第7話 手作りお守り(※非公式グッズ)の奇跡
翌朝、私はひどい寝不足のまま、重い瞼をこすって目を覚ました。
理由はもちろん明白である。
昨夜の嵐の中で起きた特大イベントの数々を思い出しては、布団の中でごろごろと悶え転がり、思い出しては枕で顔を覆い、思い出しては「いやいやいやいや、ありえないでしょ」と声にならない悲鳴を上げていたせいだ。
推しの命に関わる呪いの発作。
迷わず致死量の瘴気の中へ飛び込む私。
推しを床で強く抱きしめる私。
「あなたは私の光です!」と直球の特大感情を叫ぶ私。
そして――力強く抱きしめ返してきて、「行くな」と引き留めてきたクライヴ様。
「公式からの情報供給量が、多すぎるのよ……!」
私はベッドの上に正座し、両手で顔を覆ってぷるぷると震えた。
普通の貴族令嬢なら、ここで「殿方に強く抱きしめられてしまったわ……! これが、恋……?」と頬を染めて乙女的に悩むのだろう。
だが私の場合、そこに「最推し」「呪いの発作」「命の危機」「限界オタクの暴走」という強烈な要素が全部乗っかってくるため、もはや脳内の感情の交通整理がまったく追いつかないのだ。
でも、と私は顔を上げて、小さく深呼吸をした。
クライヴ様は、確かに無事だった。
あれだけ激しく血を吐いて苦しんでいたのに、最後には呪いの暴走が嘘のように落ち着いていた。私の背中に回されたあの腕のぬくもりも、手首をすがるように掴んだ指の力強さも、全部夢じゃない。
それを思い出しただけで、胸の奥がじんわりと甘く熱くなる。
「……よし」
私は自分の両頬を、気合いを入れるためにぺちんと叩いた。
「今日も平常心。今日も通常運転のお掃除モード。推しが今日を無事に生きてくれているなら、それで良し!」
そう自分に言い聞かせて身支度を整え、一階の食堂へ向かった――のだが。
食堂に近づくにつれ、城の空気がなんだか妙なことに気づいた。
いつもは冷たく静まり返っている辺境の城が、なんだか全体的に明るいというか、熱気を帯びてざわざわしているのだ。朝の食堂には料理長や庭師、メイドたちが勢揃いしていたが、皆どこか落ち着きなく顔を見合わせ、そわそわとしている。
「おはようございます」
私が不思議に思いながら声をかけると、全員が一斉にバッとこちらを振り向いた。
そして次の瞬間。
「リアナ様!!」
なぜか、ものすごい勢いで拍手と歓声で迎えられた。
「は、はい!?」
「昨夜は本当に……その……命の恩人です!」
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「旦那様が、あの、あんなに早く落ち着かれるなんて……!」
口々に感謝の言葉を浴びせられ、私は目をぱちぱちと瞬かせた。
ああ、やっぱり昨夜のことは、少ない使用人たちの間であっという間に城中に知れ渡っているのか。そりゃそうだ。あんな大騒ぎをして、最後は私がベッドまで付き添ったのだから、隠しようもない。
私は少し気恥ずかしくなりながら、慌てて両手を振った。
「いえ、私は何も……ただ嵐が怖くて飛び込んで、しがみついただけですから……」
「それができる方が、十年間、一人もいなかったのです」
静かで、ひどく重みのある声がして、見ると食堂の入口に執事のグレアムが立っていた。
彼はいつも通り燕尾服を着て背筋を伸ばしていたけれど、その目元には隠しきれない驚愕と、深い疲労の跡があった。
「旦那様の発作は、これまでも何度もございました。嵐の夜は特に瘴気が酷く、我々のような魔力を持たない者は、部屋に近づくことすらできなかったのです」
「……」
「ですが昨夜は、あなたが結界を破って旦那様に触れた途端に、あの強大な魔力の暴走が嘘のようにピタリと弱まった」
その言葉に、食堂がしんと静まり返る。
私は固まった。
「えっ」
「診察した医師も、首をひねっておりました。医学的にも魔術的にも、確かな理屈はまったくわからないと」
「えっ」
「少なくとも、あれはただの偶然にしては、あまりにも出来すぎています」
「ええっ!?」
私の声が、情けなく裏返った。
ちょっと待って。
落ち着け、私。深呼吸だ。
理屈はある。
たぶん、私の中にはある。
だって私は、前世のゲーム知識で知っているのだ。この『聖なな』の世界には、ゲーム本編では深く語られなかった隠し設定や、没データっぽい要素がいくつもあった。
とくに「聖属性」「浄化魔法」「癒しの加護」といったチート能力は、本来、国を救う光の力を持つ主人公専用の特殊能力として扱われていたはずで――
でも。
私は、ゲーム本編に名前すら出てこない、ただのモブ令嬢だ。
水を出したり、床を乾かしたりといった、底辺の『生活魔法』しか使えない、しがない男爵家の厄介者リアナである。
……の、はずだ。
「そ、それって、その、もしかして……」
私はごくりと唾を呑み、恐る恐る口を開いた。
「私、実はすごい『浄化の力』みたいなチート能力を、無自覚に持っているとか……?」
冗談半分で誰にともなく呟くと、料理長も、メイドたちも、そしてグレアムでさえも、ものすごく微妙な、可哀想な子を見るような顔になった。
……その反応で察する。
うん、ないな。この線はない。
私自身にそんな強大な魔力を使っている自覚はまったくないし、たぶん皆も「いや、どう見ても毎日雑巾掛けに命を懸けているこの変なお嬢様に、そんな大層な聖女の力が宿っているわけが……」と、常識的に判断しているのだろう。
わかる。
私もそう思う。私が聖女なら、もっとキラキラした魔法陣とか出るはずだし。
結局、朝食は「奇跡が起きたが理由は不明」という微妙にふわふわした空気のまま始まった。
おいしい具だくさんスープを飲んでも、黒パンを食べても、どうにも落ち着かない。
しかも、今日に限ってクライヴ様が食堂に姿を見せない。
普段からここで一緒に食事をするわけではないけれど、昨夜あんなに血を吐いていたのだ。今朝は無性に気になって仕方がなかった。
「……旦那様のお加減、どうなんでしょう」
思わずスプーンを咥えたまま漏らすと、向かいに座っていたメイドがホッとしたように小さく笑った。
「ご無事ですよ。まだお部屋のベッドでお休みですが、熱も下がり、医師によれば完全に峠は越えたと。呼吸もとても穏やかでした」
それを聞いて、私はようやく肩の力が抜け、大きなため息をついた。
「よかった……」
本当に、よかった。
昨夜の、血の気が引いて苦痛に歪んだあの美しい顔が、まだ目に焼きついていたから。その一言だけで、安堵で泣きそうになる。
すると、グレアムがふと、私の前に小さな銀の盆を差し出した。
「これは……?」
「今朝、旦那様のお部屋からお預かりしてきたものです」
盆の上に載っていたのは、私が昨日、中庭でクライヴ様の右腕に無理やり巻きつけた、あの手作りのハンカチだった。
白い布。銀糸の不格好な狼の刺繍。
けれど、その様子が、私が手渡した昨日とは明らかに違っていた。
布の中央、クライヴ様の黒い痣に直接触れていた部分が、ほのかに、淡く発光しているのだ。
「えっ」
私は目を丸くした。
布地そのものに、朝露が光を反射しているみたいな、淡く清らかな光が宿っている。まるで、消えかけの高度な魔法陣の名残みたいな、やわらかな燐光だ。
「な、なにこれ。光ってますけど」
「こちらが聞きたいくらいです、リアナ様」
グレアムも、珍しく困惑を隠さずに眉を寄せていた。
「朝、旦那様のお着替えと清拭を手伝った際に見つけました。そして……驚くべきことに、この光る布が巻かれていた右腕の呪いの痣が、少しだけ……薄くなっていたのです」
「……え?」
今度こそ、私の頭が真っ白になった。
いやいやいやいや。
薄くなる?
あの致死量の邪竜の呪いが?
たかが安物の布きれで、そんな簡単に?
だってあれは、ゲーム終盤まで、チート能力持ちの原作ヒロインですら完全に浄化できなかったはずの、超厄介なイベント級の呪いだぞ。専用の好感度ルートと、特別な伝説のアイテムが必要なやつだ。
それが、私の夜なべしたハンカチで?
「うそでしょ……」
震える声で呟くと、グレアムは静かに、しかし力強く頷いた。
「医師は『発作後の魔力の揺り戻しによる一時的な変化かもしれない』と慎重に言っております。ただ、十年間、これまで一度も見られなかった快方の兆候です」
私は盆の上の、淡く光るハンカチを見つめた。
昨夜、いや数日前にこれを巻いた時は、いつも通りに刺繍しただけだった。少しでも肌当たりがよくなるように、推しの痛みが少しでも気休めになればと、ただそれだけを思って。
そこに特別な術式を組み込んだわけでもないし、私に高位魔法なんて使えるはずがない。
でも。
ひとつだけ、思い当たることがあった。
私は昔から、刺繍や掃除など、「推しのための布仕事」をしていると、妙に集中しすぎるきらいがある。前世の限界オタク気質のせいか、「推しの幸せのため!」と思うと、気合いと情熱が際限なく入るのだ。
そのせいで時々、私の持つ微弱な『生活魔法』が変異を起こし、妙な現象が起きることがあった。やたら汚れが落ちやすい雑巾とか、絶対にほつれないリボンとか、温かさが異常に持続する膝掛けとか。
でも、まさか。
「……私の特大感情が、無自覚チートを引き起こした?」
ぽつりと呟いた私に、料理長が首を傾げた。
「ちいと?」
「いえ、こちらのオタクの専門用語です、お気になさらず……」
たぶん、そうなのだろう。
ゲームでは名もなきモブだった「リアナ」の底辺の生活魔法が、私の前世の記憶と結びつき、本来表に出ないはずの何らかの適性――『極大浄化魔法』として覚醒したのだ。
しかもその発動条件は、おそらく――
『推しに対する、見返りを求めない特大の愛情(ファンとしての祈り)』。
いや、そんなふざけた発動条件ある!?
あるのか、この乙女ゲームの世界なら! むしろ愛が世界を救う設定だから、ありえる!
私はしばらく腕組みをして考え込んでいたが、やがて、極めてシンプルなひとつの結論に至った。
細かい理屈はどうでもいい。
何にせよ。クライヴ様のあの痛ましい呪いが、私の作ったグッズで少しでも薄れたのなら、それでいいじゃないか。
理屈は後から学者が考えればいい。今は、推しの痛みが引いたという「結果」がすべてだ。
「グレアムさん」
「はい」
「これ、私に預けてもらえますか?」
光るハンカチを指差すと、グレアムが少し驚いた顔をした。
「また、旦那様のために新しいものをお作りになるのですか」
「はい」
私はこくりと、力強く頷いた。
「もっとちゃんとしたものを。今度は最初から、推しへの『お守り』にするつもりで、全身全霊を込めて作ります」
食堂の空気が、少しだけ変わった。
メイドたちが顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべる。料理長が優しく目を細める。グレアムだけが、私の覚悟を確かめるように、じっと見つめていた。
「……承知いたしました」
やがて彼は静かに深くお辞儀をし、盆ごとハンカチを私へ渡した。
私はそれを、大事な宝物のように両手で受け取る。
まるで、固く閉ざされたクライヴ様の心に近づくための、小さな鍵を受け取ったみたいだった。
食後、私はメイドの手伝いを断り、すぐに自室へ戻った。
机の上に巨大な裁縫箱を広げる。布箱を開けて、手持ちの中でいちばん上等で、肌触りのいい最高級の綿生地を選ぶ。糸も、白銀、灰青、深緑と並べて、クライヴ様の瞳の色や髪色にどれが一番似合うか、真剣に考える。
「よし……今回は本気でいくわよ」
私は両頬を叩いて息を整えた。
これはもう、ただの気休めの差し入れではない。
ただの非公式グッズでもない。
れっきとした、推しの命と健康を守るための『専用チートお守り(物理)』である。
布の端には、辺境伯家の狼の紋章を、さらに緻密に美しく刺繍する。その周囲を囲むように、浄化と守護を願う古代の蔓草模様(ゲーム内で聖女が使っていたデザインのうろ覚え)をあしらう。
目立ちすぎず、けれど確かに意味を持つように、一針一針、魔力と祈りを込めて慎重に縫い込んでいく。
針先を動かすたびに、私の指先がじんわりと熱くなった。
やっぱり、おかしい。
ただの刺繍とは違う感覚だ。糸を通すたびに、私の胸の奥にある「推しへの重すぎる感情」が、物理的な光となって布に染み込んでいくような、不思議な高揚と疲労感がある。
それでも私は止まらなかった。
「あの痛みが、少しでも減りますように」
「孤独で苦しい夜が、少しでも短くなりますように」
「クライヴ様が、今夜はちゃんと安らかに眠れますように」
「もう、ひとりで全部を我慢しなくていいように」
願いを、ひとつずつ布に刺し込むみたいに。
気づけば、窓の外はすっかり夕方の茜色に染まっていた。
完成した新しいハンカチは、我ながら国宝級の出来だった。
純白の生地に、輝くような銀糸の狼。そのまわりを優しく包む、淡い青の蔓草。派手ではないけれど、凛とした気品があって、黒い服が多いクライヴ様にも絶対に似合うはずだ。
なにより。
玉結びをして糸を切って完成した瞬間、布全体が「ぼわっ」と強い光を放った。
「うわっ、まぶしっ!」
私は思わず目を庇って身を引いた。
すぐに光は布の中へ収まったが、もう誤魔化しようがない。これ、絶対にただの刺繍じゃない。聖遺物か何かだ。
私はしばらく無言で、微かな魔力のオーラを放つハンカチを見つめ、それから真顔で結論を出した。
「……推し活、極めると神の領域に達するのね」
なんか解釈が違う気もするが、今はそういうことにしておく。
問題は、このヤバいアイテムを「どうやって推しに渡すか」だ。
昨夜の今朝で、いきなり私の手から「お守り作りました!」と押しつけるのは、彼の負担になるかもしれない。いや、たぶんだいぶ重い。
でもグレアム経由で渡してもらうと、オタクとしての味気なさがすごい。いやでも、発作明けの病室に押しかけるのも非常識極まりないのでは?
と、私が机の前で頭を抱えてうんうん悩んでいた、まさにその時だった。
コンコン、と控えめに扉が鳴る。
「リアナ様。グレアムでございます」
「はい!」
私は慌てて立ち上がり、扉を開けた。
すると、グレアムがいつにも増して複雑そうな、何とも言えない顔で立っていた。
「リアナ様。旦那様が、あなたをお呼びです」
「…………はい?」
一瞬、耳を疑った。
「旦那様が」
「私を?」
「はい」
「クライヴ様が?」
「はい」
「自発的に!?」
「はい。至急、連れてこいと」
そこまで確認しても、まだ現実だと信じられない。
私は完全に固まった。
えっ、待って。
お呼び?
呼ばれた?
推しから?
公式サイドからの、個別のご招待!?
脳内で、盛大なファンファーレと共にくす玉が割れた。
「り、理由は!? 粗相で処刑ですか!?」
「……それは、どうかご本人から直接お聞きください」
なぜかグレアムは、ひどく遠い目をして口を閉ざした。
私は、完成したばかりのお守りハンカチを胸にきつく抱きしめたまま、ふらふらと夢遊病者のように廊下を歩いた。
足がまったく地に着いていない感じがする。緊張しすぎて、たぶん今なら平らな床でつまずいて転べる自信がある。
案内されたのは、東棟の奥。昨日までの執務室ではなく、クライヴ様の『私室(寝室)』の前だった。
執務室ではない。
訓練場でもない。
超絶プライベート空間である、私室。
私は扉の前で一度、本気で死ぬほど深呼吸をした。
「……失礼、いたします。リアナです」
ノックの後、そっと重い扉を開ける。
部屋の中は、ひどく静かだった。厚い遮光カーテンの隙間から夕方の薄い茜色の光が差し込み、石造りの暖炉にはパチパチと火が入っている。広くて豪華だけれど、装飾品の少ない、無駄のない、ひどく孤独でクライヴ様らしい部屋だ。
そして、部屋の中央の大きなカウチソファに、上着を脱いでシャツ一枚でゆったりと腰掛けていたクライヴ様が、ゆっくりとこちらを見た。
「来たか」
その低い一言だけで、私の心臓が大きく跳ねる。
昨日までと、何かが違う。
声は相変わらず低くて落ち着いているのに、そこにあった私への「氷のような拒絶の棘」が、ほんの少しだけ、確かに和らいでいた。
私はぎこちなく、ロボットのように一礼した。
「お、お加減は……いかがですか」
「死んではいない」
「それは本当によかったです! 世界の損失を防げました!」
反射で限界オタクの感想を答えてしまい、クライヴ様が一瞬だけ目を細める。
しまった、今のはちょっと能天気すぎたかもしれない。
けれど彼はそれ以上私を叱責せず、代わりに、シャツの袖をまくった自分の右腕へ視線を落とした。
そこにはもう昨日のハンカチは巻かれていない。だが、確かに、私にもわかるほど痣が少し薄くなっていた。
真っ黒だった不気味な紋様の一部が、煤を払ったみたいに淡い灰色になっている。
私は息を呑んだ。
「本当に……薄くなってる……」
「お前が昨日、無理やり巻いた布を外した後からだ」
クライヴ様が低く言う。
「医師にも、私自身にも、理由はまったくわからん」
その琥珀色の視線が、探るようにまっすぐ私に向く。
「お前は、この右腕に何をした」
「ええと……私がしたことといえば、刺繍を……」
「刺繍、だと?」
「はい」
私はしどろもどろになりながら、胸に抱えていた新しいハンカチを両手で差し出した。
「その、もしかしたら、私の込めた『愛』……じゃなくて『想い』が、これも何かの役に立つかもしれなくて……」
クライヴ様の鋭い目が、私の手元に落ちる。
新しいハンカチ。
白地に銀と青の刺繍。
さっきまで、渡すタイミングを悩んでいた品。
「……それは何だ」
「お守り、です」
「お守り」
「はい。非公式グッズですけど」
「非公式とは何だ」
「いえ、こちらのオタクの専門用語です、お気になさらず」
私はこほんと咳払いしてごまかした。
「旦那様が少しでも楽になればと思って、今日一日かけて作りました。ご迷惑でなければ、お持ちいただければと……」
しばしの、重たい沈黙。
クライヴ様はソファから立ち上がると、ゆっくりと、猛禽類のような足取りでこちらへ歩いてきた。その距離が縮まるたび、私の心臓は警鐘のように忙しなく跳ねる。
目の前で立ち止まった彼は、差し出されたハンカチを受け取るより先に、まず私の顔を見下ろした。
「……お前は」
ひどく低い、耳元を撫でるような声。
「本当に、この呪われた私を、恐れないのだな」
その問いは、以前のような威圧や責めるものではなかった。
ただ、信じられない奇跡を、何度も確かめるような、すがるような響きがあった。
私は少しだけ考えて、そして、彼には嘘をつきたくなくて、正直に答える。
「怖い時も、あります。怒鳴られた時とか」
クライヴ様の長い睫毛が、わずかに揺れた。
「でも、それより先に……あなたが痛そうだな、とか。夜はちゃんと眠れてるかな、とか。そういう心配のほうが、どうしても勝ってしまうんです」
我ながら、かなりストレートすぎる、恥ずかしい言い方だった。
でも、今さら取り繕っても仕方がない。
「だから、その……怖くないわけじゃなくて、怖がってる場合じゃないっていうか」
「……」
「あと普通に、お顔が良すぎるので、だいたいそっちの尊さに意識を持っていかれます」
最後の一言は、絶対に余計だった。
案の定、クライヴ様は一瞬ポカンと沈黙したあと、額を押さえてひどく微妙な、頭痛を堪えるような表情になった。
「……お前は本当に、雰囲気をぶち壊す天才だな」
「すみません」
「……いや、もういい」
深く呆れたようにそう言って、彼はようやく、私の手から新しいハンカチを受け取った。
長くて形の良い指が、白い布をつまむ。
その瞬間、かすかに、布全体が「ぼわっ」と淡く光った。
「!」
私もクライヴ様も、同時に目を見開く。
光は一瞬で魔力として彼の体内へ収まったが、もう見間違いではない。
クライヴ様は手元のハンカチを見つめ、それから、探るように私を見た。
「……やはり、お前の仕業か。これが光属性の浄化魔法だとでも言うのか」
「た、たぶん……? そういう設定が発現したのかも……?」
断定できないのが悲しいところだ。
私は魔法の専門家ではないし、自分がチート能力に目覚めた自覚的な転生者でもない。ただの限界オタクである。
だがクライヴ様は、そんな挙動不審な私をじっと見つめたまま、ふと、自分の右腕を私の目の前に差し出した。
「巻け」
「……はい?」
「昨日と同じように、この腕に巻けと言っている」
あまりに自然な命令口調で言われて、私の脳が一瞬フリーズして理解が止まった。
いま、巻けって言いました?
えっ。
つまり。
私が。
推しの生肌の腕に。
もう一回、合法的に触れていいと?
顔が一気に、沸騰したように熱くなる。
「え、あの、よろしいんですか。嫌がってませんでしたか」
「お前が私のために作ったものなのだろう」
「そ、そうですけど」
「なら、お前が直接巻くのが一番理に適っている」
理に適っている。
ものすごく冷静で理路整然とした言い方なのに、私の心臓にはまったく優しくない。破壊力が高すぎる。
「は、はい……失礼します……!」
震える手で、私は彼からハンカチを受け取り、広げた。
クライヴ様の右腕にそっと指先で触れる。昨日より熱は引いている。でもまだ、皮膚の下に呪いのざらついた気配が確かに残っていた。
私は大きく深呼吸し、できるだけ丁寧に、祈りを込めるように布を巻いていく。
触れるたび、胸の奥がじんと熱くなる。
同時に、針仕事の時と同じ「不思議な感覚」が指先に宿る。
やっぱり、何かが流れている。
私の中にある「推しへの特大感情」が、光の魔力となって布へ、そしてクライヴ様の身体へ、呪いを溶かすように流れ込んでいるのがわかった。
最後に結び目を綺麗に整えて、パッと顔を上げると。
すぐ目の前で、至近距離で、クライヴ様が私をじっと見下ろしていた。
近い。
近い近い近い。
しかもその顔が、昨日より明らかに作画が整っている。
元から絶世の美形だったのに、呪いの瘴気が少し薄れたせいか、肌のくすみや病的な翳りまで取れていた。目元の隈が和らぎ、冷たかった頬の線がくっきりとして、ただでさえ限界突破していた美しさが、さらに一段階上のステージへと上がっている。
「……っ」
「どうした。なぜ息を止める」
「推しの……旦那様の作画が限界突破してて、直視できません……」
「は?」
「いえ、なんでもありません! かっこいいです!」
私は慌てて両手で自分の口と目を覆う。
でも本音である。何これ。昨日まででも十分死ぬほど美しかったのに、今日のクライヴ様、色気がさらにやばい。呪いが解けたらこんなに顔面偏差値って上がるものなの?
私がひとりで混乱していると、クライヴ様がふいに、ひどく甘く低い声で呟いた。
「……そんな顔をするな」
「え?」
「まるで、ありえない奇跡でも見たような、そんなキラキラとした目で、私を見るな」
その声は責めるようでいて、どこか照れたような、扱いに困ったような響きがあった。
私はきょとんとしたが、すぐにブンブンと首を振る。
「奇跡、見てますよ」
「……」
「だって、あの絶対に解けないはずの呪いが、少し薄くなったんです。あなたが少しでも楽になったなら、それって私にとっては、世界を救うレベルの十分な奇跡です」
部屋が、しんと静まり返る。
クライヴ様は何も言わなかった。ただ、私の巻いた右腕のハンカチに左手で軽く触れて、ほんのわずかに、苦しげに目を伏せた。
その儚げな横顔が、どうしようもなく綺麗で。
私はまた、彼への愛おしさで胸がいっぱいになった。
すると次の瞬間。
クライヴ様が、思いがけないことを口にした。
「……リアナ」
低く、甘く、名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
「はい」
「今夜も、この部屋に来い」
「…………はい?」
間の抜けたカエルのような声が出た。
クライヴ様は私から顔を背けたまま、耳までわずかに赤く染め、淡々と早口で続ける。
「昨夜のような発作が、今夜も起きぬという保証はない。医師もそう言っていた」
「そ、それは、はい」
「お前のその布の力なのか、お前自身に何かあるのかは知らんが……お前がそばにいた方が、私にとっては……都合がいい」
都合がいい。
たぶん彼なりに、自分のプライドと照れ隠しのために、ものすごく言葉を選んだ結果なのだろう。
でも、私はその不器用な一言で十分だった。
必要とされた。
少なくとも、夜に同じ部屋に「いてほしい」と思われたのだ。公式からのお泊まり要請である。
「……はい!」
今度はちゃんと、満面の笑みで頷けた。
「行きます。旦那様が安眠できるまで、朝までずっとそばにいます!」
クライヴ様はそれ以上何も言わず、「勝手にしろ」とだけ短く吐き捨てた。
けれど、私が部屋を辞する直前、背中越しに小さな声が落ちてきた。
「……あの昨日のお前が作った布も、捨てずにおけ」
きっと、中庭で渡した第一号のハンカチのことだ。
私は振り返って、嬉しさのあまり破顔した。
「もちろんです。だってあれ、記念すべき第一号ですから!」
「第一号?」
「はい。クライヴ様専用・無自覚チートお守りシリーズの!」
「……シリーズ化する気か。やれやれだな」
深い溜息と共に呆れた声が聞こえたけれど、その声にはもう、以前のような氷の冷たさは一切なかった。
私は部屋を出て、重い扉が閉まった瞬間、廊下でそっと両拳を握りしめた。
やった。
やったやったやった!
推し専用お守り、公式に正式採用である。
しかも今夜も部屋に来いって言われた。
これはもう、実質的な好感度アップの継続イベント発生では!?
私は廊下で顔を押さえながら、どうにか歓喜の悲鳴を飲み込んだ。
その夜。
クライヴ様の右腕に巻かれた新しいハンカチは、彼が眠りについた後、月明かりの中で淡く、ほんのわずかに浄化の光を帯びていた。
そして翌朝。
彼の体を蝕んでいた黒い痣は、まるで薄いガラスが内側からひび割れるみたいに、ぱきり、と静かな音を立てて、さらに広範囲にわたって砕け散った。
鏡の前でそれを見たクライヴ様が、珍しく目を見開いて息を呑む。
黒く濁っていた魔力の波長が、ほんの少しだけ澄んでいる。
肌の色も、これまでよりずっと健康的な、人間らしい血色を取り戻しつつある。
完全ではない。まだ呪いの全部が解けたわけではない。
それでも確かに、十年間彼を苦しめてきた最強の呪いは、音を立てて崩れ解け始めていた。
その劇的な変化をグレアムから知らされた私はというと、朝から自室で西の空(推しの部屋の方角)に向かって、両手を合わせて深く拝んでいた。
「推しの作画が、また一段階更新された……! ありがとうございます神様、いや私か!」
城の誰も、ただの掃除好きのモブ令嬢である私が「浄化の元凶」だとは、まだはっきりと確信していない。
たぶんクライヴ様本人ですら、まだ半信半疑だ。
そして私自身も、まさか自分の「推し活の念」が、ここまで物理的に強烈に効くとは思っていない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
私の辺境での推し活ライフは、どうやら私の想像を遥かに超えて、とんでもない激甘な方向へ進み始めているらしい。




