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第4話 不器用な歩み寄り(※すれ違い)

 辺境の「絶望の城」での生活にも、少しずつ慣れてきた頃だった。


 朝起きて、重いカーテンを引き、窓を開けて辺境特有の冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。

 動きやすい綿のドレスに着替えて軽く身支度を整えたら、朝食の前に自室周辺の廊下や階段を《ウォッシュ》と《ドライ》の生活魔法でピカピカに磨き上げる。

 そのあと一階の食堂で、温かくて具だくさんのスープをいただき、厨房の料理長やメイドたちと明るく挨拶を交わし、本日の「推し活(清掃&観察)計画」を緻密に立てる。


 実に、充実している。


 王都の男爵家にいた頃は、朝から夜まで「魔力も弱く取り柄もない、使えない娘」として両親から冷遇され、肩身の狭い思いをしていたというのに、今の私はまるで違う。


 ここには最推しがいる。

 推しの暮らす城がある。

 推しの生活環境を改善し、その絶対的な健康と幸せを守るという、明確で尊い使命まである。


「人生って、本当にどこで好転するかわからないものね……。生贄の令嬢、最高じゃないですか」


 私は廊下の窓枠を丁寧に布で磨きながら、しみじみと深い実感を持って呟いた。

 すると後ろから、呆れ半分、諦め半分といった深いため息混じりの声が飛んでくる。


「……好転の定義というものを、一度ご自分の部屋で落ち着いて考え直されたほうがよろしいかと存じます」


 この城の執事、グレアムだった。


「おはようございます、グレアムさん!」

「おはようございます、リアナ様。……また、朝からお掃除を?」

「はい。本日は東棟の窓辺と、手すりの装飾の隙間を重点的に攻めようかと」

「もはや聞くまでもありませんでしたね」


 この数日で、彼もだいぶ私の特殊な生態に慣れてきたらしい。最初のように、令嬢が雑巾掛けをしているのを見ていちいち腰を抜かさんばかりに驚愕することはなくなった。

 ただし、理解はされていない。


 まあ、それは仕方ない。私だって、前世の記憶とオタクとしての情熱がなければ「生贄の花嫁候補として送られてきた小娘が、なぜか毎朝嬉々として城の掃除をしつつ、恐ろしい辺境伯を物陰から神のように崇めている」というホラーな状況を理解できる気がしない。


「ところで、グレアムさん。旦那様は?」


 あくまで世間話の延長のような、さりげない風を完璧に装って尋ねたつもりだったが、グレアムの目がすっと細くなる。


「リアナ様。さりげないつもりなのでしょうが、せめてもう少し欲望を隠す努力をなさってください。目が血走っております」

「してます! 完璧な淑女の笑みです!」

「そうは見えません」


 食い気味に即答された。解せぬ。


 しかしグレアムは「はあ」と小さくため息をつくと、「今朝は中庭の訓練場のほうへ向かわれました」と、あっさりと教えてくれた。


 訓練場。

 推しの、朝の鍛錬風景。

 ……つまり、汗を流すクライヴ様の、躍動する肉体美が見られるということ!?


「ありがとうございます! グレアムさんは神です!」


 私は反射的に雑巾を握りしめたまま深々と頭を下げた。


「……神などではありません。やはり教えないほうがよかったかもしれませんね。あまり旦那様の邪魔はなさらないでくださいよ」


 そんな釘を刺す声が背中にかかったが、もう遅い。

 私はお掃除道具一式を抱えたまま、内心で盛大な阿波踊りを踊りながら、早足で中庭へと向かった。


 中庭は、城の中央に位置する広大な石造りの広場だった。

 美しい花が植えられた観賞用の庭園というよりは、完全に実用本位の空間で、端には石組みの井戸があり、片側には無数の傷が刻まれた木剣や、ボロボロになった訓練用の藁人形が並んでいる。


 朝の冷たく張り詰めた空気の中、その広場の中央に、一人の男が立っていた。


 クライヴ様だ。


「……っ」


 私は反射的に、回廊の太い石柱の陰に身を隠した。

 息を潜め、柱の端からそっと覗き込む。


 危ない。

 これは、危なすぎる。


 朝日に照らされたクライヴ様は、昨日までの執務室で見せた静かな凄みとはまた違った、圧倒的な雄々しさを帯びていた。

 かっちりとした黒い上着の代わりに、少し胸元の開いた、動きやすい簡素な黒の訓練着。生地越しでも、肩から腕にかけての逞しい筋肉のラインがよくわかる。服を着ていると細身に見えていた体躯が、実際には無駄な肉が一切なく、極限まで鍛え抜かれた戦士のそれであることが一目で知れた。


 片手で長剣を構えるその姿勢は、美しいの一言に尽きる。

 一分の隙もない。研ぎ澄まされた名剣そのものみたいだ。


 次の瞬間、剣閃が空を鋭く切った。


 ひゅんっ、と空気を裂く風鳴りが遅れて耳に届く。踏み込みはまったく重さを感じさせないのに、石畳の上でまるで影が滑るように速い。

 剣を振るうたびに、彼の身体から立ち昇る黒い瘴気が微かに尾を引き、その動きに人外じみた禍々しい迫力とエフェクトを添えていた。


 すごい。

 すごいすごいすごい。


 ゲーム内では「王国最強の剣技」とか「一人で一個師団に匹敵する戦闘力」とか、テキストのステータス画面でしか語られなかった部分が、今、目の前で圧倒的な現実として動いている。


 私は持っていた布を握りしめ、瞬きすら忘れて完全に見入ってしまった。


「はあ……」


 だめだ、熱い感嘆のため息が漏れる。

 朝から公式の供給が強すぎる。筋肉の動き、剣の軌道、額に光る汗。すべてが国宝級だ。


 その時だった。

 流れるようなクライヴ様の動きが、ぴたりと不自然に止まった。


 剣の切っ先が石畳を向いたまま、彼がゆっくりと、私の隠れている柱の方へ顔を向ける。


 ――しまった。

 殺気は出していないはずなのに、オタク特有の「限界突破した熱視線」に気づかれた!


「……そこにいるのは誰だ」


 地を這うような低い声に、私はびくりと肩を震わせた。


 でもここで逃げたら本当に怪しい暗殺者だ。いや、すでにだいぶ怪しいストーカーもどきではあるけれど、まだ「偶然通りかかった掃除婦」として挽回は可能だと信じたい。


 私は意を決して、そろそろと柱の陰から姿を現した。


「お、おはようございます……旦那様」

「……お前か」


 私の姿を認めた瞬間、クライヴ様はあからさまに深く眉をひそめ、嫌そうに顔をしかめた。

 ……その「鬱陶しい小動物を見るような反応」すらご褒美だ、と思ってしまうあたり、我ながらオタクの業は深いと思う。


「こんな朝早くから、何をしている」

「お掃除です!」

「なぜ訓練場に掃除道具を持って来る。ここは土と石しかないぞ」

「ついでにお姿を拝……じゃなくて! 柱の影や窓の桟に、砂埃がたまっていたので!」


 危なかった。

 今、完全に「お姿を拝みに来ました」と正直に吐露しかけた。


 クライヴ様はひどく訝しげな目で私を見る。嘘を見抜かれている気がして背中に冷や汗が出たが、幸いそれ以上は追及されなかった。


「……邪魔はするな。好きにしろ」

「はいっ!」


 許可が出た。

 やった。「視界の端にいてもいい」というお墨付きだ。


 私は内心で盛大にガッツポーズをしたものの、さすがに近づきすぎるのはよくない。適度なソーシャルディスタンスを保って、訓練場の端にある回廊の窓や石壁を布で磨き始める。


 ざっ、ざっ、と布を動かすフリをしながら、私はちらちらと(体感では3秒に1回くらい)熱い視線を送った。


 再び剣を振り始めるクライヴ様。

 風に揺れる額の黒髪。

 体重移動のたびに引き締まる背中の筋肉。

 時折、鋭く息を吐き出す喉元の艶やかな動き。


 無理。

 生きているだけで作画コストが高すぎる。


 しかも、激しい鍛錬を続けるうちに、訓練着の袖口が少しずつずれ上がり、彼の右腕が露わになっていく。

 その腕を見た瞬間。私は、息を呑んで布を動かす手を止めた。


 ――黒い、痣。


 手の甲から前腕、そして肘の奥へ向かって、まるで焼け焦げた茨の蔦が肌の下を這い回るように、禍々しい紋様がびっしりと浮かび上がっていたのだ。


 これが、彼を蝕む邪竜の呪い。


 ゲームの画面で見たことはある。「呪われた辺境伯」という設定の、象徴的なデザインだった。

 でも、二次元のイラストで見るのと、実際に生身の彼に刻み込まれているのを目の前で見るのとでは、まったく違った。想像していたより、ずっと、ずっと痛々しかった。


 皮膚そのものが黒く侵食され、脈打つたびに痣の周囲が赤く炎症を起こしている。見るだけで肌がひりつくような、凄まじい熱と魔力の暴走を感じる。

 こんな恐ろしいものを、彼は十年間も。


 胸がきゅっと、締め付けられるように縮んだ。


 悲しい。

 理不尽な世界に腹が立つ。

 そして、こんな激痛を抱えながらも、誰にも頼らず、たった一人で国境を守り続けてきたこの人が、どうしようもなく尊くて、泣きたくなった。


 私が無意識に立ち尽くし、ただその腕を見つめていると。

 ふいに、クライヴ様が剣を下ろした。


 その暗い琥珀の視線が、まっすぐこちらへ向く。私の視線が「呪い」に釘付けになっていることに気づいたのだ。


「……見たいなら、近くで見せてやる」

「え?」


 底冷えのする低い声とともに、彼はつかつかと大股でこちらへ歩み寄ってきた。

 あまりの威圧感と迫力に、私は逃げることもできずその場に縫い付けられる。

 クライヴ様は私のすぐ目の前で立ち止まると、隠そうともせず、わざと右腕の袖を肘のさらに上まで荒々しく引き上げた。


 朝の薄い光の下、どくどくと不気味に脈打つ黒い痣が、私の目の前に突きつけられる。


「醜いだろう」


 彼自身のすべてを呪うような、自嘲と憎悪の入り交じった、吐き捨てるような声だった。


「これが、私を蝕む呪いだ。これが、化け物の証だ」


 その言葉に、私ははっと我に返った。


 ああ。

 そうか。


 これはたぶん、私を試しているのだ。


 ほら、怖いだろう。

 気持ち悪いだろう。

 ここで怯えて、泣き叫んで逃げ帰れ、と。

 そうすれば、彼自身がこれ以上傷つく前に、自分から他人を拒絶して孤独に戻ることができるから。


 彼の不器用すぎる防衛本能に気づき、私の胸の奥がずきりと激しく痛んだ。


 ……そんな悲しい言い方、しないでほしい。


 こんなの、醜いわけがない。

 彼を苦しめる「呪い」そのものは、憎くて憎くてたまらない。こんな理不尽な設定、今すぐ私が消し炭にしてやりたいと思う。

 でも、それを抱えて歯を食いしばって生きてきたクライヴ様まで、醜いはずが、化け物のはずがないのだ。


 私はそっと、深く息を吸い込んだ。


「……たしかに、すごく痛そうです」


 私の言葉に、クライヴ様の眉がぴくりと動いた。「やはり怯えたか」というような、諦めの色が瞳に浮かぶ。


 でも、私は目を逸らさなかった。まっすぐに彼の瞳を見つめ返す。


「ずっと、痛かったんですよね」

「…………」

「こんな痛みを抱えて……誰にも頼れず、ずっとお一人で耐えてこられたんですね」


 一瞬。

 クライヴ様の表情が、時が止まったように完全に凍りついた。


 たぶん、彼の長い孤独の人生の中で、まったく予想していなかった反応だったのだろう。恐怖でも、嫌悪でも、気味悪がるでもなく。ただ純粋に、「彼の痛みを案じる」言葉が先に来たのだから。


 けれど、ここでしんみりした同情だけを見せるのも、私のオタクとしての矜持が許さなかった。

 私はもう一度、彼の腕の痣を見た。黒く禍々しい紋様。どこか呪術的で、異質で、不吉で――そして、キャラクターデザインとしては、最高にカッコよくて目を引くのだ。


 緊張の糸が切れたのか、前世のオタク脳が、ぽろっと余計な一言を口から滑らせた。


「でも、なんというか……すごく、その、厨二心をくすぐる素晴らしいデザインというか……」

「……は?」

「いえ、違っ、違わないけど違います!! 忘れてください!」


 しまった。

 しまったしまったしまった。


 私の大馬鹿! なんで今、最高に良い雰囲気だったのに、そんなオタク用語をぶち込むの! 空気読んで私の口!


 だがもう遅い。クライヴ様は「ちゅうに……?」と呟いたまま、完全に硬直している。たぶん生まれて初めて言われたのだろう、「呪いの痣が厨二心をくすぐる」などという狂った感想を。


 終わった。

 今度こそ本格的に頭の湧いた変人令嬢として認定された。


 私は半泣きになりながら、必死で両手を振って取り繕った。


「その、綺麗とか、呪いが素晴らしいとか、そういう不謹慎な意味ではなくてですね! もちろん呪い自体は今すぐ滅びろってくらい許せないんですけど! でも、あなたがそれを抱えて立っているそのお姿が、あまりに……その……」


 尊くて。愛おしくて。


 言いかけて、ぎゅっと口をつぐむ。

 これ以上は、たぶん彼にはまだ重すぎる。


 言葉の代わりに、私はエプロンのポケットから、折り畳んだ真っ白な布を取り出した。掃除用に持ち歩いていたものではない。昨夜、自室で夜なべをして、こっそり銀糸で小さな刺繍を入れておいた「特製ハンカチ」だ。

 辺境伯家の紋章を思い出しながら、不格好だがそれっぽく、銀の狼と蔓草の模様を縁に縫い付けてある。


 私は意を決して、それを彼に差し出した。


「……せめて、これを」

「何だ、それは」

「腕が冷えると、痛みが酷くなると思います。それに……少しでも、痛みが和らげばと思って」


 クライヴ様は動かなかった。

 猜疑心に満ちた黒い瞳が、私の手元のハンカチをじっと見つめている。


 受け取ってもらえないかもしれない。

 当然だ。初対面同然の妙な令嬢から、いきなり差し出された謎の手作りの布なんて、普通は毒や新たな呪いを警戒する。


 でも、私はどうしても渡したかった。

 推しに、私のこの想い(特大感情)を込めた、少しでもあたたかいものを渡したかった。


「……ご不快でしたら、後で燃やして捨てていただいて構いません」


 そう言って、私は彼の返事を待たず、一歩踏み込み、無防備に差し出されたままの彼の右腕にそっとハンカチを巻きつけた。


 びくり、とクライヴ様の広い肩が大きく揺れた。


 触れてしまった。

 直接、推しの肌に。

 呪いのせいで、体温が思っていたよりずっと冷たい。でも、確かに脈打つ、生きた人間の体温だった。


 私は彼が振り払うより早く、できるだけ手早く、優しく布を巻いた。きつくなりすぎないように、もっとも熱を持っている痛む場所をふんわりと包み込むように気をつけながら。


 実は、この世界の「底辺の生活魔法」しか使えない私だが、前世の強い想いとオタク特有の「推しへの祈り」を込めながら刺繍をした結果、この布には私自身も気づいていないレベルの『極大の浄化魔法』が無自覚に付与されていたりする。……のだが、もちろん私自身はそんなチート設定など知る由もない。


「……これで、少しはましになるといいんですが」


 結び目を整え、パッと手を離して顔を上げた瞬間。

 私は、息を止めた。


 クライヴ様が、信じられないものでも見るような目で、呆然と私を見下ろしていたからだ。


 怒ってる?

 呆れてる?

 やっぱり、気安く触れてしまったのは勝手すぎただろうか。


 心臓が破裂しそうにどきどきする。

 だが彼は振り払うこともせず、しばらく何も言わずに、やがて掠れたような声で一言だけ落とした。


「……なぜ」

「え?」

「なぜ、お前は……私に、こんな……」


 続く言葉は、迷子のように震え、最後まで形にならなかった。


 その代わり、彼はふいと顔を背けるようにして、私から大きく一歩距離を取った。


「……もういい。掃除が終わったなら、下がれ」


 声は冷たい。

 でも、昨日までの刃物のような拒絶とは、明らかに何かが違う気がした。


 私は一瞬だけ迷って、それから素直にカーテシーで頭を下げた。


「……はい。失礼いたします」


 これ以上踏み込むのはよくない。

 今は、これでいい。布を受け取って(正確には強引に巻いて)もらえただけで、大進歩だ。


 私は掃除道具を抱え直し、そろそろと訓練場を後にした。


 廊下へ出て、彼から完全に見えなくなる角を曲がったところで。

 私はようやく、肺に溜め込んでいた息を大きく吐き出した。


「うわああああ……っ」


 冷たい石壁にもたれ、ずるずるとへたり込みたくなった。


 やってしまった。

 またやってしまった。


 厨二心をくすぐるって何。もっと他に美しい励ましの言葉があったでしょ私の語彙力!

 でも、ハンカチは巻けた。

 触っちゃった。

 推しの腕に。

 ああもう無理、情報量と感情の処理が追いつかない。


 顔が熱い。彼に触れた手のひらが、火傷したようにじんじんする。


「落ち着いて、私……落ち着いて……深呼吸……」


 ぶつぶつ呟きながら顔を扇いでいると、ちょうどそこへ、銀のトレイを持ったグレアムが通りかかった。


「リアナ様?」

「あ、グレアムさん……」

「どうなさいました、その顔色は。茹でダコのように真っ赤ですが」

「ちょっと推し……じゃなくて、クライヴ様の公式供給が強すぎて、情報過多で脳がショートしまして……」

「はい」

「あと、たぶんまた、すごく変なことを言いました。厨二心とか」

「それはいつものことですので、もう驚きません」


 もはや否定すらされない。

 私はがっくりと肩を落としたが、グレアムはトレイを持ったまま立ち止まり、珍しく少しだけ真剣な、優しい声で言った。


「……旦那様は、怒っておられましたか」

「ううん」


 私はゆっくりと首を振った。


「怒ってるっていうより……すごく、困惑していた気がします。私が勝手に布を巻いたから」


 自分で言いながら、胸の奥がちくりと痛んだ。


 彼を困らせたいわけじゃない。

 ただ、少しでも楽になってほしいだけだ。

 でも、十年間すべてを拒絶してきた今のクライヴ様にとっては、他人の「無条件の好意や優しさ」そのものが、一番扱いに困る猛毒なのかもしれない。


 グレアムは何かを考えるように黙り込み、それから、安堵したようにぽつりと呟いた。


「……そうですか。拒絶されなかったのですね」


 その日の夜。

 私は自室の机に向かい、いつもの「業務記録帳」を開いていた。


『本日の業務記録

・中庭訓練場の窓掃除、途中まで完了。

・クライヴ様の剣技、想像以上に凄まじい。人間国宝級。筋肉の描写が神。

・右腕の呪いの痣を確認。あまりに痛々しくて、この世界の設定に腹が立つ。

・自作のハンカチを無理やり巻いた。捨てられなかった……たぶん。』


 そこまで書いて、ペン先が止まる。

 ふと、昼間のクライヴ様の顔が脳裏に浮かんだ。


 あの、信じられないものを見るような目。

 拒絶でも敵意でもなく、ただひどく戸惑い、揺らいでいた表情。


「……あの人、ほんとに十年間、誰にも甘えられなかったんだな」


 小さく呟く。

 ゲームの設定で、知っていたつもりだった。裏切られて、呪われて、化け物と呼ばれて、孤独だったことも。

 でも、画面越しの知識として知っているのと、目の前でその生々しい傷に触れるのは、まるで違う。


 私はそっと、自分の指先を見た。

 昼間、クライヴ様の冷たい腕に触れたその指先を。


「……絶対に、幸せにするんだから」


 それは推し活というより、もはや私自身の魂をかけた決意表明だった。


 誰にも愛されず、化け物として討伐されて終わるなんて。そんな理不尽な運命、絶対に認めない。

 たとえこの私が、ゲーム本編に名前すら出てこないモブ令嬢で、魔法の才能がなくても。私は私のやり方で、この人のバッドエンドのフラグを全部へし折ってみせる。


 そのためなら、掃除だって、料理だって、刺繍だって、なんだって全力でやってやる。


 私は裁縫箱から、新しいハンカチの生地を取り出した。


 今度は、もう少し厚手で肌当たりのいい極上の綿生地にしよう。

 縫い目があたって痛くないように、糸も一番柔らかいものを選んで。

 刺繍も、もっと丁寧に、私の祈り(愛)を全部込めて。


「……次は、もう少しちゃんとした言葉で、上手に渡せたらいいな」


 そう呟いて、私は夜更けまで、彼を想いながらちくちくと針を動かし続けた。


 ――その頃。

 城の別棟にある、暗い執務室では。


 クライヴが机に向かったまま、珍しく書類を前にして完全に手を止めていた。


 彼の右腕には、白い布が巻かれている。

 銀糸で刺繍された、少し不格好だが丁寧な狼の紋様。

 ありふれた安物のハンカチのはずなのに、彼の肌に触れているそこだけが、妙に心地よい熱を持っているように感じる。


 夜の茶を持って入ってきたグレアムが、そっと声をかけた。


「旦那様。その腕の布は……」

「……捨てるつもりだった」


 クライヴは低く、自分に言い聞かせるように言った。


「あんな小娘の気まぐれなど。私を哀れんでいるだけの、偽善の布など」


 だが。

 続く言葉は短く途切れる。


 彼は布越しに、自分の右腕を静かに見下ろした。

 呪いの痣は相変わらずそこにある。醜く、禍々しく、忌まわしいままだ。


 けれど。

 そこに巻かれた白い布だけが、凍りついた彼の心に沁み込むように、ひどく柔らかく、あたたかかった。


「……馬鹿な娘だ」


 吐き捨てるように呟いた声には、いつものような絶対的な冷たさが欠けていた。

 グレアムは何も言わず、ただ深く一礼して部屋を下がる。


 クライヴは再び書類に視線を戻したが、その左手は無意識のうちに、右腕に巻かれたリアナのハンカチに触れ、大切に撫でていた。


 ……生まれて初めてかもしれない、と彼は思う。

 この忌まわしい呪いを見て、恐怖でも嫌悪でもなく、痛みを案じて泣きそうな顔をされたのは。


 その事実が、彼の胸の奥の、ずっと昔に死んだはずの柔らかい部分を、妙にざわつかせた。


「……なぜ、あんな真っ直ぐな目で、私を見る」


 誰に向けるでもない独り言は、しんと静まり返った執務室の闇に溶けて消えた。


 だがその夜。

 クライヴは、毎晩彼を苦しめていた右腕の呪いの激痛が、嘘のように引いていくのを感じ、深い眠りにつくこととなる。


 ――リアナの込めた『限界オタクの特大感情(極大浄化魔法)』が、彼の呪いを根本から解きほぐし始めていることに、まだ二人とも気づかないままで。

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