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第3話 推し活ライフ、開幕!

 クライヴ様との運命の初対面(という名の顔合わせイベント)から一夜明けた。


 私に客室として割り当てられたのは、城の西塔の上階にある、ひどく静かで見晴らしのいい部屋だった。立派な天蓋つきの大きなベッドに、意匠の凝らされた暖炉。窓辺には繊細な刺繍が入った厚手のカーテンが掛けられ、古いながらも一級品だとわかるアンティークの家具が上品に配置されている。

 道中で御者が「絶望の城」だの「呪いの拠点」だのと恐ろしげに語っていたため、牢屋のような部屋を覚悟して身構えていたけれど、部屋そのものの造りは拍子抜けするほどきちんとした、立派な貴族の客室だった。


 ……きちんと、“している部分だけを見れば”、の話だが。


 私は窓辺に立ち、差し込んできた朝の光を浴びながら、部屋の隅々をじっと見つめた。


 高い天井の四隅。豪奢な燭台の入り組んだ根元。猫脚のサイドテーブルの裏側。そして、分厚いカーテンのひだの奥。


「うん。埃がすごい」


 昨夜は到着したばかりで薄暗かったため気づかなかったけれど、朝の陽光というものは残酷である。薄金色の光の筋に照らされて、空気中をふわりと舞い踊る細かな埃たちが、この部屋の現状を実に雄弁に物語っていた。


 いや、決してこの城の管理を責めているわけじゃない。むしろ当然だ。


 この城は途方もなく広い。対して、人手は絶望的に少ない。

 王都から「呪われた化け物」と忌み嫌われている辺境伯の城だ。普通の人間は瘴気を恐れて逃げ出すし、新しい使用人を雇おうにも誰も寄り付かない。主であるクライヴ様ご自身は、己の身を蝕む呪いの苦痛に耐えながら広大な国境の領地を命がけで守っている。

 こんな過酷な状況下で、巨大な城の隅々まで完璧に掃除が行き届くほうがおかしいのだ。むしろ、私が寝るためのベッドシーツが清潔だったことだけでも、残っている使用人たちの並々ならぬ努力を感じる。


 つまり。


「これは、推しの生活環境を激変させる特大のチャンス……!」


 私は胸の前で、両拳をきゅっと力強く握りしめた。


 厄介払いの生贄として、軟禁同然でこの辺境の城に置かれる?

 結構じゃないか。大歓迎である。

 それはつまり、二十四時間、三百六十五日、推しの生活圏内に合法的に滞在できるということだ。ファンクラブの最上位特典である「バックステージツアー」どころの話ではない。舞台袖に住み込み可能な年間パスポートである。


「よし。今日から本格的に推し活開始よ、リアナ」


 誰にともなくそう高らかに宣言し、私はさっそく部屋の隅に置かれた巨大な旅行用トランクを開いた。

 ぱかり、と重い蓋が上がる。


 中には、うら若き貴族の令嬢なら絶対に、何があっても持ってこないであろう品々が、テトリスのように整然と並んでいた。


 大量の真新しい雑巾。用途別に分けた乾いた布。隙間用の柔らかいブラシ。特注した小型の箒。折りたたみ式の木桶。重曹と酢の瓶。そして推しを遠くから拝むために望遠鏡のレンズを改造して作った、自作の折りたたみ式簡易双眼鏡。


 完璧である。


 自分で見ても、これから愛を育む花嫁道具ではなく、完全武装した凄腕の出張家政婦の持ち物だな、とは思う。だが何の問題もない。

 私の目的は、美しいドレスで着飾って推しの気を引くことではない。尊い推しが少しでも快適に、健康的に暮らせる無菌環境を整え、かつ、可能な限りそのお美しいご尊顔を遠目から拝ませていただくことだ。


 私は動きやすいシンプルな綿のワンピースに着替え、長い髪を頭の上でキッチリとお団子にまとめ上げ、気合いと共に袖をまくって鏡の前に立った。


「本日のクエスト。城内の全体構造と汚れ具合の把握、掃除可能エリアの制圧。そして可能なら、クライヴ様のご尊顔を遠距離から一回以上拝むこと」


 よし。

 限界オタク転生令嬢の、聖戦の始まりである。


 部屋を出て廊下へ出ると、そこには辺境特有のひんやりとした朝の静けさが満ちていた。

 本当に、驚くほど人がいない。しんとした冷たい空気の中、どこか遠くの階下でかすかに薪のはぜる音がするくらいだ。


 とりあえず厨房を目指して挨拶と状況確認をしよう、と思って歩き出したところで、向こうから見覚えのある初老の執事がやってきた。


「おはようございます、リアナ様」

「おはようございます、グレアムさん!」


 私が元気よく挨拶を返すと、グレアムは立ち止まり、私の姿を上から下までゆっくりと見て……完全に言葉を失った。


「……随分と、身軽かつ戦闘的なお召し物でいらっしゃいますね」


 彼の視線は、私の腕まくりされた両腕と、腰に結んだ大きなエプロン、そして小脇にしっかりと抱えられた「お掃除道具一式セット」に釘付けだった。


 まあ、そうだろう。

 朝っぱらから、昨日嫁いできたばかりの男爵令嬢が雑巾と箒を抱えて廊下を闊歩していたら、誰だって二度見するし、なんなら正気を疑う。


「はい。少し城内を見て回ろうかと」

「……お掃除道具を持参で?」

「はい」

「なぜですか」

「そこに、埃があるからです」


 私が一切の迷いなく真顔で答えると、グレアムは深い深い沈黙に陥った。

 そして非常に疲れた顔で、こめかみを指で揉みほぐし始めた。


「……やはり、昨日の『一生お仕えします』という言葉は、私の聞き間違いではなかったのですね……」

「何がです?」

「いえ。もういいでしょう。考えるだけ無駄な気がしてきました」


 諦めの境地に至ったような、悟りを開いた僧侶のような声だった。


「ただ、せめて朝食をお召し上がりになってからになさってください。今、一階の小さな食堂に手配いたしますので」

「ありがとうございます! いただきます!」


 私は素直に頷いた。推し活は体力勝負だ。腹が減っては戦はできぬ。


 案内された一階の食堂で出された朝食は、王都の貴族が食べるような繊細なフルコースではなく、辺境らしい素朴で実用的なものだった。

 香ばしく焼かれた黒パン、根菜と豆がたっぷり入った熱々のスープ、塩気の効いた分厚い燻製肉、そして少し酸味のある白いチーズ。

 見た目は地味だが、一口食べると、素材の味がしっかり生かされていて驚くほど美味しかった。


「おいしい……。すごく丁寧に作られてる」

「お気に召しましたか。厨房の料理長も喜びます」

「料理長さん、いらっしゃるんですね!」

「ええ。彼は先代の頃から古くからここに仕えております。ほかにも何人か、庭師やメイドがどうにか残っておりますよ。皆、旦那様の呪いの瘴気を恐れていないわけではありませんが……それ以上に、旦那様に恩を感じておりますので」


 私は、スープを掬うスプーンを持つ手を止めた。


 そうか。

 この「絶望の城」にも、ちゃんと残って、日々の暮らしを支えている人たちがいるのだ。


 ゲームの中では、クライヴ様は「孤独なラスボス」として描かれ、こういう裏方の人間たちの存在は断片的なテキストでしか見えなかった。でも、ここには実際の暮らしがある。クライヴ様が守り、そしてクライヴ様を慕って残った人たちがいる。


 その事実が、温かいスープと一緒にじわりと胸の奥に沁み込んでいく。


「……やっぱり、クライヴ様はすごいお方です」


 ぽろりと零れた私の本音に、グレアムがわずかに目を瞬かせる。


「普通なら、国中から『化け物』と恐れられて孤立したら、全部投げ出してしまってもおかしくないのに。領地も、お城も、領民たちも……全部ちゃんと見捨てずに、ご自分が呪いで苦しいのに、ずっと守ってきたんですよね」

「……ええ」


 グレアムは静かに、深く頷いた。


「旦那様は、そういうお方です。……誤解されやすいですが、誰よりも責任感が強く、お優しい」


 ほんの少しだけ、老執事の声音が、昨日よりもやわらいだ気がした。


 朝食後、私はメイドさんたちに挨拶を済ませ、正式に城内清掃クエストへと繰り出した。


 まずは自室周辺の廊下から。窓枠に積もった埃をブラシで払い落とし、床を水拭きし、乱れた花瓶の位置をミリ単位で直す。次に西塔の階段。彫刻が施された手すりを磨き上げ、天井の隅のくもの巣を取り除き、踊り場にたまった砂埃を集める。


 もちろん、これだけ広い城の掃除を、すべて手作業でやっていたら一生終わらない。


「生活魔法、《ウォッシュ(洗浄)》」


 小声で唱えると、私の掌の先から淡い水色の光がにじみ出た。ふわりと空中に浮いたソフトボール大の水球が、手元の布にじゅわっと染み込み、拭き掃除にちょうどいい完璧な湿り気を作る。


 続けて、床を拭き終わった場所に向けて指をさす。


「《ドライ(乾燥)》」


 今度はやわらかな熱風が走り、濡れた床板が一瞬にしてカラリと乾いていく。


 この『聖なな』の世界の貴族令嬢には、たいてい何らかの魔力適性がある。ゲームの主人公ヒロインは国を救うほどの強大な光属性魔法が使えるわけだが、モブであるリアナの魔力は、その中でもごくごく平凡、いや底辺の部類だ。

 攻撃魔法も防御魔法もからきしで、使えるのは「少量の水を出す」「ちょっと乾かす」「指先に明かりを灯す」「小さな汚れを落とす」といった、日常生活の補助レベルの生活魔法のみ。


 前世の記憶を取り戻した時は、「モブらしいしょっぱい性能だなあ。これじゃ推しと一緒に戦えないじゃん」と嘆いたけれど、今となってはこの魔法が最高に愛おしい。


 お掃除に、めちゃくちゃ向いているのである。

 この一点だけで、私の中で生活魔法の評価がSSSランクに爆上がりした。


「リ、リアナ様……!? 一体、何をなさっているのですか!?」


 通りかかった若いメイドの女の子が、床に膝をついて布を滑らせている私の姿を見て、悲鳴のような声を上げて呆然と立ち尽くした。


「あ、おはようございます。階段の手すりと床、ちょっと曇っていたので磨いておきました」

「いえ、そうではなく……なぜ、貴族のお嬢様がご自分でそんなことを……!?」

「趣味です!」


 胸を張ってきっぱり答えると、彼女は「しゅみ……?」と呟いたきり、さらに困惑した顔で固まってしまった。


 その後も私は順調に活動範囲を広げていった。

 誰も通らない廊下、埃を被った談話室、空き部屋の扉周り。


 磨けば磨くほど、この城はちゃんと応えてくれた。

 くすんでいた銀縁の燭台が本来の輝きを取り戻し、曇っていた窓ガラスが外の光をまっすぐ通すようになる。汚れていた床板の木目が、深い飴色に浮かび上がる。


 楽しい。

 とてつもなく、楽しい。


 これ全部、推しのお城だ。

 推しが歩く廊下だ。推しが手をかけるかもしれない手すりだ。推しの視界に入るかもしれない窓だ。


「ふふふ……この床をクライヴ様が歩く……間接的にお靴の裏と触れ合っていると言っても過言ではない……」


 尊すぎて、雑巾を絞る手にも自然と力が入る。

 昼前には、城に残っていた数少ない使用人たちの間で「新しく来た生贄のお嬢様が、なぜか目を血走らせながらものすごい勢いで城中を掃除して回っている。もしかして掃除の妖精か何かなのでは」という妙な噂が広まっていた。


 でも私は気にしない。

 むしろ都合が良かった。使用人たちの方から「あそこの部屋も埃がひどくて……」と、誰も近づかない清掃エリアをこっそり教えてもらえるようになったからである。


 そして昼食後。

 いよいよ私は、本日の第二目標を達成するべく、城の東棟――クライヴ様の執務室がある区域へと足を踏み入れた。


 もちろん、堂々と正面から入るわけにはいかない。昨日の初対面で「好きにしろ」とは言われたが、それはたぶん「城内で勝手に生きてろ」という意味であって、「私の仕事中に陰から観察してもよい」という許可ではないはずだ。


 だから慎重に。自然に。あくまで「お掃除の途中で偶然近くを通りかかった」風を装って。


 私は壁際をそろそろとカニ歩きで進み、執務室の少し手前にある、大きな石柱の陰に身を隠した。


 ここだ。

 ここなら、扉が少し開いた時や、人が出入りする一瞬の隙に、中の様子が見えるかもしれない。


 私は息を殺し、エプロンのポケットから持参したメモ帳を取り出した。表紙にはカモフラージュのために小さく「観察……じゃない、業務記録」と書いてある。

 そして、首から下げていた自作の簡易双眼鏡を手に取った。


 よし。準備万端。


 その時だった。


 ぎい、と重い扉が開く音がした。

 私は反射的に柱の陰へさらに身を潜める。胸がどくんと跳ねた。


 中から出てきたのは、書類の束を抱えたグレアムだった。彼が扉を開けたまま廊下に出たその一瞬。

 開かれた扉の奥、執務机に向かって立つ黒い影が見えた。


 クライヴ様だ。


 遠目でもわかる。長い脚、まっすぐな背筋、夜の闇を切り取ったような黒髪の輪郭。窓から差し込む淡い光の中で、書類を見下ろすその横顔は、冷たく研ぎ澄まされていた。


 ひっ……。

 無理。

 今日も顔が良い。致死量の美。


 しかも仕事中の真剣な表情。書類に目を落とす長い睫毛の影。考え込むように片手でこめかみを押さえる仕草。ペンを持つ指の長さ。何もかもが芸術点高すぎる。


 私は震える手で自作双眼鏡を構えた。筒を伸ばし、片目を閉じてそっと覗き込む。


「……っ!」


 見えた。

 見えてしまった。


 睫毛、長っ。

 横顔、彫刻か何か?

 あ、今ちょっとため息ついた。眉間にうっすら皺が寄っているのまで、レンズ越しにはっきり見える。


 あああ、だめ、こんなの心臓に悪い。ただ仕事の書類を読んでいるだけで一枚の絵画になるの何? 存在そのものが公式の描き下ろしスチルなんだけど? 感謝! 圧倒的感謝!


 私は興奮で震える手を押さえつけながら、メモ帳に猛スピードで走り書きした。


『本日のクライヴ様観察記録

・午前の執務中。黒の上着、銀の縁取りの装飾。タイは緩め。最高。

・睫毛が本当に長い。人類の睫毛の長さではない。あれは凶器。

・ペンを持つ指の骨格が美しすぎる。

・眉間の皺、今日も大変尊い。お疲れのご様子なので、温かいお茶を差し入れたい』


「……そこで何をしている」


 不意に、頭の上からひどく冷たい、低い声が落ちてきた。


「ひゃいっ!?」


 カエルのような変な声が出た。

 ばっと顔を上げると、いつの間にかグレアムが、私の隠れている柱の目の前に立ってこちらを見下ろしていた。

 完全に見られていた。


 終わった。

 私の辺境推し活人生、開幕二日目にして早くも終了のお知らせである。


「リアナ様」


 グレアムは、私の手元の双眼鏡と、怪しげなメモ帳を順番に見た。


「その……念のための確認ですが、暗殺の下見ではありませんね?」

「違います!」


 私は全力で首を横に振った。


「ただちょっと、今日もお美しいなと思って、遠くから拝見させていただこうかと……」

「声が大きいです」


 グレアムにひそひそ声でたしなめられた。

 私は慌てて両手で口を押さえる。今の「お美しい」という叫び、執務室に聞こえたかもしれない。いや、あの静けさなら絶対聞こえた。どうしよう。死ぬ。恥ずかしさで瘴気より先に私が死ぬ。


 ところが次の瞬間、執務室の中から、ふいに強い視線を感じた。

 恐る恐る視線を向けると、半分開いた扉の向こうで、クライヴ様がペンを止め、こちらをじっと見ていた。


「…………」

「…………」


 時間が、止まった。


 やばい。

 完全に見つかった。目が合った。

 柱の陰から自作の双眼鏡で熱烈に覗き見る、ヤバすぎる不審者令嬢として、完全に脳内にインプットされた。


 私の脳内で非常警報が鳴り響く。どうする、どう言い訳する。いや無理だ、こんな状況、どんな高等な話術を使っても取り繕えない。


 クライヴ様は無表情のまま、低く呟いた。


「……やはり、どうしようもなく妙な女だな」


 ですよね!!

 昨日いただいたお言葉、本日二度目でございます。ありがとうございます!!


 でも前回と違って、今回は私の奇行のせいなのでぐうの音も出ない。


 するとクライヴ様は、それ以上何も言わず、ひらりと視線を切って再び書類へと目を落とした。激怒して衛兵を呼ぶわけでもなく、まるで「害はなさそうだが意味がわからないので放置する」とでも言いたげな扱いである。


 グレアムが、寿命が十年は縮んだような深いため息をついた。


「……リアナ様。せめて、もう少し自然に振る舞っていただけませんか。旦那様も私も、反応に困ります」

「善処します……」

「本当に?」

「たぶん……努力はします……」


 まったく自信はなかった。

 なにせ、推しが視界に入った瞬間、私の理性は半分くらい蒸発する仕様なのだ。


 結局その日は、これ以上の不審者ムーブは危険だと判断し、執務室付近から一時撤退することになった。

 だが、部屋へ戻る道すがら、私は落ち込むどころか内心で大興奮していた。


 だって。

 仕事中のクライヴ様をあんなに高画質で見られた。

 「妙な女だな」という専用ボイスを二回目もいただいた。

 つまり、少なくともその他大勢のモブとしては処理されず、記憶には残っている。


 大勝利では?


 夕方。私は使用人たちの手伝いを済ませ、一階の広間の暖炉前で一息ついていた。

 一日中城のあちこちを磨き倒したおかげで、身体はほどよく疲労している。でも不思議と、心は羽根が生えたように軽かった。


 そんな私に、朝方会った若いメイドが、遠慮がちに温かいハーブティーを差し出してくれた。


「どうぞ、リアナ様。お疲れでしょう。旦那様の花嫁候補のお嬢様に、こんな下働きのようなことをさせてしまって……本当にすみません」

「ううん、ありがとう! 気にしないで、私が好きでやっていることだから!」


 お礼を言ってカップを受け取ると、メイドは不思議そうな顔をした。


「本当に、変わっていらっしゃるんですね。今まで来られたお嬢様方は、みんな自分の部屋から一歩も出ず、泣いてばかりでしたから……」


 今日何度目かわからない感想だった。


 私は温かいお茶を一口飲み、ふと暖炉の赤く燃える火を見つめた。


 好きでやっている。

 それは本当だ。推し活の一環だ。


 でも、それだけじゃない。

 今日盗み見たクライヴ様のいた執務室は、広くて静かで、どこかひどく冷えていた。整ってはいたけれど、人の温もりが乏しい部屋だった。

 あの人自身みたいに、綺麗で、孤独で、近寄りがたい空間。


 それが、なんだか無性に寂しかったのだ。

 だからせめて、このお城だけでも、少し明るく、少しあたたかくしたい。

 そんな気持ちが、オタクとしての熱狂とは別に、いつの間にか私の胸の奥に芽生えていた。


「……ここを、居心地のいい場所にしたいな」


 ぽつりと呟くと、メイドが目を丸くした。


「お城を、ですか?」

「うん。だって、ここはクライヴ様が帰ってくる、大切なおうちですもの」


 当たり前のように答えると、彼女はしばらく黙って、それから嬉しそうにふっと笑った。


「……そうですね。リアナ様がいらしてから、お城の空気が少し明るくなった気がします」


 その夜。

 自室に戻った私は、清潔になったベッドにダイブして倒れ込みながら、本日の成果を振り返った。


 城内清掃、順調。

 使用人たちとの接触と情報収集、良好。

 推しのお姿拝見、一回以上どころか超高解像度で達成。

 そして「妙な女」評価、さらに強化。


「順調すぎる……」


 天井を見上げ、私はシーツの上でじたばたと足を動かした。


 ああもう、幸せだ。

 最推しが同じ城にいる。同じ屋根の下で働いている。息をしている。しかも明日も会える(見られる)可能性がある。こんな贅沢があっていいのだろうか。


 でも同時に、胸の奥に小さな、けれど確かな決意も灯っていた。


 今はまだ、変な奇行を繰り返す「ただの妙な女」でいい。

 だけど、いつか必ず。


 クライヴ様がこの城で、少しでも心安らげるようにしたい。

 誰からも「化け物」と恐れられるだけじゃなく、ちゃんとあたたかいものに囲まれて、笑って生きていけるようにしたい。


 推し活とは、すなわち公式の供給への感謝と、推しの絶対的な幸せを願う尊い行為である。

 ならば私は、私にできるすべての手段を使って、それを成し遂げるだけだ。


「……よし」


 私はむくりと起き上がり、机に向かった。

 今日の観察記録の続き――もとい、業務記録を書き足すためである。


『追記

・クライヴ様は仕事中も大変お美しい。

・ただし室内の空気がやや冷えるように感じた。次は膝掛けか、温かい飲み物を差し入れる口実を作りたい。

・城全体の快適度向上が急務。

・明日は東棟の窓拭きと、可能なら書庫の整理を狙う。推しの呼吸しやすい空間を作る!』


 万年筆を置き、私は満足げに深く頷いた。


 こうして、モブ令嬢リアナの辺境城・推し活ライフは、極めて順調かつ情熱的に幕を開けたのだった。


 ――なお、その頃。

 当の執務室では。


 グレアムが明日の書類を整理しながら、机に向かう主の横顔をちらりと盗み見ていた。


「旦那様」

「なんだ」

「あの……リアナ様のことですが」


 クライヴはペンを走らせる手を止めず、淡々と、興味なさそうに答える。


「放っておけ。どうせ数日もすれば、辺境の寒さと私の瘴気に耐えきれず逃げ出す」

「しかし……今日、柱の陰から妙な筒のようなもので、熱心に旦那様を見つめておられましたが」

「知っている」

「……よろしいのですか?」


 そこでようやく、クライヴはペンを置き、顔を上げた。

 暗い琥珀の瞳が、今はもう閉じられた重い扉の方を、ちらりと見る。


「あれは」


 短く言いかけて、彼はほんのわずかに、困惑したように眉根を寄せた。

 彼の周囲を漂う黒い瘴気が、主の心の揺れに呼応するようにゆらりと揺れる。


「……何を考えているのか、まったくわからん」


 その声音には、昨日までの「完全な拒絶」とは少し違う、微かな引っかかり――例えるなら、道端で見たこともない珍獣を拾ってしまった時のような戸惑いが混じっていた。


「私を恐れもせず、泣きも喚きもしない。暗殺の殺気もない。ただ、妙に嬉しそうに、きらきらとした目でこちらを見る。……あれは、一体なんなのだ」


 まるで理解できない、と言わんばかりの低い声。

 だがグレアムは、彼に長年仕えてきた経験から知っていた。


 完全に無関心なものに対しては、旦那様は言葉すら発しない。

 「理解できない」と口に出して気にしている時点で、旦那様はすでに、無意識に相手の存在を許容し始めているのだと。


 クライヴは再び書類へ視線を戻し、微かにため息をつきながら、ぼそりと付け加えた。


「……次は、せめて隠れるならもう少し上手くやれと言っておけ。気が散って仕方がない」


 その言葉に、グレアムは危うく吹き出しそうになるのを咳払いでごまかした。


 どうやら、聡明であるはずのこの主は、まだまったく気づいていないらしい。

 すでに自分が少しだけ、あの騒がしくも温かい「妙な令嬢」の存在を、目で追い始めていることに。


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― 新着の感想 ―
双眼鏡なら片目閉じなくてもいいような気がしますが…?
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