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第8話 氷のラスボス、過保護な甘やかしモードへ

 何かが、決定的におかしい。


 私は朝からずっと、そんな確信めいた違和感を抱えていた。

 きっかけは、朝食の席だった。


 いつものように一階の小さな食堂へ行くと、今日は珍しく、というより私がこの城に来て初めて、クライヴ様がそこにいた。

 窓際の特等席に優雅に座り、湯気の立つ紅茶を前に、届いたばかりの王都の新聞へ静かに目を落としている。相変わらず黒を基調とした軍服のような装いで、ただそこに座っているだけなのに、周囲の空気がぴんと張り詰めるような圧倒的な存在感がある。


 ただし、以前と決定的に違う点がひとつ。


 彼の周囲を漂っていた、あの禍々しい黒い瘴気が、かなり薄いのだ。


 右腕の呪いの痣も、袖口からちらりと覗くぶんには明らかに色が淡くなっている。そして何より、顔色がいい。というか、よすぎる。

 もともと人間離れした美形だったのに、呪いの苦痛が薄れたことで本来の「絶世の美貌」が何のフィルターもなく前面に押し出されていて、朝日を受けたその横顔が、もはや視覚的暴力の域に達している。


「……っ」


 私は食堂の入口で、完全に石像のように固まった。


 無理。

 朝から顔が良すぎる。

 作画コストが高すぎて私の心臓に悪い。


 すると、私の気配に気づいたクライヴ様がふっと顔を上げ、琥珀色の瞳でまっすぐこちらを見た。


「来たか」


 耳を撫でるような低い声が、食堂に落ちる。


 それだけで、給仕をしていた使用人たちが、何となく気まずそうに、あるいはニヤニヤしながら一斉に目を逸らした。たぶん皆、ここ数日の私とクライヴ様の間の「妙な変化」に気づいているのだろう。気づいていないのは私だけかもしれない。


「お、おはようございます……旦那様」


 私はぎこちなくカーテシーで挨拶しながら、いつもの「推しを遠くから拝める末席」へ向かおうとした。


 だが。


「そこではない」

「……はい?」

「こっちだ」


 クライヴ様が、自分のすぐ隣の、上座の席をトン、と指先で叩いた。


 食堂がしん、と静まり返る。

 私も息を止めて静まり返った。


「えっ」

「聞こえなかったか。私の隣に座れと言っている」

「い、いえ、聞こえましたけど……流石に旦那様の隣は恐れ多いというか……」

「なら来い」


 あまりにも当然のように、有無を言わせぬ圧で言われて、私は助けを求めて周囲を見回した。

 料理長が「いってこい」とばかりに無言で頷いている。メイドたちが顔を赤くして口元を押さえている。グレアムはなぜか「もう私の胃薬のストックはありませんよ」と言いたげな遠い目をしていた。


 いやいやいや。

 隣?

 最推しの?

 朝食で?

 公式からの強制相席イベント!?


 脳内で非常警報がガンガン鳴り響く。

 だが、ラスボスの命令を拒否する理由も度胸もない。私は夢遊病患者みたいな覚束ない足取りで近づき、そろそろと隣の席についた。


 近い。

 近すぎる。


 座っただけで、クライヴ様の高い体温と気配が肌に伝わってくる。微かに、香草と石鹸の落ち着いた香りがする。長い指先が新聞のページをめくる仕草ひとつ取っても無駄に洗練されていて、美しくて、とてもじゃないが朝食どころではない。


「顔色が悪いな」

「たぶん、気のせいではないです。緊張で心臓が口から出そうです」

「そうか」


 淡々と返したクライヴ様は、何を思ったのか、自分の前に置かれていた、まだ口をつけていない温かいミルク入りの茶を、カップごとすうっと私のほうへ寄せた。


「これを飲め」

「はい?」

「少しは落ち着くだろう。お前は昨日、ろくに寝ていないはずだ」

「え、でもそれ、クライヴ様のために淹れられたものでは……」

「私には新しいものを淹れさせる。飲め」


 つまり。

 つまりこれは。

 推しの飲み物を、推し自らの手で譲られたということ……? しかも私の睡眠不足まで把握されている?


「…………」

「どうした。熱すぎるか」

「情報量が多くて、ちょっと脳の処理が追いつきません」

「意味がわからん。飲めばわかる」


 ですよね。

 私は震える両手でカップを受け取った。温かい。口をつけると、蜂蜜のやさしい甘さと茶葉の香りが広がった。飲むと確かに少しだけ気持ちが落ち着いたが、状況の異常さはまったく落ち着いていない。


 さらにおかしかったのは、その後だった。


 食事中、クライヴ様は自分が新聞を読む手を止めてまで、何かにつけて私の世話を焼いてきたのだ。


「そのスープは熱い。もう少し冷ましてから飲め。火傷するぞ」

「この黒パンが硬いなら、柔らかい白パンを厨房から持ってこさせる」

「昨日はちゃんと眠れたのか。寝台の硬さは合っているか」

「城の石造りの廊下はまだ冷える。もっと厚手の上着を着ろ」


 ひとつひとつは、家族に向けるような些細な言葉だ。

 でも、これを言っているのが、あの『氷の公爵』『呪われた冷酷な化け物』と恐れられていたクライヴ様なのだ。


 数日前までなら「私の視界に入るな」「好きにしろ」の一言で済ませていた人が、どうして朝からこんなにお母さんみたいに甲斐甲斐しく世話を焼いてくるのか。


 私は途中から、大好きな具だくさんスープの味がまったくわからなくなった。


 食後、重圧から逃げるように食堂を出た私は、誰もいない廊下の角で立ち止まって、冷たい石壁に額を押しつけた。


「なにこれ……」


 ファンサ?

 いや、ファンサの域を完全に超えていない?

 でも、発作の時に私が助けた(抱きついた)から、その恩返しの延長線かもしれない。あるいは、呪いが薄れて心に余裕が出た結果、本来の彼が持っていた「貴族としての礼儀正しさ」が単に発揮されているだけかもしれないし――


「リアナ様」


 背後から声をかけられ、私は「ひゃいっ」とカエルのような声を上げて飛び上がった。

 振り返ると、盆を持ったグレアムだった。


「……お顔が、茹で上がったトマトのように真っ赤ですが」

「たぶん健康です! 血行が良いだけです!」

「そうですか」


 絶対にそう思っていない、冷ややかな顔だった。

 彼は少しだけ口元を緩め、それから手に持っていた盆の上の『小箱』をこちらへ差し出した。


「旦那様からです」

「……はい?」


 今日何度目かわからない間抜けな声が出た。


 箱は細長く、深緑の高級なベルベット張りで、見るからに中身がヤバそうだった。オタクの直感が「開けたら人生が変わるぞ」と警鐘を鳴らしている。嫌な予感しかしない。


「開けても、よろしいでしょうか……?」

「どうぞ。あなたへの贈り物ですから」


 恐る恐る、蓋を開く。


 中に入っていたのは、見事な銀細工の髪留め(バレッタ)だった。


 辺境伯家の紋章である狼を模した繊細な意匠に、私の瞳の色に近い、小さな美しい青いサファイアがいくつもはめ込まれている。派手すぎず、それでいて目を奪われる美しさと気品がある。


「えっ、きれい……」


 思わず本音が漏れた。

 でもすぐに我に返る。


「って、えっ、なんで!?」

「気に入られたようで何よりです」

「そうじゃなくて!」


 私は箱を抱えたまま、パニックになってグレアムを見る。


「なぜこれを、一介のモブ……じゃなくて男爵令嬢の私に!?」

「旦那様が、“あの娘の髪色によく似合いそうだったから”と」

「似合いそうだったから!?」


 私の貧相な語彙力が宇宙へ吹き飛んだ。


 そんな理由で!? あの辺境伯が!? 厄介者の生贄である私に!? こんな高価な宝石入りの髪留めを!?


 グレアムは、たいへん穏やかで、慈愛に満ちた顔で頷いた。


「ほかにも、今朝王都から到着した行商人が持ってきた布地や装飾品を、旦那様はいくつか見ておられましたよ」

「いくつか」

「ええ。あなたが朝食に降りてくる前、かなり真剣な眼差しで」

「なんで!?」

「それは私ではなく、直接旦那様にお尋ねください。……私はもう、ツッコミ疲れたので」


 私はその場で、膝から崩れ落ちそうになった。


 昨夜「俺の部屋に来い」と言われた時点でかなりおかしかったのに、今日は朝食で隣に座らされ、飲み物を譲られ、健康管理までされて、そのうえ高価な贈り物まで来た。


 これはもう、厚遇を通り越して、何かのバグではないだろうか。


「……もしかして」


 私は小箱を見下ろした。


「私があげたあの『手作りチートお守り』が効きすぎて、呪いどころか、旦那様の脳の『ヒロイン好感度判定システム』まで一緒に浄化してバグらせちゃった……?」

「さすがに、旦那様に対して失礼極まりない思考かと存じますが」

「ですよね!」


 自分でもそう思う。

 でも、それ以外にこの急激なデレ(甘やかし)の説明がつかないのだ。


 その日の午後。


 私は結局、この高価な髪留めをつけるべきかどうかで自室で三十分ほど七転八倒して悩んだ末、「せっかく推しからいただいた公式グッズ(本物)を身につけないのはオタクの恥!」と結論づけ、ありがたく身につけることにした。

 鏡の前で、ハーフアップにした髪にそっと留めると、思っていた以上にしっくりきた。銀の狼と青い石が、私の平凡な蜂蜜色の髪によく映える。


「……うわ」


 ちょっと、うれしい。

 いや、かなり、とてつもなくうれしい。


 推しチョイスのアクセサリーを着けているという事実だけで、私はファンとしてこの先三年くらいは水だけで生き延びられそうだ。


 そうしてウキウキで自室を出た途端。

 曲がり角の向こうから現れたクライヴ様と、思い切り鉢合わせた。


「……っ」


 私は石像のように固まる。

 クライヴ様の視線が、私の顔ではなく、まっすぐ私の髪――銀の髪留めへ向いた。


 数秒の、心臓に悪い沈黙。


 やばい。

 変だった? 浮いてる?

 「お前みたいな地味な女には似合わんな」とか言われちゃう?

 やっぱりつけるべきじゃなかった?


 心臓がばくばくしていると、クライヴ様が低く、甘く掠れた声で呟いた。


「……よく似合う」


 私の脳が、完全に停止した。


「えっ」

「その髪留めだ。やはり、お前の髪色によく映える」


 クライヴ様は微かに目を細め、ひどく熱を帯びた瞳で私を見た。


「思った通りだな」


 思った通り。


 その言い方があまりにも自然で、あまりにも愛おしげで、満足げで。私はついに耐えきれず、その場で両手で自分の顔を覆った。


「無理……」

「何がだ」

「公式からの供給が過多すぎて、死にそうです……」

「また意味のわからんことを。死ぬな」


 呆れた声が降ってくる。

 でも前みたいな冷たさや拒絶は一切ない。むしろ、私の慌てふためく様子をどこか楽しんでいるような気配すらある。気のせいであってほしい。私の心臓が本当にもたないから。


 するとクライヴ様は、私が持っていた大きな木籠に目を落とした。中身は、洗濯を終えたばかりのシーツや布類だ。使用人の手伝いをして、中庭の物干しから取り込んできたところだった。


「それを運んでいたのか」

「は、はい。大した量ではないので、私が各部屋へ……」

「貸せ」

「え?」


 次の瞬間、クライヴ様はごく自然な動作で、私の手から重い籠をひょいと取り上げてしまった。


 私は呆然と、籠を軽々と持つその長い指と、逞しい腕を見た。


「えっ、そんな、旦那様! ダメです私が持ちます! 私これくらい!」

「知っている。お前が無駄に体力があるのは」

「じゃあなぜお取り上げに!?」

「お前は昨日、ほとんど寝ていないだろう」


 図星だった。興奮して朝まで目がギンギンだった。


「目の下が少し赤い。それに、お前は足元がおぼつかない」

「……」

「こんな重いものを持って、ふらついて石の階段から落ちられても困る。……私がな」


 淡々とした口調なのに、内容が尋常じゃなく過保護すぎる。


 私は半歩下がって、まじまじとクライヴ様の顔を見た。


 やっぱりおかしい。

 絶対におかしい。あの冷酷無慈悲なラスボス辺境伯が、メイドの仕事である洗濯物カゴを持ってくれているのだ。世界がバグっている。


 でも本人はいたって真面目な顔で、自分が何か変なことをしている自覚が一切なさそうなのが、なおさら質が悪い。


「クライヴ様」

「なんだ」

「私、そんなに頼りなく見えますか。雑巾掛けのスピードには自信があるんですが」


 少しむっとして尋ねると、彼は一瞬だけ考え込むような間を置いた。


「頼りないというより」

「というより?」

「……目を離すと、私の心臓に悪い無茶をする」

「……」


 反論できなかった。

 発作の瘴気の中心へ、丸腰で突撃した件がある以上、非常に反論しづらい。


 クライヴ様はそんな私の沈黙をどう受け取ったのか、ふっと口元を緩めた。ほんのわずか。けれどたしかに、彼は優しく笑ったのだ。


 私は、雷に打たれたようにその場で固まった。


 待って。

 今、笑った?

 推しが?

 私の前で?


 破壊力が高すぎる。致死量のファンサだ。


 クライヴ様は、限界を迎えてフリーズしている私を気にも留めず、「行くぞ」と籠を持ったまま歩き出した。しかも当然のように、私の短い歩幅に合わせて、ゆっくりと。


 私は半ばふらつきながら、その隣を歩いた。

 まるで、新婚夫婦のような距離感で。


 その後も、彼の「甘やかしの異変」は加速した。


 夕方には、朝から城に滞在していた王都の行商人が、応接室に品物を並べていたのだが、なぜかクライヴ様は私をその場へ呼びつけた。


「好きなものを選べ」


 部屋に入るなり、第一声がそれだった。


 私は目の前に広げられた、最高級の反物、繊細なレース、宝石箱、香油、小間物類を見て、しばらく状況の理解が追いつかなかった。


「えっと……何を、誰が選ぶんですか?」

「お前がだ。ここにある全部の中からだ」

「全部の中から?」

「好きなものを選べと言っている。値札は見なくていい」


 行商人が、大口の顧客に向けて揉み手でにこにこと愛想笑いを浮かべている。後ろで控えているグレアムが、「ああ、また始まった」という顔で頭を抱えている。


 私は震える声で確認した。


「な、なんのために……? 私、もうすぐ誕生日とかではありませんが」

「お前のために決まっているだろう」


 そんなの、息をするくらい当たり前に決まっているみたいに言われても困る。


「私の妻となる君には、私の持つ富のすべてを捧げよう。遠慮はいらん」


 さらりと。

 とんでもない爆弾発言を落とされた。


 行商人が「妻!?」と驚いて目を剥く。

 私も「妻!?」と目を剥く。

 たぶんグレアムも心の中では白目を剥いている。


 ちょっと待ってほしい。


 今の台詞、重くない?

 いや甘いのか?

 いやでも、生贄の花嫁候補のモブに向けるには、いくらなんでも重すぎるよね?

 何この過剰接待。ファンクラブの最上位特典、急に豪華になりすぎてない?


 私の脳内では「SS席」「バックステージパス」「推しからのプロポーズ(仮)」「至近距離イベント」などの単語が高速で飛び交い、処理落ちを起こしていた。


「ク、クライヴ様! そんな高価なもの、私にはいただけません!」

「遠慮するな」

「します! 男爵家の娘には分不相応です!」

「なら、せめて今、必要なものを言え」

「必要なもの……」


 私は混乱しつつ、並べられた品々を見る。


 ふわふわの最高級の毛織物のショール。

 繊細な花の刺繍入りの絹の手袋。

 私の瞳に合わせたような、落ち着いた青のドレス地。

 銀の細工が施された小箱。

 琥珀の耳飾り。


 どれも恐ろしく高そうだ。というか、明らかに城の掃除婦もどきの私が、気軽に身につけていい類のものではない。


 私は悩みに悩んだ末、恐る恐る小さく手を上げた。


「……あの、糸は、ありますか」


 その場の空気が、ピタッと止まった。


「……糸?」


 クライヴ様が、拍子抜けしたように聞き返す。


「はい。刺繍用の、丈夫で質のいい絹糸の束があると……その……」


 あなた用の『チートお守りハンカチ』を量産するのに便利です。

 とは、さすがに行商人の前では言えない。


 行商人は一瞬ぽかんとしたが、すぐに商人の顔に戻り「もちろんございます!」と木箱を持ってきた。中には色とりどりの美しい絹糸が並んでいる。私はその中から、クライヴ様の雰囲気に合う白銀、深緑、灰青を選び出した。


 クライヴ様は私の手元を見て、信じられないものを見るように少しだけ首を傾げる。


「それだけでいいのか」

「はい!」

「宝石は? ドレスは? 本当に糸だけでいいのか」

「はい! これが一番実用的で助かります!」


 すると彼は、深くため息をつき、しばらく黙ったあと、行商人へ淡々と、しかし絶対の命令として告げた。


「……その糸一式と。先ほどのショール、手袋、琥珀の髪飾り、あの青いドレス布地も全部包め」

「えっ」

「はいっ、かしこまりました! 毎度ありがとうございます!」

「ええっ!?」


 私が止める間もなく、次々と品が増えていく。


「ク、クライヴ様!? なんで増えてるんですか!」

「城の夜は冷える。糸だけではお前が風邪を引くだろう。ショールは必須だ」

「だからってそんなに全部買わなくても!」

「足りないか? なら、あの赤い布も……」

「逆です! 供給過多です!」


 本気で叫んだ。


 けれどクライヴ様は少しも動じない。むしろ「自分の金で女に物を買ってやっているのになぜ激しく拒否されるのか、まったく意味がわからない」という不満げな顔だ。


 その横顔を見ながら、私はようやく、ひとつの恐ろしい事実に悟り始めていた。


 これ、単なる厚遇じゃない。

 ファンサでもない。


 推しの私に対する『激重な執着と甘やかし』が、完全に始まっている。


 ただし、当の本人には「自分が重すぎる愛情をぶつけている」という自覚があまりない。呼吸をするように私を甘やかそうとしている。だから余計に質が悪いのだ。


 夜。


 自室へ戻った私は、ベッドの上に並べられた戦利品――もとい、クライヴ様からのとんでもない額の贈り物の山を前に、頭を抱えていた。


 青い石の髪留め。

 毛織物のショール。

 絹の手袋。

 上質な刺繍糸一式。

 青いドレス布地。

 おまけみたいに行商人が添えた、王都の高級な焼き菓子の小箱まである。


「なんなの……これ……」


 ひとつひとつが丁寧で、実用的で、しかも私の好みの色や質感を完全に外していない。


 怖い。

 推しの観察眼が怖い。

 そして、財力に任せた甘やかし方が的確すぎる。


 私はそっとショールを羽織ってみた。羽のように軽いのに、驚くほど温かい。手袋も私の小さな手にぴったりだ。髪留めは言わずもがな、すっかり私のお気に入りになってしまっている。


「……ファンクラブの特典、豪華すぎない……? 課金額バグってない?」


 呟いてから、はっとする。


 いや、待て。落ち着け私。

 それはおかしい。

 ファンクラブ特典とか言ってる場合じゃない。


 でも、どう考えても、今の私のオタクに偏った脳みそでは、そう処理するしかないのだ。


 だってまさか。

 あの孤高のラスボスであるクライヴ様が、この平凡なモブの私を『一人の女』として本気で愛し、激重な感情で囲い込もうと甘やかしているなんて。

 そんな少女漫画のような発想に飛べるほど、私は恋愛脳ではない。私は筋金入りの限界オタクである。推しからの公式供給は、まずすべて「特大のファンサ」として処理される仕様なのだ。


「うん……厚遇。これは彼なりの厚遇と福利厚生。私はただ、ちょっと呪いを解くのに役立つ『お守り職人(業者)』として高く評価されているだけ……」


 そう強引に結論づけて、私はぶんぶんと首を振った。


 よし。

 落ち着こう。自意識過剰な勘違いはよくない。オタクの恥だ。


 その時、自室の扉が控えめにノックされた。


「リアナ様。旦那様からの伝言をお持ちしました」


 若いメイドの声だった。


「はい? 伝言?」

「はい。“夜は冷える。もらったショールをちゃんと使え。風邪を引いたら許さん”とのことです」

「……」

「それと、“明日から東棟の窓辺は朝日が強くて肌が焼けるから、掃除の時は薄手の手袋も用意させる”と」

「……」

「あと、“寝る前に温かいミルクを飲め”とも。こちら、お持ちしました」


 メイドが笑顔で差し出したホットミルクのカップを受け取り、扉が閉まった後。

 私は無言で、ベッドに突っ伏した。


 だめだ。

 だめだこれ。処理しきれない。


 過保護が、じわじわと外堀を埋めるようなレベルじゃなく、正面から戦車で一気に来ている。


 氷のラスボスだったはずのクライヴ様は、どうやら呪いが薄れた反動で、元来持っていた「とんでもなく愛情深く、過保護で、執着心の強い本性」を完全に露わにし始めているらしい。


 しかもその激重な矛先が、なぜか、私なのだ。


「……VRイベントどころじゃないんだけど……これ、乙女ゲームの糖度じゃないよ……」


 意味不明な呟きを漏らしつつ、私は真っ赤に茹で上がった顔を、いただいた最高級のショールに深く埋めたのだった。


 ――その頃、別室の執務室では。


 クライヴがグレアムに向かって、きわめて真面目な、国政を憂うような真剣な顔で尋ねていた。


「グレアム。女はどうすれば、もっと喜ぶ」


 グレアムは、静かに深く目を閉じた。

 ついにこの時が来たか、という諦観の顔だった。


「……一般論でよろしければ、お答えいたしますが」

「ああ、言え」

「細やかな気遣い、心からの贈り物、そして安心できる甘い言葉などかと存じます」

「そうか」


 クライヴは真剣な顔で頷く。


「なら、今の私ではまだ、彼女には足りないな」


 ――足りないどころか、城が傾くレベルで十分すぎる気がしますが。

 と、グレアムは喉まで出かかったツッコミを飲み込んだ。長年の執事としての経験が、それを止めたのだ。


 主は本気だ。

 十年間、すべてを我慢し、孤独に耐えてきた男が、初めて見つけた「絶対に手放したくない光」。

 この手の男の、堰を切ったような本気の執着と愛は、もう誰にも止められない。


 クライヴは薄くなった右腕の痣にそっと触れ、静かに、ひどく甘く目を細めた。


「……あの娘には、もっと私のすべてを与えねばならない。私から逃げ出そうなどと、二度と思えないほどにな」


 その声音は低く穏やかで、それでいて、火傷しそうなほど妙に黒い熱を帯びていた。


 誰にも愛されず、何も与えられずに生きてきた男が。

 初めて手に入れた陽だまりへ向けるには、あまりにも重すぎる特大の愛情。


 だが当のリアナは、そんな「逃げ場のない溺愛」が始まっていることなど夢にも思わず。


 自室のベッドの上で高級ショールにくるまりながら、

「推し、サービス精神が旺盛すぎる……これだから推し活はやめられない……」

 などと、すれ違いも甚だしい、盛大な勘違いをかましていたのである。

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― 新着の感想 ―
グレアムが主人公をあなたてよんでるの? ご主人様の婚約者にあなたてよぶのは失礼だと思うけど… クライヴとグレアム名前にすぎてるのどうにかしてほしい。
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