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第9話 王都の動乱。ゲームの強制力が迫る

 辺境の城に、ひどく穏やかで、甘い時間が流れ始めていた。


 ――いや、正確に言えば。穏やか“すぎて”、むしろ私のオタクとしての情緒がまったく追いついていなかった。


 朝は、起きて食堂へ行くと「石の床は冷えるから」とクライヴ様自らの手で最高級の毛織物の膝掛けをかけられ。

 昼は、城の掃除を終えて図書室で調べ物をしていると「その本は厚くて重い」と言われ、なぜか彼に本ごと抱き上げられて(!?)ソファまで運ばれ。

 夜は、就寝前にホットミルクを持った彼が自室の前に現れ、「昨夜は眠れたか。今日も冷えるな」と、耳元で低く甘い声で気遣われる。


 しかも、その全工程を、クライヴ様はものすごく自然な、呼吸をするような動作でやってのけるのだ。


 こちらが心臓発作を起こしそうになって赤面して固まっても、「どうした。熱でもあるのか」と本気で不思議そうに、ひんやりとした大きな手で私の額に触れてくるので、なおさらタチが悪い。


 推しの、無自覚な過保護と甘やかし。

 その破壊力は、私の貧弱な理性を粉微塵にするには十分すぎるほど高かった。


「……これは、厚遇。あくまで、生贄として送られてきた哀れな令嬢に対する、辺境伯なりの福利厚生と厚遇。私はただ、呪いを解くお守りがちょっと作れる、便利な居候のお掃除係……」


 私は自室の机に突っ伏しながら、今日何度目かわからない自己暗示を虚ろな目で唱え続けていた。


 でも、その悲しい呪文に対し、机の上に並べられた“証拠品”たちが無言で反論してくる。


 銀の狼とサファイアの髪留め。

 王都の流行を先取りした上質なショール。

 私の手に合わせて特注された絹の手袋。

 最高級の刺繍糸一式。

 そして今朝、新しく届けられたばかりの、足元を冷やさないための柔らかな羊毛のルームシューズ。


 ……うん、いくらなんでも「厚遇」の範囲、広くない?

 これ、どう見ても『愛人』か『溺愛されている妻』への貢ぎ物のラインナップだよね?


 そこへ、こんこん、と控えめに扉が叩かれた。


「リアナ様、グレアムでございます。旦那様が至急、執務室へお呼びです」

「は、はい! 今行きます!」


 私は反射で飛び起きて、乱れた髪を整えた。


 最近、これが多い。

 この城へ来た当初は「妙な女だ、視界に入るな」と氷のように警戒されていたはずなのに、ここ数日はやたらと執務室へ呼ばれるのだ。

 お茶の味見に付き合え、休憩に読む本を選べ、この書類の束の紐をほどけ、中庭に咲いた花の名前を教えろ――最後のは辺境伯の仕事と関係なさすぎて本当に意味がわからなかったけれど、とにかくクライヴ様は、何かと理由をつけて私を自分の視界そばに置きたがるのだ。


 それを「もしかして私、愛されてる?」と深く考えると、自意識過剰で爆発四散しそうになるので、私は毎回『推しの気まぐれ・ランダム発生イベント中』とだけ脳内で処理することにしていた。


 しかしその日。

 呼ばれて向かった執務室の空気は、いつもの甘やかなものとは決定的に違っていた。


 重い黒檀の扉を開けて部屋に入った瞬間、ひやりとした、刃物のような緊張感が私の肌を撫でた。


 クライヴ様は机の前に立ち、開かれた一通の封書へ鋭い目を落としていた。

 窓から差し込む午後の光が彼の完璧な横顔を照らしているのに、その表情は絶対零度の氷のように冷たく、険しい。呪いが解けかけて薄くなっていたはずの彼の周囲の瘴気まで、今日は彼の怒りに呼応するように微かに濃く、黒く揺らめいていた。


 そして、机のそばにはグレアムが、いつになく厳しい顔つきで控えている。


「……お呼びでしょうか、旦那様」


 私が空気を読んで静かに声をかけると、クライヴ様がゆっくりと顔を上げた。


「ああ。来い」


 短い、感情を抑え込んだ一言。

 私は素直に彼のそばへ近づいたが、胸の奥がざわつく。嫌な予感がした。こういう張り詰めた空気、前世の記憶で知っている。


 ゲーム本編で見た、物語の歯車が強制的に動き出す直前の、あの不穏なイベントスチルの気配だ。


「何か、ありましたか?」


 恐る恐る尋ねると、クライヴ様は答えず、代わりに机上に放り出されていた封書を私へ差し出した。

 その封蝋には、見覚えのある豪奢な紋章が押されている。


 王家の紋章――第一王子アランの直属を示す、剣と百合の紋章だ。


 それを見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。

 私は震える手で手紙を受け取り、中を読む。


 内容は、貴族特有の遠回しな嫌味に満ちていたが、要約すれば簡潔だった。


 『第一王子アラン殿下より通達。

 近頃、北方辺境における“呪われた辺境伯”の魔力の暴走と、不穏な動静が王都で問題視されている。

 また、生贄として城へ送られた令嬢リアナ・バーレットの安否も長らく確認できていない。

 よって、王家は近く、聖女候補を伴った正式な調査団(討伐隊)を派遣する――』


「……っ」


 息が、止まった。


 これだ。

 ゲーム本編のメインシナリオが、ついにこちらへ向かって動き始めている。


 原作ゲームでは、この少し後。正義感(という名の傲慢さ)に酔いしれた第一王子アランが、ヒロインであるアリスを連れて、大軍を率いて辺境へ向かってくるのだ。

 “化け物に囚われた可哀想な生贄令嬢を救い出す”という、民衆受けの良い大義名分を掲げて。


 実際には、強力な武力を持つ辺境伯の討伐と、エヴァンズ家の豊かな領地への介入、それに辺境の軍事権を王家に取り込むための、ただの薄汚い政治的な布石でしかないのに。

 そしてその身勝手な“正義”の一連の流れの果てに、孤立無援となったクライヴ様が討ち果たされるという、理不尽極まりないバッドエンドが待っている。


 私は無意識のうちに、手紙の端をくしゃりと強く握りしめていた。


「リアナ」


 低い声に、はっとして顔を上げる。

 クライヴ様の暗い琥珀の瞳が、まっすぐ私を見ていた。


「怯えることはない。お前には関係のないことだ。気にするな」

「関係なくないです!」


 思わず、食い気味に強い声で言い返してしまった。


 クライヴ様の眉がわずかに寄る。グレアムも驚いたように小さく目を見開いた。

 でも、私の中のオタクとしての逆鱗に触れてしまった以上、もう口は止まらない。


「だって、私の安否確認を口実にするって書いてありますし、これ絶対ろくなこと考えてませんよね!?」

「……」

「しかも“問題視”って何ですか! 十年間も命がけで最前線の国境を守ってもらってるくせに、安全な王都から難癖つけるなんて、いくら王子でも失礼すぎませんか!?」


 言えば言うほど、だんだん腹が立ってきた。


 前世でゲームをやっていた頃から、ずっと不満に思っていたのだ。この第一王子アラン、顔が良いだけで妙に鼻持ちならないな、と。

 自分は安全な王宮で綺麗事を並べているだけで、クライヴ様みたいに泥にまみれて実務と自己犠牲を背負ってきた大人を、自分の名声を上げるための「都合のいい討伐対象(悪役)」として扱いやがって。


 しかも、純粋な原作ヒロインまで巻き込んで、“光の正義”の看板を掲げてくるのだからたちが悪い。


 私が鼻息を荒くしてむっとしていると。

 クライヴ様はぽかんと私を見たあと、ふっと息を吐き、静かに笑った。


「……やはり、お前は変わっているな」

「変わってますけど、今はそこじゃないです! 怒るところです!」

「たしかに、そこではないな」


 わずかに口元が緩む。

 その不意打ちの美しい微笑みに一瞬どきりとして心臓が跳ねたが、私は首を振ってすぐ現実に引き戻された。


「調査団って、いつ頃来るんですか」

「早ければ十日ほどだろう。手紙には正式な使者を装って来るとあるが、第一王子が直々に来るとなれば、確実に騎士団の精鋭を率いてくる。実質的な武力介入だ」

「……」


 十日。

 短い。短すぎる。


 ゲームとまったく同じ流れなら、その後、ヒロインと王子が討伐名目で強行突破してやって来る。つまりこれは、その前段階の宣戦布告だ。

 ここで向こうに少しでも付け入る隙を見せれば、一気に蹂躙される。


 クライヴ様は、私の前に立ち、静かな、けれど有無を言わせぬ声で続けた。


「だから、お前はしばらく私室周辺から離れるな。中庭にも出るな。お前の生活に必要なものはすべて、私が部屋へ運ばせる」

「……軟禁、ですか?」

「保護だ」


 即答だった。

 しかも、その瞳に一切の迷いがない。


 私はじっと、自分を見下ろすクライヴ様を見つめた。


 王家の軍事的動きに対して警戒しているのは当然だ。でも、それ以上に今のこの人は、私がこの政治的な争いに巻き込まれ、王家の目に留まることを、本気で、心底嫌がっている。


 その不器用すぎる事実がわかるだけに、胸があたたかく、でも同時に、彼にすべてを背負わせているようでひどく苦しくなった。


「……私、ここにいたら、旦那様の邪魔になりますか」


 ぽつりと漏らすと、クライヴ様の表情がピシリと凍りついた。


「何?」

「だって、私がここにいると“生贄令嬢を救出する”なんて言われる格好の口実になるし、王都側も正義を振りかざして動きやすいでしょうし……私がいない方が」

「リアナ」


 声音が、地を這うように低くなる。

 私はびくっと肩を揺らしたが、クライヴ様は私に怒ったわけではなかった。むしろ逆だ。ひどく感情を抑え込んだ、焼け焦げるような声で、はっきりと言った。


「二度と、私の前でそんなことを言うな」

「……っ」

「お前は邪魔ではない。絶対にだ」


 暗い琥珀の瞳が、獲物を捕らえるように真っ直ぐ私を射抜く。


「むしろ、お前という存在を理由にして、私の領地で好き勝手しようとする王都の連中が気に食わん。……お前を連れ出すなど、死んでも許可するものか」


 心臓が、大きく跳ねた。

 その言葉はあまりに真っ直ぐで、あまりにどす黒い熱を帯びていて、私は一瞬、息を止めて返事ができなかった。


 クライヴ様は私に一歩近づき、見下ろすように低く続ける。


「王都の連中が何を企んでいようと、私は構わん。返り討ちにするだけだ。……だが、あの小僧がお前に少しでも手を出そうとするなら、話は別だ。国を敵に回してでも、奴の首を刎ねる」

「クライヴ様……」

「お前は、大人しく私の後ろにいろ。私の部屋から出るな」


 それは、辺境伯としての命令の形をした言葉だった。

 でも、そこにあるのはただの支配欲ではなく、痛いほど強い、私への執着と庇護の意思だ。


 ……いや、庇護だけかな。

 何かもっと別の、すごく重くて暗い、男としての独占欲が混ざっていないかな。

 と一瞬思ったけれど、限界オタクの私は「今はそんな自分の都合のいい解釈をしている場合ではない」と、湧き上がる期待に全力で蓋をした。


 私は小さく、けれどしっかりと頷く。


「わかりました。大人しくしています」

「……いい子だ」


 大きな手が伸びてきて、私の頭をそっと、甘やかすように撫でた。


「っ!?」


 不意打ちの物理的ファンサに、私は完全に固まった。

 クライヴ様のほうも、無意識に撫でてしまってから少し間があって、自分の甘すぎる行動を認識したのか、わずかに耳を赤くして目を細める。だが、撫でる手は止めなかった。


 無理。

 心臓が爆発する。これ絶対、私の寿命縮んでる。


 私はどうにか平静を装いながら、真っ赤な顔で話題を無理やり戻した。


「で、でも、王都がそんな動きをしてるなら、原作ヒロイ……じゃなくて、向こうの中心人物の“聖女”も動いてるはずです」

「……げんさく? せいじょ?」

「いえ、こちらの話です! 気になさらず!」


 危なかった。またオタク用語が滑り出た。

 私は大きく咳払いして続ける。


「つまり、たぶんこれで終わりじゃないです。調査団はあくまで前触れで、本番は後から別にドカンと来ます」

「本番、だと?」

「第一王子の直属騎士団による、完全武装した討伐隊、とか……」


 言葉にしただけで、胃がきりきりした。

 だが、クライヴ様は少しも動じない。


「来るなら、まとめて国境の土の養分にするだけだ。エヴァンズの軍事力を舐めるな」


 あまりにも頼もしい、ラスボス特有の強者の台詞だ。

 頼もしいけれど、それでゲーム本編では、ヒロインの『聖なる浄化の光』というチート能力の前に、呪いを暴走させられて追い詰められたのだ。

 この人は強い。でも強いからこそ、敵は正面から武力で来るのではなく、“正義”と“聖女”と“王権”という絶対的なシステムで潰しに来るのだ。


 私は悔しさに唇を噛んだ。

 そして、ふと、ある厄介な事実に気づく。


「……私の、実家」

「男爵家か。それが何だ」

「たぶん、あちら側(王都側)に寝返って、討伐隊に同行してきます」


 クライヴ様の目が、すっと細く、冷酷なものになる。


「根拠は」

「私、あの家ではただ飯食らいの厄介払いされてましたから。今さら本気で娘を助けようなんて、微塵も思ってるわけないです。たぶん“呪われた化け物に囚われた可哀想な娘を救ってください!”とか白々しい涙を流しながら、王子に取り入って恩恵を得るための道具にするつもりです」


 自分で言っていて、実の親ながら反吐が出そうになる。

 でも、あり得る。というか、貴族の思考回路を考えればほぼ確実だ。


 父も母も、私個人には何の愛情もない。あるとすれば、自家に利益をもたらすための「同情を引くための駒」としての価値だけだ。

 今の私は“辺境伯の城で酷い目に遭っているはずの令嬢”として、彼らにとってちょうどいい政治的な武器になってしまっている。


 沈黙が落ちる。

 クライヴ様の周囲の空気が、また一段、絶対零度に冷えた。


「……そうか」


 それだけしか言わなかったが、声はひどく静かだった。

 静かすぎて、猛吹雪の前のようで、むしろ怖い。


 グレアムが、凍りついた空気を割るようにわずかに咳払いを挟む。


「旦那様、王都への返書の文面は、どうなさいますか」

「『一方的な調査を受ける義理はない。無断で兵を入れれば、国境侵犯とみなし撃退する』と書け」

「……承知いたしました」

「ただし」


 クライヴ様はそこで、私の頭から手を離し、真っ直ぐに私を見た。


「『令嬢リアナは無事に、そして大切に暮らしている。本人の意思に反してここに留めているわけではない』とも、はっきりと添えろ」

「はい」


 私は一瞬、きょとんとした。


 そこ、わざわざ書いてくれるんだ。

 たしかに、相手の「救出」という大義名分を崩すためには大事だ。とても大事だ。でも、それをクライヴ様自身が、真っ先に入れろと言うのが、なんというか、すごく……。


 優しい。

 やっぱりこの人は、根本的なところがどこまでも優しい、私だけのヒーローだ。


 私がじんわりと感動していると、クライヴ様がふと怪訝そうな顔をした。


「何だ、その目は」

「いえ……やっぱり旦那様って、すごくお優しいなと」

「一歩間違えれば国を二分する戦争になるという時に、今その呑気な感想になるのか、お前は」

「なります。推しの尊さが最優先事項なので」

「本当におかしな女だ」

「存じております」


 すかさずドヤ顔で返すと、クライヴ様は呆れたように息を吐き、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。

 その日の夜、第二の報せが来たからだ。


 王都に潜ませているエヴァンズ家の密偵からの早馬。

 今度は正式な手紙ではなく、確度の高い裏情報の形で。


 『第一王子アランが近頃、やけに“北の呪われた辺境伯の危険性”について、夜会で貴族たちへ語り、賛同を集めていること』

 しかもそこに、『不憫な生贄令嬢を救わねばならない』という悲劇の物語までセットで広められていること。

 そして極め付けは――『王都の学園で、聖属性を持つ平民の少女アリスが、王子と共に北方の呪いについて調べ始め、同行を志願していること』。


 そこまでグレアムから聞いた瞬間、私の背中に氷の刃を当てられたような冷たいものが走った。


 来る。

 間違いなく、すぐそこまで来ている。


 ゲームの強制力が、正規ルートのシナリオが、とうとうこちらへ向かって牙を剥いて動き出している。


 私はその夜、自室の机に向かいながら、久しぶりに前世のゲームの記憶を細かく掘り返していた。


 第一王子、アラン。

 華やかな金髪に、王族らしい正統派の美貌。表向きは快活で正義感が強いが、実際は自分の信じる“正しさ”を絶対に疑わない、傲慢で視野の狭いタイプ。

 原作ゲームでは「王道攻略対象」としてメインのパッケージを飾っていたが、私は前世から彼がずっと苦手だった。クライヴ様みたいに、十年間も泥にまみれて国のために傷を負ってきた大人を、自分の名声のための“討つべき悪”として踏み台にするその浅はかさが、どうにも好きになれなかったのだ。


 そしてヒロイン、アリス。

 聖属性の強いチート魔力を持つ、平民出身の少女。本来はまっすぐで善良な子のはずだ。でも王子ルートに入ると、彼の語る“正義”に完全に感化され、盲目的になってしまう場面がある。今回の辺境伯討伐も、その一つだった。


「……最悪」


 私は羽ペンを置き、両手で額を押さえた。


 ここまでは、ほぼ原作の流れ通りだ。

 違うのは、クライヴ様の呪いが私のハンカチによってもう解け始めていることと、本来フェードアウトするはずのモブである「私」が、クライヴ様の隣にいること。


 だからこそ、向こうが乗り込んできた時の反応は、原作以上に厄介で大きなものになるだろう。

 だって彼らの想定シナリオでは、クライヴ様はまだ「理性を失った孤独な化け物」で、私は「恐怖で怯え切った可哀想な被害者」のはずなのだから。


「……私の推しを、舐めないでよ」


 誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。


 私はもう、原作で数行しか出てこない、ただ怯えて逃げ出すだけのモブ令嬢じゃない。

 ただ守られるだけの、弱い存在でもない。


 この城で過ごして、クライヴ様の隠された痛みを見て、この人の不器用な優しさを知った。

 彼がどれだけ理不尽に傷つけられ、孤独に耐えてきたかも、痛いほど実感した。


 なら、私のやることは一つだ。


 推しの理不尽なバッドエンドは、私が全力で粉砕する。


 私は決意と共に勢いよく立ち上がった。

 そのまま、クライヴ様にもらったばかりの最高級の裁縫箱を開く。


 純白の布、輝く銀糸、青糸。守護の紋様、浄化の願い。

 必要なのは、もっと強いお守りだ。もっと強力に効くもの。もっと広範囲で、確実にクライヴ様を呪いから守り切れるもの。


「王子だろうが、ヒロインのシナリオ補正だろうが、知るもんですか」


 鋭い針を手に取り、私は低く、オタクとしての宣戦布告を口にした。


「私の推しに薄汚い手を出そうって言うなら。こっちだって、限界オタクの全魔力を込めて、全力で迎え撃ってやるわよ」


 その言葉は、小さな部屋の中では、やけに頼もしく、そして少しだけ物騒に響いた。


 同じ頃、別棟の執務室では。


 クライヴが窓辺に立ち、夜の闇に沈む辺境の黒い森を、冷ややかな目で見下ろしていた。

 背後では、グレアムが王都への返書の文面を整えている。


「旦那様」

「何だ」

「王都が本格的に動くとなれば、城内の警備も最高レベルへの強化が必要です」

「ああ、手配しろ。城門の結界もだ」

「……リアナ様の扱いは、どうなさいますか」


 そのグレアムの問いに、クライヴはしばし沈黙した。


 やがて、右腕に触れる。

 彼女が懸命に作って巻いてくれたハンカチは、今夜も淡く、心地よい温かさを放っている。


「……私のそばに置く」


 低く、静かな声だった。


「私の目の届く場所に囲う。片時も離さない」


 グレアムはそれを聞いて、返す言葉を慎重に選んだ。


「……『保護』、でございますね」

「当然だ」


 間髪入れずに返る。

 だが、その声に滲むどす黒い熱は、もはや“保護”などという綺麗な言葉だけでは説明がつかなかった。


 王都が動こうと、王子が来ようと、正義の名を掲げた誰かがこの城門を叩こうと。

 クライヴの中では、もうひとつだけ、自らの命に代えても絶対に譲れないものが出来てしまっている。


 それが何なのかを、彼自身もまだ完全には言葉にしていない。

 けれど、リアナに対するその狂おしいほどの執着と独占欲は、着実に、確かな形を持ち始めていた。


 辺境の夜は深い。

 その闇の向こうで、王都の身勝手な思惑が蠢き始める。


 そして私はまだ知らない。

 この静かな準備期間が終わった先で、ついにゲームの“ラスボス討伐イベント”が、圧倒的な現実として牙を剥くことになるのだということを。

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