第5話 呪いの発作と、限界オタクの特大感情
その日の辺境の空は、朝からひどく機嫌が悪かった。
灰色の分厚い雲が何層にも重なって空を低く覆い隠し、昼を過ぎた頃には、氷のように冷たい風が唸りを上げ始めた。窓ガラスはガタガタと細かく震え、城の古い石壁の隙間を吹き抜ける風が、まるで傷ついた獣の遠吠えみたいな不気味な音を立てている。
「今夜は、ひどく荒れそうですねえ……」
厨房で焼きたての黒パンを籠に移していた料理長が、小さな窓から外の暗い空を見上げながら、深い不安を滲ませてそう言った。
「辺境は、いつもこんな感じにお天気が崩れるんですか?」
私が出来上がったスープ皿を運ぶ手を止めて尋ねると、彼はひどく苦い顔で首を振った。
「嵐自体は、この季節には珍しくありません。ですが……問題は天候ではなく、旦那様のご様子が、少し」
その言葉に、私の胸の奥がひやりと冷たくなった。
ここ数日、クライヴ様は表面上こそいつも通りだった。相変わらず冷たくて近寄りがたくて、私からの熱烈な視線に対しても「妙な女」としか思っていないような態度を崩さなかった。
でも、何となくわかるのだ。
機嫌が悪いとか、仕事が忙しいとか、そういう単純なものではない。もっと内側、彼の身体の奥底で、何かが致命的に軋み、悲鳴を上げているような感覚。
今朝、廊下ですれ違った時もそうだった。
向こうから歩いてくるクライヴ様の周りには、いつもよりずっと濃く、重たい黒い瘴気が揺れていた。私が無理やり巻いた手作りの白いハンカチの下から、じくじくと不穏で禍々しい気配が滲み出ているのが、魔力の低い私にすらわかったのだ。
私が思わず心配で足を止めたのに、クライヴ様はそれに気づいていながら視線さえ寄越さず、すれ違いざまに、ひどく低く、張り詰めた声で一言だけ落とした。
『今日は、自分の部屋から出るな』
有無を言わせぬ命令口調だった。
けれど私には、それが怒りや拒絶ではなく、不器用すぎる警告に聞こえた。
――危ないから、私に近づくな。
彼はそう言っているのだと、痛いほど伝わってきた。
「……呪い、ですか」
私が声を潜めて問うと、料理長は言葉を濁した。
「……旦那様は、天候がひどく荒れる夜に、お加減を大きく崩されることがありまして。呪いの瘴気が、嵐の魔力と共鳴してしまうらしく……」
「崩すって、どのくらいですか?」
「それは……」
彼は答えかけてやめた。代わりに、気まずそうに視線を逸らす。
答えたくない、というより、答えられないのだろう。たぶん使用人たちも詳しくは知らされていないのだ。知っていたとしても、昨日今日来たばかりの「生贄の花嫁」に話していいことではないのかもしれない。
でも、その曖昧さがかえって私のオタクとしての不安と想像力を激しく煽った。
夕方になる頃には、強風に冷たい雨が混じり始めた。
雨脚はみるみる強くなり、夜には完全な、暴力的な嵐になった。窓の外は墨を流したように真っ暗で、時折走る鋭い稲光だけが、中庭の木々を白日のように照らし出している。
私は自室の暖炉の前に座り、刺繍枠を手にしながら、そわそわと貧乏ゆすりをしていた。
手元の針は動いている。クライヴ様用の新しいハンカチを作っているのだ。でも、ちっとも作業に集中できない。銀糸が何度も絡まる。
頭の中にあるのは、朝のクライヴ様の、苦痛に耐えるような横顔ばかりだった。
「今日は部屋から出るな、か……」
たぶん、自分が呪いの発作で苦しむ姿を見せたくないのと、瘴気の暴走で私を巻き込まないように遠ざけてくれたのだろう。
優しい人だ。本当に、不器用で、どうしようもなく優しい人だ。
でも。
だからといって、「はいそうですか、では推しが一人で苦しんでいる間、私は暖かい部屋で寝て待ちますね」と大人しくしていられるほど、私は聞き分けのいいライトなファンではない。
だって推しの具合が悪いのだ。
しかも、命に関わるかもしれない『呪いの発作』なのだ。
そんな時に、部屋でぬくぬくしていろ?
無理である。私の魂がそれを許さない。
外で、ひときわ大きな雷が落ちた。窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げて震える。
その音に混じって。
城の奥深く、遠く離れた場所から、何かが激しく砕け散るような音がした。
びくり、と肩が大きく跳ねる。
今の、何?
雷の音じゃない。
私は持っていた刺繍枠を放り出し、耳を澄ました。風と雨の音。暖炉の火の爆ぜる音。自分の早鐘を打つ心臓の音。
そして。
――がしゃんっ!
――……うっ、ああぁ……っ!
微かだが、野獣のような唸り声と、低く押し殺したような苦悶の呻き声が、確かに聞こえた気がした。
立ち上がるより先に、私の身体は弾かれたように動いていた。
「リアナ様!?」
部屋の外の廊下で控えていたメイドが、突然飛び出してきた私を見て悲鳴を上げた。彼女の制止も聞かず、私は冷たい石床を蹴って、音のした東棟の奥へと全力で走った。
「旦那様のところへ行かれるのですか! いけません、危険です! 今夜は近づくなと旦那様から厳命が!」
「危険でも行きます!」
「ですが、瘴気にあてられればリアナ様の命が!」
「だってクライヴ様が苦しんでるんでしょう!? 推しが苦しんでるのに見捨てるなんて、ファン失格です!」
「ふぁ、ふぁん!?」
意味不明な単語にメイドが息を呑んで硬直した隙に、私は一気に距離を離した。
それ以上止める暇は与えない。私はドレスの長い裾を両手でガバッと持ち上げ、嵐のような勢いで階段を駆け下りた。
東棟へ近づくにつれ、立ち込める黒い瘴気はどんどん濃くなっていく。
空気が、水の中を歩いているように重い。肌に触れる空気がぴりぴりと静電気のように痛い。息を吸うと、肺の奥が火傷したように焼ける感覚がする。
普通の人間なら、この瘴気のプレッシャーだけで恐怖に足が竦み、発狂して逃げ出すだろう。けれど今の私には、恐怖より先に「推しの一大事」に対する焦燥感が完全に勝っていた。
やがて辿り着いたのは、東棟の最奥にある、普段は使われていない広間だった。
重厚な両開きの扉が半開きになっていて、その隙間から、ドロドロとした黒い靄が溢れ出し、床を這っている。
中から、荒々しい破壊音と、獣のような激しい呼吸音がした。
「クライヴ様!」
叫びながら扉を押し開けて飛び込んだ瞬間、中から吹き荒れた強烈な魔力の風圧に、身体ごと吹き飛ばされそうになった。
「っ……!」
部屋の中は、地獄のような有様だった。
窓ガラスは内側から吹き荒れる魔力でひび割れ、置かれていた重い椅子や木製の小卓は無惨に薙ぎ倒されている。床には粉々に割れた花瓶の破片が散らばっていた。
そして、その惨状の中心に立っているのは――いや、半ば膝をついて苦しげにうずくまっているのは、クライヴ様だった。
真っ黒な瘴気が、彼の身体から間欠泉のように噴き上がり、部屋中を荒れ狂っている。
右腕に刻まれていたはずの呪いの痣は、服を突き破る勢いで肩口まで広がり、さらには首筋から頬にかけて、ひび割れた黒い筋が禍々しく走っていた。
苦痛に歪められた美しい顔からは完全に血の気が引き、強く噛み締めたらしい口元からは、鮮やかな赤がタラリと滲んでいる。
「クライヴ様!!」
私がたまらず一歩踏み出すと、彼が弾かれたように顔を上げた。
その瞳は、いつもの理知的な冷たい琥珀色じゃなかった。
激痛と、絶望と、暴走しようとする自分自身を必死に抑え込もうとする激しい意志の炎で、赤く焼けていた。
「……来るな!!」
空気を震わせるほどの怒号が、広間に響き渡った。
同時に、さらに強大な魔力の奔流が吹き荒れ、私の髪とスカートが激しく後ろへ煽られる。床に散らばった羊皮紙の破片が刃のように舞い上がり、私の頬をかすめて浅い切り傷を作った。魔力の濃さに、視界が黒く霞む。
「離れろ……! 今すぐ、ここから出て行け……っ!」
言い終わる前に、クライヴ様が激しく咳き込み、床にドクンと鮮血を吐いた。
その赤い血を見た瞬間。
私の頭の中で、何かの線が完全にぶっ飛んだ。
「クライヴ様!!」
駄目だ。
もう駄目だ。理性とか、命令に従うとか、自分の命の危険とか、そんなものは全部彼方へ吹き飛んだ。
私は暴風のように荒れ狂う瘴気の中へ、躊躇なく飛び込んだ。
足元は風圧でふらつく。黒い瘴気が針のように肌を刺し、頬の傷がひりひり痛む。息をするだけで肺がちぎれそうに苦しい。
それでも、私の足は止まらなかった。
だって目の前で、私の最推しが、あんなに強くて美しい人が、たった一人で血を吐いて苦しんでいるのだ。
「来るなと言っただろう……! 狂ったのか!」
近づく私を見て、クライヴ様が絶望したように絞り出す声で怒鳴る。
「お前まで瘴気に当てられて、傷ついたら……お前が、死んだら……っ!」
その言葉が、私の心臓のど真ん中に突き刺さった。
ああ。
ああ、この人は。
自分が呪いに侵されて血を吐いているのに。こんなに狂うほど苦しいのに。
自分を忌み嫌うはずの他人(私)を傷つけたくないなんて、そんなことばかり考えているのだ。
もう、たまらなかった。
愛おしくて、悲しくて、感情がキャパシティを超えた。
私は最後の数歩を一気に駆け抜け、ぐしゃぐしゃになった彼の前に両膝をついて滑り込んだ。
「リアナ、下がれ……!」
「嫌です!!」
「っ……!?」
クライヴ様が驚愕に目を見開く。
私はそのまま、勢いよく彼に抱きついた。
がしっ、と両腕を彼の背中に回して、逃がさないようにできる限り強く。
細身に見えていた身体は、実際に触れると岩のように硬くて、異常なほど熱かった。筋肉の上に、極限の痛みと疲弊が張り詰めているのがわかる。
彼の身体から噴き出す瘴気は依然として荒れ狂っているのに、不思議と、彼の胸の中はまったく怖くなかった。
ただ、絶対にこの手を離したくないと思った。
「なっ……おま、え……」
「死なないでください!!」
自分でも驚くくらい、大きく、はっきりとした声が出た。
「誰が何と言おうと! 王都の人間が何と罵ろうと! クライヴ様は最高にカッコよくて、不器用だけど優しくて、私の人生の光なんです!」
言ってしまった。
限界オタクの特大感情を、何のフィルターもかけずに、本人への直球の叫びとして。
でも、もう口は止まらない。
「呪われてるとか、化け物とか、そんなの私には一切関係ありません! 痛くても苦しくても、あなたがここにいて、生きて呼吸をしてくれているだけで、私は死ぬほどうれしいんです!」
腕の中に抱きしめた身体が、びくりと大きく震えた。
私はさらにぎゅっと力を込めた。この冷たくて暗い嵐の中で、絶対にこの人を一人にしたくなかった。
「だから……一人で諦めないでください……!」
声が震える。視界が滲み、ボロボロと涙が溢れて彼の黒い訓練着を濡らす。
「勝手に、一人で孤独なバッドエンドに行こうとしないで……!」
「……ばっど、えんど?」
「違っ、今のは忘れてください! 用語はどうでもいいです!」
うっかり前世のオタク用語が漏れた。
だがそんなことを気にしている場合ではない。私はぐすっと鼻をすすり、必死で顔を上げて続ける。
「とにかく! あなたは死んじゃ駄目です! 絶対に駄目です! クライヴ様が生きて、心の底から笑って幸せになるまで、私は何度突き放されても、あなたのそばに一生しがみつきますからね!!」
沈黙。
暴風のように荒れ狂い、部屋を破壊していた瘴気の魔力が、ふっと、嘘のように風圧を失い、鈍った。
クライヴ様の呼吸はまだ荒い。けれど、さっきまでの「命を削るような暴走」から、確かに何かが劇的に変わった気がした。
私は恐る恐る、顔を上げる。
至近距離で、クライヴ様の瞳と真正面からぶつかった。
ああ、やっぱりこの人は最高に綺麗だ、と思った。
こんな命の危機という状況で何を惚けているんだ私、と自分でも呆れる。でも仕方ない。だって本当に、顔が良いのだ。苦痛に歪み、血を流していてさえ、目を逸らせないくらい神々しい。
その瞳が、今は信じられないものを見るように、激しく揺れている。
「……私が」
ひどく掠れた、迷子のような声だった。
「私が、優しい……? この私に、生きていてほしいと……?」
「優しいです! 生きていてほしいに決まっています!」
私はノータイムで即答した。
「すごく! 宇宙一です!」
「……お前は」
彼の喉が、かすかに上下する。
「本当に……救いようのないほど、頭がおかしいな」
「よく言われます! 最大の褒め言葉として受け取ります!」
泣きながら胸を張ってドヤ顔をすると、クライヴ様の眉が呆れたように寄った。
その、次の瞬間だった。
ふっと。
彼の張り詰めていた身体から、すべての強張りが抜けた。
荒れ狂っていた黒い瘴気が、風に溶ける煙みたいに、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。空気の圧力が和らぎ、床を這っていた禍々しい黒い靄も、私の身体から発せられる「淡い光(※無自覚な浄化魔法)」に触れた端から、浄化されるように消え去っていく。
「……え」
私は目を丸くした。
なにこれ。落ち着いた?
そんな簡単に? さっきまで城を吹き飛ばしそうだったのに?
(※注:リアナのオタクとしての特大感情がトリガーとなり、彼女の内に眠る『無自覚チート級の浄化魔法』がフル稼働して呪いを力技でねじ伏せた結果なのだが、本人は一切気づいていない)
クライヴ様はなおも私を見つめたまま、ひどく静かな、深い声で言った。
「……なぜ、そんな言葉を私に言う。なぜ、私のために泣く」
「だって、本当のことですから。推し……あなたに生きてほしいと願うのは当然です」
「私を、恐れないのか。この醜い呪いが、怖くないのか」
「恐れる要素が、旦那様の顔の良さと尊さに完全に押し負けてます」
「……は?」
「いえ、だからその、怖いより先に『尊い!』が来るというか、推しが目の前にいるという圧倒的現実の前に、呪いごときがしゃしゃり出てくるなというか……」
途中で、クライヴ様が完全に理解を放棄したように目をさらに大きく見開いたのを見て、私は慌てて口をつぐむ。
まずい。またオタクの早口で余計なことを言った。
でも、彼はもう怒鳴らなかった。私を突き放そうともしなかった。
むしろ、呆然とした顔で、ただ私の顔を――泣き腫らした私の目を、食い入るように見つめ、しばらく何も言えない様子だった。
その隙に私は、彼の口元にべっとりとついた血を見つけて慌てる。
「血が……! ちょっと待ってください、今すぐ拭く布を」
ポケットのハンカチを取ろうと離れようとした瞬間。
不意に、私の右手首を、強い力で掴まれた。
「……行くな」
低く、切実な、懇願のような掠れた声。
心臓がドクンと跳ねて、止まるかと思った。
「クライヴ様……?」
「そのまま、私のそばにいろ。……離れるな」
ぎゅ、と私の手首を掴む手に力がこもる。絶対に逃がすまいとするような、すがるような、ひどく必死な握り方だった。
私は瞬きを繰り返した。
もしかして、今。
最推しが。
私を、引き留めてる? 離れるなと?
いやいやいや、落ち着け私。深呼吸だ。こういう時に都合よく「私に気があるんじゃ!?」などと勘違いのファンサ判定をすると、後で現実を見た時に痛い目を見る。
今はきっと発作後で精神的に弱っているから、近くに人の気配(体温)が欲しいとか、そういう動物的な本能だ。たぶん。きっと。そうに違いない。
でも。
それでも。
推しに必要とされるのは、オタクとして死ぬほどうれしい。
「……はい」
私はそっと優しく答えて、もう一度、彼の大きな身体を抱きしめた。今度はさっきのような勢いではなく、壊れ物を扱うみたいに、そっと、柔らかく。
クライヴ様の熱い額が、私の肩口にこつんと触れて預けられる。
外ではまだ嵐が激しく暴れているのに、この崩壊した部屋の中心、私と彼の間だけは、まるで別世界みたいに暖かく、静かだった。
どれくらいそうしていただろう。
やがて廊下の向こうから、複数の慌ただしい足音が近づいてきた。使用人たちだ。魔力の暴走が収まったのを感じて、グレアムの指示で様子を見に来たのだろう。
けれど、半開きの扉の前まで来たところで、彼らは一様に息を呑み、ぴたりと止まった。中の光景を見たのだ。
血を吐いて暴走していたはずの恐ろしい主が、妙な花嫁候補の令嬢に床で抱きしめられたまま、まるで親鳥に甘える雛のように、信じられないほど静かに、大人しくしている姿を。
「……グレアムさん」
かすかに震えた声で、メイドの一人が囁いた。
「旦那様の発作が……あんなに酷かった瘴気が、完全に消えて……」
「……静かに」
グレアムの、驚愕を押し殺した低い制止だけが聞こえた。
私は顔を上げ、そちらを見る余裕もなかった。
だって今、私の腕の中には、ようやく全身の力を抜いて、私に体重を預けてくれたクライヴ様がいるのだ。
黒い痣に侵された右腕が、そっと私の背中に回り、抱きしめ返してきた。
「……っ」
ひゅ、と私の息が詰まる。
その抱擁は弱々しい。けれど、決して離さないという確かな意思があった。
推しに、抱きしめ返された。
情報量が多すぎる。脳の処理限界を突破している。
大混乱してフリーズする私の耳元で、クライヴ様は、ほとんど熱い吐息みたいな、甘く掠れた声を落とした。
「……お前は、本当に……ずるい女だ」
何がずるいのか、まったくわからない。
でもその声が、あまりにも苦しくて、あまりにも切なくて、そしてどこか「降伏」を宣言するような響きを含んでいて、私の胸がぎゅっと締め付けられた。
私は返事の代わりに、彼の広い背中を優しく、一定のリズムで撫でた。
「大丈夫です」
呪いが解けた根拠なんてない。
でも、言いたかった。
「もう、あなたは一人じゃないですから。私が、ずっといます」
その言葉に、私の背中を抱くクライヴ様の指先が、わずかに、しかし強く震えたのを、私は確かに感じた。
嵐が去ったのは、深夜もだいぶ更けてからだった。
雨音が遠のき、風の唸りが消え、雲の切れ間から細い月明かりが差し込む頃には、クライヴ様の呼吸もすっかり平穏を取り戻していた。
慌てて駆けつけた医師の診察を受けた後、彼は寝室へ運ばれることになったのだが、彼は意識が混濁しているにもかかわらず、最後まで私の手を強く握って離そうとしなかった。
おかげで、医師とグレアムがものすごく気まずそうな顔をしながら、私ごとベッドの脇に運ぶ羽目になった。
私はというと、完全に放心していた。
自室に戻ってからも、何が起きたのか頭が追いつかない。
推しが苦しんでた。
瘴気の中に飛び込んだ。
抱きついた。
限界オタクの特大感情を叫んだ。
抱きしめ返された。
手を握られて離してもらえなかった。
「……夢じゃないよね?」
ベッドに座って、自分の頬を両手で思いきりつねる。
「いっだぁ!」
痛い。夢じゃない。現実だ。
私はそのままベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めて両手で頭を抱えた。
「うわああああああ……っ!!」
大声で叫びたいのを、必死で枕に押し付けて堪える。
足をバタバタとシーツに叩きつける。
いやでも、待て私。勘違いするな。今のはたぶん、命の危機的な状況だったからであって、恋愛とか溺愛とかそういうのじゃなくて、単なる緊急時の吊り橋効果というか、弱ってる時に誰かが優しくしてくれたから縋っただけというか――
そこまで考えて、ぶんぶんと激しく首を振る。
違う。
今はそこじゃない。私のファンサ判定なんてどうでもいい。
一番大事なのは、クライヴ様が無事だったこと。
そして、あの彼を十年間苦しめていた荒れ狂う呪いが、私が抱きしめて言葉をかけただけで、嘘みたいに鎮まったことだ。
「……なんでだろう」
自分の胸に手を当てる。
私に特別な魔法の才能なんてないはずだ。ゲームのモブだし。
わからない。
でも、もし本当に、私に何か彼を救う力があるなら。私の想いが、このどうしようもなく重い呪いに、少しでも抗えるのなら。
「絶対に、私が助ける」
今度は、もっとはっきりと口に出して誓った。
ただの「推し活」の枠には、もう収まらない。
私はこの人に、生きていてほしい。幸せになってほしい。
その強い願いが、夜の静かな部屋に落ちる。
――そして同じ夜。
寝室のベッドで静かに目を閉じていたクライヴは、まぶたの裏に焼きついたリアナの顔を、何度も何度も反芻していた。
致死量の黒い瘴気の中へ、己の命の危険も顧みず躊躇なく飛び込んできた、あの無茶で馬鹿な姿。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、「あなたは私の光だ」と叫んだ、真っ直ぐすぎる声。
化け物でも呪われても関係ないと、私を力いっぱい抱きしめてきた、細い腕の温もり。
胸の奥が、まだおかしい。
呪いの痛みとは違う、甘く、ひどく焦げつくような熱が、静かに、しかし確実に広がっている。
「……リアナ」
誰にも聞こえないくらい小さく、甘く、その名を呼ぶ。
十年間、誰にも触れられず凍りついたままだった彼の心の奥底で。
強固な氷の壁が音を立てて砕け散り、彼女に対する「決して手放したくない」という重く暗い執着の種が、決定的に芽吹いた瞬間だった。




