第6話 化け物は、陽だまりのような少女に絆される
ひどく静かで、眠れない夜だった。
城を吹き飛ばすかのように荒れ狂っていた嵐はとうに過ぎ去ったというのに、私の耳の奥には、まだ激しい雨音が残っているような気がした。
閉じた瞼の裏では、鋭い稲光の残像がちらつき、そして胸の奥では、私にしがみついてきたあの小さな腕の温もりが、いつまでも消えない熱を放ち続けている。
私は暗い寝台の上で目を開けたまま、微かな月明かりに照らされた天井の石組みを、ただじっと見つめていた。
右腕の痛みは、信じられないほど静かだった。
呪いが完全に消え去ったわけではない。忌まわしい黒い痣はなおも皮膚にこびりつき、魔力は今も体の底に澱んでいる。
それなのに、嵐の夜のたびに骨まで砕かれ、理性を焼き尽くされるようだったあの凄まじい苦痛が、今夜は嘘のように遠のいていた。
理由など、考えるまでもない。
あの娘だ。
リアナ・バーレット。
王都の男爵家から「生贄」として、厄介払い同然にこの辺境の城へ送り込まれてきた娘。
奇妙で、騒がしくて、常識がまったく通じなくて、そして――どうしようもなく、眩しい娘。
「……頭が、おかしい」
暗闇の中で声に出してみても、少しも思考の整理がつかなかった。
普通なら、あんな場に来るはずがない。
来たとしても、血を吐きながら暴走する私を見れば、悲鳴を上げて逃げ出すのが正常な人間の反応だ。
まして、致死量の瘴気が吹き荒れる暴走の中心に飛び込んでくるなど、正気の沙汰ではない。自殺行為だ。
それなのに、彼女は来た。
私が怒号を上げ、魔力を撒き散らし、化け物そのものの醜い姿を晒していたというのに。
彼女は一歩も引かなかった。怯えもせず、嫌悪もせず、ただまっすぐに私の懐へ飛び込んできて、私を強く抱きしめて――ボロボロと泣いたのだ。
『死なないでください!』
あの切実な声が、まだ耳にこびりついて離れない。
『誰が何と言おうと、クライヴ様は最高にカッコよくて優しくて、私の光なんです!』
……思い出すだけで、胸の奥がひどくざわつき、焼け焦げるように熱くなる。
あんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
優しい、などと。
光、などと。
そんな美しく温かい言葉を、血塗られた化け物である私に向ける人間が、この世に存在しているはずがないと思っていた。
私はゆっくりと熱い息を吐き出し、健康な左腕で自分の目元を深く覆った。
十年前のことを思い出す。
あの頃の私は、まだひどく若く、愚かだった。
父が魔獣討伐で命を落とした後、若くしてこの辺境伯位を継いだ。国境防衛と過酷な領地経営に追われながらも、それなりに自分の義務と、国の未来を信じていた。
中央の貴族たちが私を「野蛮な北の番犬」と煙たがっていることも、王都がこの辺境の地を「魔獣の侵攻を防ぐための便利な盾」としてしか見ていないことも知っていた。だが、それでも守るべき領民がいる限り、王家の剣として役目を果たし続ければいいと、そう考えていた。
信じていた者たちもいた。
王都から派遣されてきた、共に酒を飲んだ監察官。
背中を預け合った旧知の騎士。
かつて婚約話まで持ち上がり、微笑みかけてくれた美しい伯爵令嬢。
だが、誰も彼も、最後には私に向けて同じ顔をした。
――恐怖と、嫌悪と、打算を混ぜ合わせた、醜い顔だ。
国境での大規模な邪竜討伐の最中、私は今のこの呪いを受けた。
いや、正しくは――呪いを「受けさせられた」のだ。
中央と癒着した宮廷魔術師と、私を疎ましく思っていた王族の派閥が、私の討伐任務の陣形に意図的な細工をしていたのだと知ったのは、すべてが終わった後だった。
辺境を独立国家のように束ね、強大な武力を持つエヴァンズ家。その当主である私を削げば、領地も軍権も富も、彼らの都合のいいようにいくらでも切り売りできる。そう考えた腐りきった者たちにとって、私はただの邪魔者だったのだろう。
邪竜の血飛沫を浴びて刻まれた呪いは、私をすぐには殺さなかった。
少しずつ体を侵し、少しずつ魔力を黒く歪め、少しずつ理性を削り取っていく。
皮膚には禍々しい痣が浮かび、発作のたびに強大な力が暴走し、周囲の者たちは私の姿を見て震え上がった。
あの時からだ。
人が、私の前で露骨に目を逸らすようになったのは。
私に近づく前に、祈るように息を呑み、距離を取るようになったのは。
そして、私の背後で「呪われた化け物」と囁くようになったのは。
誰もが、蜘蛛の子を散らすように私の元から離れていった。
友人だった騎士は見舞いにも来なくなり、やがて別の領地へ栄転していった。
婚約話を持ってきた伯爵家は、まるで最初から私など存在しなかったかのように沈黙し、令嬢はすぐに別の男に嫁いだ。
中央の王室は「辺境伯は自らを犠牲にして国のために耐えている」と英雄を讃えるような綺麗事だけを並べ立てながら、実際には私を人目につかないこの北の果ての城へ押し込め、隔離した。
残ったのは、この冷たい石の城と、私に過分な恩義を感じてくれているグレアムたち古参の使用人だけだ。
だから、私は学んだのだ。
他人に期待しなければ、裏切られて傷つくこともない。
自分から誰も近づけなければ、怯えられ、化け物と罵られる回数も減る。
先に冷たく突き放し、冷酷無慈悲な男を演じてしまえば、他人の心変わりを見た時の惨めな痛みも、少しはましになる。
そうやって十年間、ひたすらに心を殺して生きてきた。
誰にも愛されず、誰も愛さず。
ただ領地と罪のない民を守るためだけに剣を振り、国境を越えてくる災厄を斬り捨てるだけの機械。
いずれ呪いに完全に呑まれ、理性を失い、最後は『正義』を名乗る討伐隊の手によって討たれて終わるのだろうと――心のどこかで、もう自分の結末を決めていた。
それでいいと思っていた。
いや、そう思い込もうとしていた。
けれど。
暗闇の中で、脳裏にあの娘の顔が鮮烈に浮かび上がる。
淡い蜂蜜色の髪。
くるくると表情を変える、大きな榛色の瞳。
およそ恐ろしい化け物に向けるとは思えないほど、熱を帯びた、きらきらとした視線。
泣きそうな顔で、いや実際半分泣いていたくせに、私を助けるのだと妙に堂々と向かってくる、あの迷いのない足取り。
……本当に、初めて会った時からおかしな娘だった。
彼女が玄関ホールで私の瘴気を前にブルブルと震えていたから、またいつもの生贄の娘たちのように、恐怖で硬直しているのだと思った。
だが違った。あれは怯えではなく、信じられないことに「極度の興奮と歓喜」による武者震いだったらしい。
冷酷に睨みつけ、脅し文句を吐いても、なぜか目を輝かせて「一生お仕えします!」と宣言する。
厳しい辺境での軟禁同然の扱いを受けてなお、泣くどころか、なぜか嬉々として城中を徹底的に掃除して回る。
柱の陰から、自作の妙な双眼鏡で私の執務室を熱心に覗き込んでいた時は、本気で中央から放たれた何らかの刺客かと思った。だが実際は、ただ私を見て「睫毛が長い」「顔が良い」などと意味不明なことを呟き、うっとりしていただけだった。
意味がわからない。
本当に、彼女の行動原理の何ひとつとして、理解できない。
理解できないのに。
……目が、離せない。
自分でも、とうに気づいている。
廊下の向こうで彼女の軽い足音や気配がすると、書類から無意識に顔を上げ、視線で探してしまうことを。
「また何か妙な奇行をしているのではないか」と呆れ半分で警戒しながら、その実、どこかで元気に動き回る彼女の姿を見つけると、胸の奥が奇妙に安堵してしまうことを。
そして、今夜。
あの理性を失いかけた暴走の最中でさえ。
彼女が私を強く抱きしめ、「あなたは私の光だ」と叫んだ瞬間。私の中の荒れ狂っていた呪いが、まるで嘘のように静まり返った。
彼女に何か特別な力があるのか、それはわからない。
だが、あの温もりが、あの涙が、私の魂を底の底から繋ぎ止めたことだけは事実だった。
どうして彼女は、あんなにも私を求めるのか。
わからない。
いや、違う。
本当は、理由などどうでもいいのだ。私はただ、これ以上自分の心が暴かれるのが怖くて、「わかりたくない」と逃げているだけなのかもしれない。
あれほど長く、分厚い氷で冷たく閉ざしてきた私の心が。
たった一人の、まだ十八の小娘の体温と真っ直ぐな言葉で、こうも容易く揺らいでしまうなど。認めてしまえば、もう二度と、元の孤独な防空壕には後戻りできなくなる。
「……今さら、遅いか」
掠れた、自嘲気味な独り言が暗闇に漏れた。
もう遅い。
痛いほど、思い知っている。
彼女のあの底抜けに優しい温もりを知ってしまった時点で。
あの、私を全肯定する真っ直ぐな声を聞いてしまった時点で。
私の中の孤独は、もう以前と同じ顔をしてはいられなくなった。
知らなければ、私はこのまま一人で終われた。
誰にも求められず、誰も求めず、ただの恐ろしい化け物として誰かの剣に斃れ、朽ちていけばよかった。
だが、知ってしまった。
私に触れても、決して震えない小さな手があることを。
この忌まわしい呪われた右腕を見てなお、「醜い」と蔑むのではなく、「痛かったですよね」と私の十年間の苦痛を労ってくれる娘がいることを。
化け物としてではなく、ただの一人の男を見るような、熱を孕んだ目を向けられる喜びを。
――心が満たされるというのは、こういう感覚だったのか。
胸の奥にぽっかりと空いていた、冷たい風が吹き込むだけの巨大な穴へ。甘く、柔らかなものが止めどなく流れ込んでくるような。
凍りついて感覚すら失っていた細胞の隅々にまで、ゆっくりと、熱い血が通い始めるような。
息が詰まるほど苦しい。
なのに、絶対に手放したくない。
私はそっと、呪いの刻まれた右腕を持ち上げた。
そこにはまだ、彼女が訓練場で私に強引に巻いた、白い手作りのハンカチがある。嵐の発作の最中に乱れたものを、寝かされる時にグレアムが整え直してくれたのだろう。
彼女が不格好に縫い付けた銀糸の狼の刺繍が、薄明かりの中でささやかに、だが確かに光っていた。
こんなもの、ただの安物の布だ。
それなのに、私はこれを、自分の命よりも愚かなくらい大事に思えてしまう。
「……リアナ」
口の中でその名を転がすだけで、喉の奥が妙に熱く、甘く痺れる。
あの娘は、自分が私に対して何をしているのか、まったくわかっていないのだろう。
あれは、貴族の娘が持つような安い慈悲ではない。
可哀想な生贄に向けた憐憫でもない。
ただ純粋な好意だけで殴りかかってくるような、あまりにも無防備で、あまりにも無自覚な『救済』だ。
救われた側の人間が、その後どう狂ってしまうのかも知らずに。
私はゆっくりとベッドの上に身を起こした。
窓の外には、嵐の名残の黒い雲が薄く流れている。その切れ間から差し込む月光は頼りなく、冷たい。
ふと、「陽だまり」という言葉を思い出す。
私には、似合わないにもほどがある言葉だ。
北の果ての冷たい石の城。死と隣り合わせの呪い持ちの辺境伯。血と瘴気と孤独の闇の中にしかいられない私が、そんなぬくいものを連想するなど、滑稽ですらある。
けれど、私に抱きついてきた彼女は、確かにそうだった。
無遠慮で、まぶしくて、勝手に人の懐の最奥まで土足で踏み込んでくるくせに、不思議と嫌ではない。
いや、嫌どころか――その熱を、もっと欲しいと、骨の髄から渇望してしまう。
ここで、ようやく私ははっきりと自覚した。
私は、完全に彼女に絆されてしまったのだ。
化け物と呼ばれ、誰にも触れられず、誰にも欲されずに、心を殺して生きてきた男が。
たった一人の娘の、あの不器用で巨大な「好き」という感情に、どうしようもなく絡め取られてしまった。
重症だ、と自嘲したくなる。
だがそれでも、一度私の中で芽吹いてしまったこの狂おしい感情は、もう二度と引き抜けない。
欲しい。
あの真っ直ぐな視線を、もっと。
あの私を呼ぶ甘い声を、もっと。
あの私を抱きしめた細い腕の温もりを、もう一度、いや永遠に。
私だけを見てほしい。
私だけを案じて、私のために泣いてほしい。
私だけに、あんなふうに必死になって、すべてを捧げてほしい。
……ああ、本当に醜い。
腕の呪いより何より、今の私の胸の奥でどす黒く渦巻いているこの「独占欲」こそが、一番醜悪な化け物かもしれない。
それでも、もう止められない。
もし彼女が、他の男へあの熱を帯びた目を向けたらと思うだけで、胸の奥がドロドロに黒く濁り、殺意すら湧き上がる。
王都の身分ある王子だろうが、美形の騎士だろうが、聖なる神官だろうが、そんなものは関係ない。彼女のその光と熱を受け取るのが、私以外の何者かであることなど、もう絶対に耐えられそうにない。
「君が……」
小さく、掠れた声で呟く。
暗い部屋の中で、その言葉だけがやけに鮮明に響いた。
「君が、この化け物である私を受け入れると言うのなら」
続きは、神ではなく、彼女へ捧げる絶対の誓いだった。
「もう二度と、この腕から逃がさない。……地獄の底まで、私に付き合ってもらう」
右腕に走る痛みが、私の感情に呼応するようにかすかに脈打つ。
それでも今夜の私は、その痛みすらもはや厭わなかった。
化け物で結構だ。
大の大人が、一回りも年下の少女に向ける醜い執着だと笑われても構わない。
十年も、私の世界は空っぽだったのだ。
ようやくこの手に触れた、たった一つの温もりを、どうして手放せるものか。
リアナはたぶん、まだ何も知らない。
自分の向ける限界突破した眩しい眼差しが、どれほど危うく、重たいものを私の中で目覚めさせてしまったのか。
自分の無邪気で熱烈な言葉が、どれほど深く、太い鎖となって私を縛り付けたのか。
今はまだ、知らないままでいい、と思う。
あの能天気で騒がしい「推し活」とやらを、好きなだけさせてやればいい。
……いや、知らないままでは困る日が、すぐに来る。
私がこの感情を抑えきれなくなる日が。
その時、私はきっともう躊躇わない。
彼女のすべてを、私のものにする。
窓の外で、雲間から澄んだ月が覗いた。
その淡い光の下で、私は右腕のハンカチにそっと口づけを落とし、静かに目を閉じた。
胸の奥にある熱は、もう決して消えない。
孤独を知る前の自分には戻れないように、彼女に絆される前の冷たい自分にも、もう戻れない。
ならばせめて。
この熱ごと、あの娘を私の腕の中に囲い込み、溺れさせてしまおう。
化け物が初めて手に入れた陽だまりを、二度と、誰にも奪われないために。




