第一話①
春の朝の空気は、少しだけ冷たい。でも校門の横に並んだ桜の木が満開だからか、どこか甘い匂いが混ざっている気がした。私はその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、通学路の最後の坂を上る。
坂城明日香。高校一年生。
ついこの前まで中学生だったのに、制服が変わるだけで世界まで少し変わった気がするのだから不思議だ。まだ少しだけ慣れないブレザーの袖を指で整えながら、私は校門をくぐった。
校庭ではもう部活の朝練が始まっている。遠くからボールを蹴る音が聞こえてきて、サッカー部が走っているのが見えた。野球部はグラウンドの端でランニングをしていて、大きな声で掛け声を上げている。
なんだか朝から元気だなぁ、と思いながら私は校舎へ向かった。
昇降口に入ると、靴箱の列の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「明日香ー!」
振り向くと、手をぶんぶん振っている女の子がいる。私は思わず笑った。
「おはよ、綾香」
近藤綾香。
私の大親友だ。中学のころから三年間ずっと同じクラスで、ほとんど毎日一緒にいた。背は私とあまり変わらないけれど、とにかく元気で動きが大きい。廊下の向こうにいてもすぐ見つけられるタイプの人だ。
綾香は私のところまで小走りでやってくると、なぜか少し得意げな顔をした。
「ねえ明日香、聞いて」
「なに?」
「今日、英語の小テストあるらしい」
「えっ」
私は思わず固まった。
「うそ」
「ほんと」
「聞いてない」
「私も今聞いた」
「それは聞いたって言わないよ」
私がそう言うと、綾香はけらけら笑った。こういうやり取りは中学のころからずっと変わらない。
靴を上履きに履き替えて、私たちは並んで階段を上る。
私と綾香は中学の三年間ずっと同じクラスだった。そしてもう一人、ずっと同じクラスだった人がいる。
ちと。
私の彼氏だ。
付き合い始めたのは中学二年生の冬。あのときから、もう二年くらいになる。
「そういえばさ」
階段の途中で、綾香がふと思い出したように言った。
「千都世、最近どう?」
その名前を聞くと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「うん、元気だと思う」
「“思う”って」
綾香は少しだけ意地悪そうに笑った。
「最近会ってないんでしょ?」
「うん」
正直に答えると、綾香は「だよね」とうなずいた。
ちとは私と同じ高校じゃない。別の学校に通っている。距離はそんなに遠くないけれど、学校が違うだけで会える時間は思ったより少なくなる。
それに、ちとは学校をよく休む。
出席日数はいつもギリギリらしい。
理由は、家庭の事情。
付き合う前に、ちゃんとそう言われていた。
『家庭の関係で、色々不便かけるかもしれない』
少し真面目な顔で、ちとはそう言った。
『それでもいい?』
私はそのとき、あまり迷わなかった。
『うん』
それだけだった。
だから今も、急に会えなくなったり、予定が変わったりしても、私はあまり深く聞かないようにしている。
「明日香はさ」
綾香が横から私の顔をのぞき込んでくる。
「ほんと千都世のこと好きだよね」
「え」
「顔に出てる」
「出てないよ」
「出てるって」
そう言われて、私は少しだけ照れた。綾香は昔からこういうところが鋭い。
教室のドアを開けると、まだ半分くらいしか人が来ていなかった。窓際の席に鞄を置いて、私は椅子に座る。
朝の教室は少し静かで、なんだか落ち着く。
私はスマホを取り出して、メッセージアプリを開いた。
画面の上に表示されている名前を見て、少しだけ嬉しくなる。
ちと。
メッセージは短かった。
『おはよう』
それだけ。でも私はすぐに返信を打つ。
『おはよ!今日は早起きだね』
送信してから、私は鞄の中を探る。小さなケースを取り出して、中からイヤホンを出した。
耳につけて、スマホの画面をタップする。
流れ始めたのは、静かなギターのイントロ。
それだけで胸の奥がふっと軽くなる。
メモリア・コード。
略してメモリコ。
今いちばん好きなバンドだ。
ライブでは狐の面をつけていて、メンバーの顔は誰も知らない。テレビにも顔を出さないし、正体も明かされていない。それなのに、若い人たちの間ではすごく人気がある。
理由はきっと、音楽だ。
青春の真ん中にあるような曲。恋とか、悩みとか、未来とか。そういう気持ちを、そのまま音にしたみたいな歌が多い。
特に好きなのは、ギターボーカル。
Thous。
透明感のある歌声と、感情のこもったギター。初めて聴いたとき、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がした。
「またメモリコ?」
隣の席から声がした。
見ると、綾香がにやにやしている。
「うん」
「ほんと好きだね」
「好き」
即答すると、綾香は笑った。
「明日香、サウズの話になると止まらなくなるよね」
「そんなことないよ」
「あるよ」
そう言われて、私は少しだけ照れた。
チャイムが鳴って、ホームルームが始まる。担任の先生が教室に入ってきて、出席を取り始めた。私はイヤホンを外して鞄にしまう。
こうして、高校生活の一日が始まった。
まだこのときの私は知らなかった。
この学校で過ごす時間が。
この春の静かな毎日が。
あとで振り返ったとき、きっと特別な意味を持つことになるなんて。
そんなこと、まだ想像もしていなかった。




