋をピンと伸ばして堂々と歩み入る私の姿に、役員たちは目を丸くして言葉を失っていた。
「な、なんだ君は!? どこから入ってきた!?」
役員の一人が慌てて立ち上がる。
「お初にお目にかかりますわ。私はイザベラ・フォン・ローゼンベルク。この度、システム開発部の『特任コンサルタント』として、現場の指揮を執らせていただいております」
「特任コンサルタント……?」
神崎社長が怪訝な顔をする。もちろん、そんな肩書きは私が今勝手に作ったものだ。
「き、ききき貴様ぁぁぁ!! 昨日のイカれコスプレ女!! なぜお前がこの会議室にいる!! つまみ出せ! 警備員を呼べぇ!!」
私を見るなり、昨日のトラウマが蘇ったのか、権田が泡を食って絶叫した。
私は扇をパチンと閉じ、権田に向かって冷ややかな一瞥をくれた。
「黙りなさい、豚。会議の神聖な場を汚すような真似をするなら、今度は窓から外へ放り投げますわよ」
「ひぃっ!?」
本気の殺気を込められた私の言葉に、権田はヒッと喉を鳴らして口を手で覆った。
私はそのまま優雅な足取りで、神崎社長の真正面、円卓の空いている席の背もたれに手を置いた。
「神崎社長、とお呼びすればよろしいかしら。先ほど、この権田という男は『田中がサボったせいで資料がない』と申しておりましたわね。それは明確な嘘(虚偽報告)です」
「……嘘、だと?」
「ええ。田中をはじめとするシステム開発部の面々は、昨日、あなたがた経営陣が気づいてすらいなかった『B社のシステムにおける致命的なバグ』を徹夜で修正し、見事に稼働テストまで終わらせました。もし昨日、彼らが権田の言う通り『意味のない百ページの紙屑』作りに時間を割いていたら、今朝の時点でB社の業務は完全に停止し、御社は莫大な損害賠償を請求されていたはずですわ」
私の言葉に、役員たちがざわめき始めた。
「B社のシステムに障害だと!?」
「そんな報告、一切上がってきていないぞ!」
「権田君、これはどういうことだ!」
社長の鋭い眼光が権田を射抜く。
「あ、あ、あ……それは、その、大した障害ではないと私が判断し……まずはA社への提案を優先すべきかと……」
「馬鹿を言わないでいただきたい」
私は冷徹に権田の言葉を斬り捨てた。
「インフラの崩壊を隠蔽し、見栄えの良い新規事業だけを取り繕う。それは国を滅ぼす愚王のやり方です。私は現場の責任者として、B社の障害対応を最優先事項とし、A社への提案資料は『私が』たった一枚にまとめるよう指示を出しました。つまり、田中に一切の非はありません」
「君が、あの資料を作ったと言うのかね?」
神崎社長が、手元のA4用紙に目を落としながら私に尋ねた。
「いかにも。百ページの資料など、読む側の時間を奪うだけの罪悪です。真に必要な情報は、その一枚に全て集約されていますわ」
社長はゆっくりと、その一枚の紙に視線を走らせた。
会議室に、時計の秒針の音だけが響く。数分間の沈黙の後。
神崎社長の目が、驚愕に見開かれた。
「……信じられん。これは……」
社長は震える手で紙を持ったまま、役員たちに向けてそれを見せた。
「A社の抱える業務フローの無駄を的確に指摘し、我々のシステムを導入した場合の費用対効果(ROI)を、具体的な数値と期間で明記してある。さらに、開発に必要な人員リソースの配分、想定されるリスクとその回避策まで……。徹底的に無駄が削ぎ落とされ、経営層が『Yes』か『No』を判断するためだけの、完璧な意思決定の材料に仕上がっている……!」
「なっ……!?」
権田が信じられないという顔で私を見た。
「昨日、田中の端末から過去のデータとA社の要件を少し拝見しました。御社の技術力は素晴らしい。しかし、それを売り込むための『戦略』が決定的に欠けていましたのよ。技術の安売りは、自らの首を絞めるだけ。この提案書通りに交渉を進めれば、A社からの受注金額は、権田が想定していた額の三倍には引き上げられますわ」
「さ、三倍だと……!?」
「ええ。それだけの価値が、御社のシステムにはあります。そして、それを実現するための開発スケジュールも、徹夜などの非人道的な労働に頼らない、現実的かつ健全な工数で算出してあります」
私は扇を広げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「領地……いえ、会社を豊かにするのは、現場で汗を流す労働者たちです。彼らを使い捨ての駒のように扱う権田のような無能を上に置いていては、御社の未来は暗黒ですわ。神崎社長。あなたが真に優れた為政者であるならば、今ここで下すべき決断はただ一つのはずです」
神崎社長は、私の顔と、手元の完璧な提案書、そして滝のように汗を流して震える権田を交互に見比べた。
そして、深く、重々しいため息を一つ吐き出した。
「……権田」
「は、はいっ! 社長、これは何かの間違いで! この女が勝手に……!」
「黙りたまえ」
社長の静かな、しかし絶対的な怒りを孕んだ声に、権田の言い訳はピシャリと止まった。
「B社の致命的なバグを隠蔽しようとした件。部下に責任を押し付けようとした件。そして何より、現場の生産性を著しく低下させるマネジメント能力の欠如。……君にはもう、システム開発部を任せてはおけない。本日付で、君を部長の役職から解任する。人事部付での待機を命じる」
「なっ……!? そ、そんな……社長! お待ちください! 私はこの会社のために粉骨砕身……!!」
「君が粉骨砕身させていたのは、君自身の骨ではなく、部下たちの骨だろう。出て行きたまえ。これ以上、私の時間を無駄にするな」
神崎社長の冷酷な宣告に、権田は膝から崩れ落ちた。
かつてオフィスで暴君として振る舞っていた男の、あまりにも呆気なく惨めな末路。彼は役員たちから蔑みの目を向けられながら、這々の体で会議室から逃げ出していった。
静寂が戻った会議室で、神崎社長は改めて私に真っ直ぐな視線を向けた。
「イザベラ君、と言ったね。……正直に言おう。君の素性も、その奇抜な服装の理由も私には全く分からない。だが、君が提出したこの提案書と、現場の危機を救ったという結果は、紛れもない『本物』だ。我が社には今、君のような圧倒的な改革者が必要なのかもしれない」
社長は席を立ち、私に向かって深く頭を下げた。
「どうか、正式に我が社の『特任コンサルタント』、いや、システム開発部の『統括マネージャー』として、この会社を立て直してはくれないだろうか。報酬は、君が望む額を用意しよう」
「社長自らのご指名、光栄ですわ。しかし、私の望みは金銭ではありません」
私は扇を閉じ、凛とした声で宣言した。
「私が望むのは、全権です。人事権、予算の裁量権、そして労働環境の抜本的な改善に対する決定権。これを認めていただけるのであれば、私の持つ全ての知略をもって、御社を業界の頂点へと導いて差し上げますわ」
神崎社長は一瞬驚いたような顔をした後、口角を上げてニヤリと笑った。
「……面白い。全権を委任しよう。好きにやってみたまえ、イザベラ統括マネージャー」
「契約成立ですわね」
こうして、異世界から追放された悪役令嬢は、現代日本のブラック企業において、正式に『絶対的権力』を手に入れたのである。
私を追放した王太子は、今頃あの無能な聖女と共に国を傾かせている頃だろう。だが、そんなことはもうどうでもいい。
私の目の前には、救うべき領民(社畜)たちと、改革すべき巨大な領地(会社)が広がっているのだから。
「さあ、田中。オフィスに戻りますわよ。これより、ネオ・シナジー・システムズの『大改革(ホワイト化)』を開始します!」
私の背後で、付き人のように控えていた田中が、かつてないほどに輝く瞳で「はいっ!!」と力強く返事をした。
*****
株式会社ネオ・シナジー・システムズ、システム開発部。
私が権田という名の豚を会議室で物理的・社会的に葬り去っていた頃、オフィスに残された社員たちは、まさに針のむしろに座るような心地で待機していた。
「……なあ、権田部長、そろそろ会議終わるよな」
「あぁ。絶対ブチギレて戻ってくるぞ。『俺のメンツを潰しやがって!』って。あの金髪のお嬢さんが作ってくれたペラ一の資料、本当に大丈夫だったのかな……」
「でも、俺たち徹夜でバグ直したんだぜ? それを怒られる筋合いは……」
「あの人にそんな理屈が通じるわけないだろ。はぁ……また灰皿投げられるのか……」
彼らの顔には、長年のブラック労働によって染み付いた『学習性無力感』が色濃く表れていた。どんなに正しいことをしても、結局は理不尽な暴力と暴言でねじ伏せられる。その絶望が、彼らから反抗する気力すら奪っていたのだ。
ガチャリ。
オフィスの扉が開く音がした瞬間、数十人の社員たちがビクッと肩を震わせ、一斉にキーボードを叩くフリを始めた。
しかし、そこに立っていたのは、顔を真っ赤にして怒り狂う肥満体の男ではなく、真紅のドレスを優雅に翻す私の姿だった。その後ろには、会議の資料持ちとして同行していた田中が、なぜか胸を張り、誇らしげな顔で立っている。
「……イザベラさん?」
「田中? 部長はどうしたんだ……?」
戸惑う社員たちを見渡し、私はパチンと扇を開いて微笑みかけた。
「皆様、本日の業務、ご苦労様ですわ。まずは皆様に、素晴らしい朗報をお伝えしなければなりません」
私はゆっくりとオフィスの中心へと歩みを進め、よく通る声で宣言した。
「先ほどの役員会議において、皆様を不当に虐げていた権田という男は、その無能さと横領にも等しい職権濫用を糾弾され、システム開発部長の座を解任されました。彼は現在、人事部という名の地下牢(待機部屋)へと送行されております」
その瞬間、オフィス内の時が止まった。
全員が、私の発した言葉の意味を理解するまでに数秒を要し、やがて一人の若手社員が震える声で口を開いた。
「く、クビに、なったんですか……? あの、絶対権力者だった部長が……?」
「ええ、その通りです。そして、これよりこのシステム開発部の全権は、特任統括マネージャーに任命されたこの私、イザベラ・フォン・ローゼンベルクが掌握いたします。すなわち、この場所は私の直轄領となりましたのよ」
「う、うおおおおおぉぉぉぉぉっ!!!」
爆発するような歓声が、オフィスを揺るがした。
ある者は隣の同僚と抱き合い、ある者は天を仰いで涙を流し、ある者は「女神様……いや、救世主だ!」と私に向かって拝み始めている。彼らにとって、あの男の支配から解放されることは、魔王討伐にも等しい悲願だったのだろう。
「静まりなさい」
私が扇をスッと横に振ると、歓声はピタリと止んだ。
彼らの瞳には、もはや昨日までの死んだような光はない。希望と、私に対する絶対的な忠誠心が宿っていた。
「喜ぶのはまだ早いですわ。権田という悪徳代官は排除しましたが、この領地(部署)の財政と運営は依然としてボロボロです。私の領民となったからには、あなた方にはこれまで以上の『成果』を出していただきます」
社員たちの顔が、少しだけ引き締まる。
「ただし。成果を出すための絶対条件として、これより『三つの新たな法』を定めます。これは何人たりとも破ることは許されない、絶対のルールです」
私は指を一本立てた。
「第一の法。『無意味な残業および休日出勤の全面禁止』」
「えっ……!?」
「人間の集中力の持続時間は、せいぜい一日に八時間が限度です。それ以上の労働は、ミスの誘発と品質の低下を招くだけの『負の連鎖』でしかありません。これより、定時である十八時を過ぎてオフィスに残ることは、私の特別許可がない限り一切禁じます。もし隠れて作業をするような者がいれば、即座に私が物理的に排除(窓から投げ落とす等)しますわ」
ざわっ、と社員たちがどよめく。IT業界において、残業禁止など夢物語に等しいからだ。
「第二の法。『適切な栄養と休息の義務化』」
私は二本目の指を立て、彼らのデスクの上に乱雑に置かれている空き缶やペットボトルを扇で指し示した。
「先ほどから気になっていましたが、あなた方が常飲しているその『魔力回復薬』なる劇薬。一時的に眠気を飛ばす効果はあるのでしょうが、命を前借りしているに等しい毒物です。あのようなものを食事代わりにすることは許しません。昼食は、私が経費で手配した高栄養価の兵糧(オーガニックの仕出し弁当)を全員で摂取していただきます。胃腸を労わりなさい」
「弁当が……会社のお金で出るんですか!?」
「当然です。戦う兵士に食事を与えない軍隊など、三日で滅びますわ」
私は最後に、三本目の指を立てた。
「そして第三の法。『適材適所の徹底と、情報の完全共有』」
私は田中を振り返り、顎で頷いてみせた。田中はハッとして、ホワイトボードの前に立ち、マーカーを構えた。
「昨日少し観察して分かりましたが、あなた方は自分の得意分野ではない仕事まで押し付けられ、効率を著しく落としていました。剣士に魔法を詠唱させ、魔法使いに前衛を張らせるようなものです。これより、各々の持つスキルセットを完全に可視化し、最適な陣形(チーム編成)を組み直します。田中、全員の得意言語と業務経歴のリストアップを!」
「はいっ! 直ちに!」
こうして、私による怒涛の『領地改革』がスタートした。
私は一人一人と面談(という名の尋問)を行い、彼らの隠された才能を次々と発掘していった。
ある者は、表向きは単純なデータ入力ばかりさせられていたが、実は高度なデータベース構築の才能(土属性の防御魔法に似た堅牢な構築センス)を持っていた。
またある者は、顧客対応ばかりで疲弊していたが、システムの全体像を把握する鳥瞰的な視野(風属性の索敵能力)に優れていた。
私は彼らをパズルのピースのように完璧に配置し直し、情報の伝達経路を整理した。
不要な定例会議は全て廃止。報告はチャットツールによる一行のみ。誰が何をいつまでにやるのか、全てがガラス張りになったことで、オフィス内の空気は劇的に風通しが良くなった。
*****
改革から一週間が経過した頃。
システム開発部の生産性は、以前の三倍以上に跳ね上がっていた。
十八時には全員が退社し、十分な睡眠と良質な食事をとることで、彼らの肌ツヤは見違えるように良くなり、タイピングの速度も正確性も飛躍的に向上していた。
「イザベラ統括。B社の次期アップデート版、予定より三日早くテスト工程が完了しました。バグの発生率は、過去最低の0.01%です」
「素晴らしいですわ、田中。チーム・バックエンドの皆に、特別ボーナスとして今日の三時のおやつは高級ホテルのマカロンを手配してあります。存分に魔力を回復しなさい」
「マカロン! ありがとうございます!」
かつては「IT土方の掃き溜め」と呼ばれた部署は、今やネオ・シナジー・システムズ内で最も活気があり、最も利益を生み出す最強の騎士団へと変貌を遂げつつあった。
しかし、順風満帆に見えた私の治世に、一つの黒い影が忍び寄ろうとしていた。
プルルルルルッ!
静かなオフィスに、鋭い固定電話の着信音が響き渡った。
受話器を取った若手社員の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「……は、はい。お世話になっております。え? 仕様の変更、ですか? い、いや、しかし明日が納品日でして、今からデータベースの根幹を弄るとなると……っ! す、申し訳ありません、ですが……!」
若手社員が震える手で受話器を押さえ、助けを求めるようにこちらを見た。
「……どうしましたの?」
「イザベラ統括……最大のクライアントである、A社のプロジェクト責任者、佐々木様からです。明日の納品予定のシステムに、急遽『AIによる自動分析機能』を追加しろと……。それができなければ、今回の検収は通さない、今後の契約も全て白紙にすると仰っています……!」
オフィスの空気が凍りついた。
A社は、我が社にとって逆らうことのできない絶対的な『宗主国』のような存在だ。権田が部長だった時代は、A社からの理不尽な要求には全て「イエス」と答え、そのツケを全て現場の徹夜労働でカバーしてきた。
明日納品のシステムに、今から巨大な機能を追加するなど、魔法を使っても不可能に近い。これは明確な『嫌がらせ』、あるいは『力関係の誇示』だった。
「……貸しなさい」
私は立ち上がり、青ざめる若手社員から受話器を優雅に受け取った。
相手は、自分たちが絶対的な強者であると信じて疑わない傲慢な貴族のようなもの。ならば、それ以上の高位貴族の『流儀』というものを教えて差し上げる必要がある。
「お電話代わりました。私がシステム開発部統括マネージャーの、イザベラ・フォン・ローゼンベルクですわ」
『あ? なんだお前。権田はどうした権田は。外人か何かの女が出てきてんじゃねえよ』
電話の向こうから聞こえてきたのは、底意地の悪い、人を小馬鹿にしたような中年男の鼻声だった。
『いいか、うちは金を払ってやってる客なんだよ。AI機能の追加くらい、徹夜すればできるだろ? できないなら、お前らの会社なんて明日には切ってやるからな。社長に泣きついて土下座でもするんだな、ギャハハハ!』
下品な笑い声が耳障りだ。
私は表情を一切崩さず、極めて冷酷に、そして透き通るような声で返答した。
「左様でございますか。契約の即時破棄。承知いたしましたわ」
『……は?』
電話の向こうの笑い声がピタリと止まり、オフィス内の社員たちも一斉に「ええっ!?」と悲鳴を上げた。
無理もない。A社の案件を切れば、我が社は大きな痛手を負う。
「明日納品のシステムに対し、要件定義書に存在しない大規模な仕様変更を前日に要求する。これは明確な下請法違反、ならびに契約不履行の強要にあたります。御社がそのような反社会的な手法でプロジェクトを進めるというのであれば、我が社の方からお取引を辞退させていただきますわ」
『お、おいふざけるな! お前らみたいな弱小企業が、うちを切って生きていけると思ってんのか!? 俺の一声で、この業界でお前らを干すことだってできるんだぞ!!』
「吠えないでいただきたい。耳が腐りますわ」
私は言葉の刃に、本物の『威圧』の魔力を乗せて叩きつけた。電話線を通しても、私の圧倒的な覇気は相手の魂に直接届くはずだ。
「よろしいですか、佐々木殿。御社が現在稼働させている基幹システムも、全て我が社が保守・運用を担っております。もし明日、契約を白紙にするというのであれば、即座にサーバーのメンテナンスを停止し、セキュリティパッチの更新も破棄します。御社の顧客データがサイバー攻撃に晒され、数百億の損失が出たとしても、それは『御社の都合による契約解除』が原因となりますわね?」
『なっ……!? き、貴様、それは脅迫だぞ!!』
「事実を申し上げたまでです。そもそも、AI機能の追加などという思いつき、現場の業務フローを全く理解していない愚策です。私が先週提出した『A社向け業務改善提案書』をお読みになりませんでしたか? 今御社に必要なのはAIの導入ではなく、各部門間に散らばったデータの『統合化』です。それを理解せず、流行りの言葉に踊らされているだけの無能な責任者は、御社の株主にとって最大の損失ですわ」
完全に論破され、電話の向こうの佐々木は「あ、う……」とカエルのような声を漏らすことしかできなくなっていた。
交渉において、一度でも相手に『恐怖』と『正論』を叩き込まれた者は、二度と主導権を握ることはできない。
「……良い取引というものは、互いに対等な立場でのみ成立します。明日の納品は、当初の契約通りに行います。もし追加の機能をご所望であれば、改めて『追加開発費』として当初の予算の倍額を請求し、三ヶ月の工数をいただきますわ。……それでよろしいですわね?」
『…………は、はい。承知、いたしました。当初の仕様通りで、検収、いたします……失礼します』
ツーツー、という無機質な音が鳴り、通話は切れた。
私は受話器をガチャンと置き、ふう、と小さく息を吐いた。
「交渉成立ですわ。明日の納品、予定通り進めなさい」
私が振り返ると、オフィスの社員たちは口をポカンと開けたまま、完全に石化していた。
数秒の沈黙の後、田中が震える両手で顔を覆いながら叫んだ。
「イ、イザベラさぁぁぁん!! あんた神だ!! あのA社の佐々木を、完全に論破して黙らせるなんて……!!」
「しかも追加開発の予算を倍額で吹っ掛けて、相手に文句一つ言わせなかった……! 凄すぎる、一生ついていきます!!」
オフィスのテンションは最高潮に達し、もはや私に対する感情は「尊敬」を通り越して「信仰」の域に達しようとしていた。
「当然の帰結ですわ。理不尽な暴力に屈する必要など、どこにもありません。あなた方が誇りを持って作り上げたシステムなのですから、胸を張って納品しなさい」
私が微笑みかけると、社員たちは涙ぐみながら深く頷き、再び自分の持ち場へと戻っていった。その背中は、もはや死んだ魚の目をした社畜のものではなく、自らの力で未来を切り拓く、気高き戦士の背中だった。
(ふふ、なかなか骨の折れる領地経営ですが、彼らが成長していく姿を見るのは悪くありませんわね)
私は窓の外に広がる、コンクリートとネオンに彩られた現代日本の景色を眺めながら、密かにほくそ笑んだ。
追放された悪役令嬢による異世界(現代日本)でのホワイト企業改革は、まだ始まったばかりである。
翌日。A社への次期システム納品は、かつてないほどの滑らかさで完了した。
これまでであれば、納品直後に無数のエラーや予期せぬ不具合が噴出し、対応に追われた社員たちが阿鼻叫喚の地獄絵図を展開するのが常であった。しかし、私の徹底した工数管理と、適材適所のチーム編成によって磨き上げられたプログラムは、寸分の狂いもなく完璧に稼働したのである。
午後には、昨日私に電話で怒鳴り散らしていたA社の佐々木から、再び着信があった。
電話を取った若手社員が、ビクビクしながら私に受話器を渡す。
「……お電話代わりました。イザベラですわ」
『あ、ああっ! イザベラ統括マネージャー様! こ、この度は本当に素晴らしいシステムを納品いただき、誠にありがとうございます!』
受話器から聞こえてきたのは、昨日の傲慢な態度が嘘のような、平身低頭の媚びへつらう声だった。
『実際にシステムを動かしてみたのですが、処理速度がこれまでの三倍……いえ、五倍に跳ね上がっておりまして! 現場の社員たちも大絶賛しております! 昨日は私が現場の状況も知らず、生意気な口を利きまして、誠に申し訳ございませんでした! 例の追加開発の件、ぜひ御社の仰る通りの倍額の予算で、正式に発注させていただけないでしょうか!?』
「……ええ。御社がご自身の非を認め、正当な対価を支払う用意があるというのであれば、喜んでお引き受けいたしますわ。今後とも、良きビジネスパートナーとしてよろしくお願いいたします」
『は、はいっ! よろしくお願い申し上げます!』
通話を終え、私が静かに受話器を置くと、オフィス内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「やった……! A社の佐々木を完全に手懐けたぞ!」
「追加開発の大型受注まで取れるなんて! イザベラさん、一生ついていきます!!」
社畜……いや、今や私の誇り高き領民となった彼らの顔は、達成感と自信に満ち溢れていた。
私は扇を広げ、優雅に微笑んだ。
「当然の成果です。あなた方の技術力は本物。私はただ、それを正しく評価させるための『交渉』を行ったに過ぎません。さあ、今日はもう十八時ですわね。本日は納品完了の祝勝会として、私が経費で最高級の焼肉店を貸し切っております。存分に肉を食らい、英気を養いなさい!」
「うおおおおぉぉぉっ!! 焼肉!! イザベラ統括バンザイ!!」
彼らは歓喜の雄叫びを上げながら、一斉にパソコンの電源を落とし始めた。
定時退社からの、経費での豪遊。かつてのブラック企業時代には考えられなかった光景が、今ここにはある。
私は、彼らが笑顔でオフィスを出ていく背中を見送りながら、為政者としての確かな充足感を感じていた。
*****
それから一ヶ月後。
株式会社ネオ・シナジー・システムズの『システム開発部』は、社内でも完全に独立した特区として機能していた。
売上高は前年同月比で三〇〇%増。離職率はゼロ。
その驚異的な業績と、定時退社を徹底するホワイトな労働環境は、他の部署の社員たちから羨望の眼差しを向けられていた。神崎社長も私の手腕を完全に認め、私が要求した予算や人員の追加申請には、ノータイムで判を押すようになっている。
私は社長から提供された都内の高級タワーマンション(私の新たな城だ)から、専用の黒塗りの車で出社する身分となっていた。
しかし、光あるところに影は落ちる。
私の治世が盤石になればなるほど、かつての甘い汁を吸っていた者たちの『怨念』は、暗い地下でどす黒く煮詰まっていくのだ。
その事件は、週末の金曜日の夜に起きた。
定時を過ぎ、社員たちが皆笑顔で帰宅した後の、静まり返ったオフィス。私は一人、来週から始まる新規プロジェクトの予算編成案を練るために、社長室から借り受けた豪華なソファに座って資料に目を通していた。
その時である。
『ピィーッ! ピィーッ! 警告。サーバーへの不正なアクセスを検知しました』
突如として、オフィスの壁面に設置された大型モニターが赤く点滅し、無機質な警告音が鳴り響いた。
私は即座に立ち上がり、田中のデスクに置かれているメイン端末へと向かった。画面には、夥しい数のエラーコードが滝のように流れ落ちている。
(……外部からの攻撃? いいえ、違いますわね)
私はキーボードを叩き、侵入者の痕跡を瞬時に解析した。
魔法陣の解析に比べれば、現代のセキュリティシステムの構造など単純なパズルに過ぎない。敵は外部のネットワークからではなく、社内の極めて限られた人間しか知らない『バックドア(裏口)』から侵入し、A社向けのデータベースの全消去コマンドを実行しようとしている。
「内部犯……。しかも、この強引で知性の欠片もないアクセスの仕方は……」
私の脳裏に、あの醜く太った男の顔が浮かんだ。
権田だ。
彼は部長を解任された後、人事部付という名目で事実上の『窓際族』として社内に残っていた。どうやら彼は、自分が部長時代に密かに作成していた管理者権限の裏アカウントを利用し、私が築き上げたシステムを破壊することで、私を失脚させようと企んでいるらしい。
「愚かな。自らの無能を認めることができず、あまつさえ会社全体に損害を与えてまで私怨を晴らそうとするとは。……反逆罪、万死に値しますわ」
私は冷たく呟き、すぐさま防御プログラムを展開した。
しかし、権田もかつてはエンジニアの端くれだったのか、消去コマンドは時限式にセットされており、後数分でA社の顧客データが完全に吹き飛ぶ仕組みになっていた。
通常のタイピング速度では、解除コマンドの入力が間に合わない。
(ならば……力技でねじ伏せるまでです)
私は目を閉じ、体内の魔力を極限まで高めた。
この世界に来てから温存していた、雷属性の魔法。私はそれを物理的な破壊ではなく、電子基板の微弱な電流を直接操作する『電子干渉』の術式へと変換した。
「――我が指先に集え、紫電の精霊よ。悪しき呪いを断ち切り、万物をあるべき姿へ固定せよ(ライトニング・ロック)!」
私がキーボードの上に両手をかざし、魔力を解放した瞬間。
パチッ! と青白い火花が散り、モニターを埋め尽くしていた赤いエラーコードが、ピタリと静止した。
魔法による強制的な物理干渉で、サーバー内のデータ書き換えプロセスを時間ごと凍結させたのだ。
「……ふぅ。とりあえず、データの破壊は食い止めましたわ」
私は扇を開き、パタパタと仰ぎながらため息をついた。
しかし、これで終わりではない。領主の務めは、反逆者の企みを阻止するだけでなく、その首根っこを掴み、二度と歯向かえないように完全に処断することだ。
私は再びキーボードを操作し、今まさに不正アクセスを行っている端末の物理的な位置(IPアドレスと社内ネットワークのルーティング情報)を特定した。
「……ビンゴですわね。地下三階の、旧資料室。あんな埃っぽい場所に隠れてコソコソと。ネズミにはお似合いの場所ですわ」
私はドレスの裾を翻し、深夜の静まり返った社内を地下へと向かって歩き出した。
*****
地下三階、旧資料室。
普段は誰も寄り付かない、カビと古い紙の匂いが充満する薄暗い部屋の奥で、権田はカタカタと持ち込んだノートパソコンを叩いていた。
その顔は、脂汗に塗れ、狂気に満ちた薄気味悪い笑みを浮かべている。
「ひひっ……ひひひひっ。あのイカれ女め、俺の居場所を奪い上がって……! 今頃、A社のデータが全部吹き飛んで、泣き叫んでる頃だろうな! これでA社からの契約は打ち切り、あの女も、俺を裏切った田中たちも、全員クビだ!! ざまぁみろ!!」
権田が歓喜の声を上げながらエンターキーを叩こうとした、その瞬間。
ドガァァァァンッ!!
資料室の分厚い鉄扉が、爆発したかのような轟音と共に内側へ吹き飛び、宙を舞った。
「ひぃっ!?」
あまりの衝撃に、権田は椅子から転げ落ち、尻餅をついた。
舞い上がる土煙の中、カツン、カツンという優雅なヒールの音が響く。
土煙を払うように現れたのは、真紅のドレスを身に纏い、右手に閉じた扇を持った私だ。
「誰かと思えば、やはりあなたでしたか。権田」
「い、イザベラ……!? な、なぜお前がここに!? いや、それよりあの扉……どうやって……!?」
権田は信じられないものを見る目で、ひしゃげた鉄の扉と私を交互に指差した。
「ああ、鍵が閉まっていたので、少々手荒な手段(風魔法の破城槌)を使わせていただきました。備品の損壊については、後で社長に経費精算をお願いしておきますわ」
私は扇を広げ、口元を隠しながら権田を見下ろした。
その瞳には、一欠片の慈悲もない、絶対零度の冷酷さを宿して。
「お前の企みは全て失敗に終わりましたわ、権田。お前が仕掛けた破壊プログラムは、私の手によって完全に無効化されました。A社のデータは、一バイトの欠損もなく無事です」
「なっ……!? そ、そんな馬鹿な! 俺が組んだ時限式プログラムは、そう簡単に止められるはずが……! 外部から強制シャットダウンでもしたのか!? ならデータは破損しているはずだ!」
「私の技術を、お前のような次元の低い手品と一緒にしないでいただきたい。私はデータの時間を『凍結』させたのです。……理解できなくても構いません。お前のような単細胞生物に、高度な魔法理論を教える義理はありませんから」
私が一歩、また一歩と距離を詰めると、権田は恐怖で顔をひきつらせながら、後ずさりを始めた。
「く、来るな……! 近寄るな!! 俺は悪くない! 俺はこの会社のために……!!」
「この期に及んでまだ己を正当化しますか。見苦しいにも程がありますわ」
私はパチンと扇を閉じ、権田の鼻先にピタリと突きつけた。
「会社の財産を破壊し、無実の領民(社員)たちを道連れにしようとした罪。これはもはや、社内規則の違反などという生ぬるいものではありません。立派な『電子計算機損壊等業務妨害罪』、つまり犯罪です」
「ひっ……!」
「お前が使った不正アクセスのログ、監視カメラの映像、そして今この場で私が録音しているお前の自白。全て証拠は揃っています。……すでに警察(衛兵)には通報済みですわ。間もなくこのビルを包囲するでしょう」
「け、警察!? ま、待ってくれ! 頼む、それだけは! 逮捕されたら、俺の人生は終わりだ! 家族もいるんだぞ!?」
権田は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私の足元にすがりつこうとした。
私は汚物を避けるようにサッと足を退け、冷たく言い放った。
「自業自得です。お前が私腹を肥やし、部下たちに理不尽な労働を強いていた時、彼らの人生や家族について考えたことがありましたか? 上に立つ者としての責任を放棄し、自らの保身のために他者を平気で切り捨てる。そのような男に、情けをかける価値など一ミリもありませんわ」
遠くから、けたたましいパトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
権田は完全に絶望し、その場に崩れ落ちて号泣し始めた。
私はそんな彼を一瞥することもなく、静かに背を向けた。
「さようなら、無能な豚。暗く冷たい檻の中で、自らの愚かさを永遠に悔いるといいですわ」
こうして、かつてシステム開発部を恐怖で支配していた悪徳部長は、自らが仕掛けた罠によって完全に破滅し、手錠をかけられて会社を去っていったのである。
*****
週明けの月曜日。
社長室のふかふかのソファに座る私の前に、神崎社長が最高級の紅茶を淹れて差し出した。
「……いやはや。権田の奴がそこまで狂っていたとは。私がもっと早く彼の本性に気づき、首を切っていれば、君にこんな危険な真似をさせることもなかった。本当に申し訳ない」
社長は深々と頭を下げた。私は優雅に紅茶のカップを手に取り、香りを楽しんでから一口飲んだ。
「お気になさらず。害虫駆除も、領主の大切な務めですから。それに、システムには一切の被害は出ておりません。結果オーライ、というやつですわ」
「君のその規格外の能力には、毎回驚かされるよ。……ところで、今日君を呼んだのは、謝罪のためだけではないんだ」
神崎社長は表情を引き締め、真剣な眼差しで私を見つめた。
「イザベラ君。君がこの会社に来てからの一ヶ月、システム開発部の業績は信じられないほどの右肩上がりだ。君が導入した『定時退社と高効率化』のルールは、今や他の部署からも導入を求める声が殺到している。君は、この会社の労働環境の概念を根底から覆してくれた」
「当然の導きをしたまでですわ」
「そこでだ。……君に、この会社の『副社長』、いや、実質的な最高執行責任者(COO)に就任してもらえないだろうか」
社長の口から出た言葉に、私はわずかに目を瞬かせた。
「COO……? つまり、このネオ・シナジー・システムズという国全体の、実務における頂点に立てと?」
「ああ。人事、営業、総務、全ての部署を君のやり方で『ホワイト化』してほしい。もちろん、権限は完全に君に委ねるし、報酬は……そうだな、今の私の役員報酬の倍を約束しよう。どうだろうか?」
神崎社長は、完全に私に会社を預ける覚悟を決めているようだった。
私はカップをソーサーに置き、ふふっ、と小さく笑い声を漏らした。
「……良いでしょう。その提案、お受けいたしますわ」
「おお! 本当か!」
「ええ。この会社には、まだ救うべき無能な上司と、才能を埋もれさせている社畜たちが数多く存在しているようですから。全て、私の完璧な領地として作り変えて差し上げます」
私が不敵な笑みを浮かべると、神崎社長は安堵したように顔をほころばせた。
*****
その頃。
私が元いた異世界――ローゼンベルク公爵領を擁する王国の王城では、信じられない光景が繰り広げられていた。
「どういうことだ!? 国庫の資金が底を突いているだと!?」
エドワード王太子が、玉座の間で財務大臣の報告書を投げつけ、顔を青ざめて叫んでいた。
「は、はい……。これまでイザベラ様が、複雑な魔法陣を用いた高度な帳簿管理と、他国との絶妙な貿易交渉で利益を上げておられたのですが……。イザベラ様が追放されてから、その魔法陣は誰にも解読できず、貿易のパイプも全て途絶えてしまいまして……。さらに、リリィ様が『聖女の慈悲』と称して、平民たちに無償で金品をばら撒いておられるため、国家予算は完全に破綻しております……!」
「な、なんだと……!? リリィ! お前、なんということを!」
王太子が隣にいる男爵令嬢リリィを睨みつけると、彼女は涙ぐみながら震えた。
「だ、だってぇ……エドワード様が、イザベラみたいな冷酷な女とは違う、私の優しいところが好きだって言ってくれたじゃないですかぁ……! 私はただ、皆に幸せになってほしかっただけで……!」
「ば、馬鹿者! 金もなしにどうやって国を回すのだ!! イザベラ……! あいつがいれば、こんなことには……!」
王太子はついに膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
有能すぎる婚約者を「目障りだ」という理由だけで追放した代償は、あまりにも大きかった。魔法と剣の世界の王国は今、深刻な経済崩壊と隣国からの侵略の危機に瀕し、滅亡へのカウントダウンを始めていたのである。
*****
そんな異世界の惨状など知る由もない私は、東京の夜景を一望できる副社長室の巨大な窓の前に立ち、ワイングラスを傾けていた。
「……ふふっ。良い眺めですわね」
眼下に広がる、無数の光の粒。
その一つ一つが、この街で生きる人々の営みであり、私が守り、導くべき新たな領地の輝きだ。
副社長室の扉がノックされ、今や私の右腕へと大出世を果たした田中が入ってきた。
「イザベラ副社長。明日の全社キックオフミーティングの資料、完成いたしました。もちろん、百ページではなく、要点をまとめたA4用紙一枚です」
「ご苦労様、田中。あなたの働きにはいつも感心させられますわ」
私が振り返って微笑むと、田中は照れくさそうに頭を掻いた。
「いえ……俺なんて、まだまだです。イザベラさんがいなかったら、俺は今でもあの地下室みたいなオフィスで、心を殺してキーボードを叩き続けていたはずですから。……俺たちを救ってくれて、本当にありがとうございます」
田中の真っ直ぐな言葉に、私はグラスのワインを少しだけ揺らした。
「感謝など不要です。私はただ、私が完璧であるために、私の周りの環境も完璧でなければ気が済まない、それだけのことですわ。さあ、明日は忙しくなります。全社員の意識を、根底から叩き直して差し上げますわよ!」
「はいっ!!」
悪役令嬢として追放された私は、この魔法のない異世界で、最高の労働環境と最強の部下たちを手に入れた。
もう、あの窮屈で無能な王族の尻拭いをする日々に戻る気など、一ミリたりともない。
私は、窓ガラスに映る自分自身の、自信に満ち溢れた美しい笑みを見つめながら、声高らかに宣言した。
「さあ、現代日本(ブラック企業)の野蛮人ども。このイザベラ・フォン・ローゼンベルクが、あなた方に真の『ホワイト』というものを、骨の髄まで教えて差し上げますわ!!」
夜景の光よりも眩しく、そして気高い私の改革の嵐は、この日を境に日本中のIT企業を席巻していくことになるのだが……それはまた、別のお話。




