第2話 初対面。ラスボスの威圧はマイナスイオン
北の辺境へ向かう旅は、お世辞にも快適とはほど遠かった。
王都を離れて三日。綺麗に舗装されていた街道は徐々に荒れ、馬車はこぶし大の石ころを踏むたびに容赦なく大きく跳ねた。窓の外に広がる景色も、陽光に照らされた豊かな麦畑や賑やかな宿場町から、いつの間にか背の高い灰色の岩山と、光を吸い込むような黒々とした針葉樹の森へと変わっていた。
空は分厚い鉛色の雲に覆われ、陽射しはひどく薄い。吹き付ける風は氷のように冷たく、まるで土地そのものが人間の侵入を拒んでいるかのようだ。
分厚い外套を着込んだ御者は、何度も身震いして肩をすくめながら言った。
「お嬢様、このあたりまで来ると、急に空気が変わるんですよ。辺境伯様の恐ろしい呪いのせいだとか……まあ、ただの噂ですけどね」
「へえ……!」
私は馬車の小さな窓にべったりと張りつき、目をきらきらと輝かせた。
「つまり、この土地全体が推しの存在感で満たされているということ……! まさに聖地巡礼の極みですね!」
「はい? おし? せいち?」
「いえ、なんでもありません! 独り言です!」
危ない危ない。うっかり前世のオタク用語が漏れた。
でも本当に、王都とは空気がまったく違うのだ。冷たくて、張りつめていて、肌をぴりぴりと刺すような特有の気配がある。普通の人なら「不吉だ」とか「息苦しい」とか感じるのだろうし、実際、前世のゲーム内でも『辺境の瘴気は常人の精神を蝕む』という設定があった。
だが、私にとっては違った。
これはきっと、クライヴ様の呪いが発している微弱な瘴気。
前世で、ゲームの画面越しにしか見られなかったあの禍々しくも美しい黒いエフェクト。推しの圧倒的な存在を証明する、いわば公式が用意した極上の環境演出である。
「はあ……すごい……。空気が美味しい……」
窓の隙間から入り込む冷気を胸いっぱいに吸い込み、思わずうっとりとため息が漏れた。
現地の空気、吸ってる。
私、今、推しのテリトリーにいる。
前世の私、見てる? 見てるなら今すぐお墓から起きて盛大なスタンディングオベーションをしてほしい。あなたがいちばん行きたがっていた場所に、今、私がいるよ!
そんな限界オタク丸出しの感動に浸っているうちに、馬車が大きく揺れて、やがてゆっくりと停止した。
「お嬢様、着きました。……『絶望の城』へ」
御者のひどく緊張した、まるで死地へ赴くような声に、私は姿勢を正した。
ついに。
ついに来た。
私は膝の上でぎゅっと両手を握り、はやる心を落ち着かせながら馬車の扉が開かれるのを待った。
ギィ、と音を立てて扉が開き、凍てつくような冷たい風が車内に吹き込んでくる。分厚い綿のドレスの裾を押さえながら外へ降り立った瞬間、私は目の前に広がる光景に息を呑んだ。
「……わあぁ……」
そこにそびえ立っていたのは、巨大な灰色の城だった。
古びてはいるが、決して威厳は失われていない。黒に近い鈍色の石を精巧に積み上げて造られたその城は、どこか無骨で、重々しく、まるで巨大な魔獣が静かに大地にうずくまっているような圧倒的な迫力を放っていた。
いくつもある塔の先端は曇天に鋭く突き刺さり、尖塔の影は長く不気味に伸びている。窓は少なく、城壁は信じられないほど高い。簡単には他者に心を許さない主人の気質を、そのまま建造物にしたかのようだ。
そして何より――。
城の周囲には、うっすらと黒い靄のようなものが漂っていた。
「本物だ……!」
私は感極まって、ふらふらと一歩踏み出した。
黒い瘴気。ゲームの演出じゃない。本当に存在している。風に揺らめくそれは、普通の人から見れば命を脅かす不気味なものに違いないのに、私にはどうしようもなく神々しく、尊いものに見えた。
ああ、これが。
これが、最推しの尊いオーラ……! 触れたい。ビンに詰めて持ち帰りたい。
「お嬢様、どうかお気をつけて。私は……ここで失礼いたします。長居すると呪われそうですので……っ!」
御者は青ざめた顔でそう言い残すと、私が荷物を下ろすや否や、逃げるように馬車を走らせていってしまった。
残された私は、重たいトランクの横で、たぶん最高にだらしない顔で笑っていたと思う。
やがて、城門が重苦しい軋みを上げながらゆっくりと内側へ開いた。
中から現れたのは、初老の男性が一人だけ。パリッとした燕尾服を着こなし、背筋をぴんと伸ばした、いかにも有能そうな老人だ。
「ようこそお越しくださいました、リアナ様。私はこの城で執事を務めております、グレアムと申します」
彼は完璧な礼を取ったものの、その表情にはどこか深く沈んだ色があった。無理もない。きっと彼は、「また一人、哀れで無知な花嫁候補が送られてきた。どうせ数日で泣き叫んで逃げ帰るのだろう」と思っているに違いない。
「長旅、さぞお疲れでしょう。お部屋へご案内し、温かいお茶をご用意いたします。ですがその前に、旦那様が一度お会いになると……」
「今すぐですか!?」
思わず食い気味に、しかもワントーン高い声で返してしまった。
グレアムが一瞬だけ目を丸くし、わずかに後ろへのけぞる。
「あ、いえ、その……かしこまりました。もちろんです。ぜひ今すぐお会いさせてください!」
危ない。危うく「ありがとうございます神様!!」と天を仰いで叫ぶところだった。
私は咳払いをして淑女らしく取り繕いながらも、内心ではお祭り騒ぎだった。
初回接触イベント!
到着即・生クライヴ様!
心の準備? そんなもの、前世から数えれば十年分以上してきたわ!
グレアムに案内されて、私はついに城の中へ足を踏み入れた。
内部は予想通り、いや予想以上に広く、そしてひどく静かだった。人の気配がほとんどしない。本来なら出迎えるべき使用人やメイドの姿が、一人として見当たらないのだ。
床に敷かれた赤い絨毯はところどころ色褪せ、壁に掛けられた豪奢な燭台も半分ほど火が消えている。掃除は最低限されているようだが、窓枠や高い棚の上にはうっすらと埃が積もっているのがわかった。明らかに、決定的に手が足りていない。
……うん、わかる。
王都の人間が恐れて寄り付かないこの城は、慢性的な人手不足なのだ。
なんてことだ。私の大切な推しが、こんな埃っぽい環境で生活しているなんて。ハウスダストアレルギーになったらどうする気だ。
私の中の「生活改善・推し活オタク魂」が、めきめきと音を立てて燃え上がった。トランクに雑巾と重曹を大量に詰め込んできた過去の私を褒め称えたい。待っていてくださいクライヴ様、明日からこの城の床という床を私がピカピカに磨き上げてみせますから!
だが、今は掃除計画を練っている場合ではない。
長い廊下を進み、とりわけ重厚な黒檀の扉の前でグレアムが立ち止まった。
「旦那様、リアナ様をお連れいたしました」
グレアムの声が響いた後、低く、重い沈黙が落ちた。
やがて内側から、鼓膜を震わせるような冷えた声音が返ってきた。
「……入れ」
ぞくり、と背中が甘く震えた。
声だけでわかる。低くて、深くて、腹の底に響くような声。ゲームで何度もイヤホンから流し、脳内で無限再生していた音声イメージの、優に百倍は良い。まるで夜の深い森に落ちる、静かで威厳のある低音そのものだ。
生ボイス。
やばい。
低音ASMRがすぎる。耳が幸せで溶けそう。
「失礼いたします」
グレアムが重い扉をゆっくりと開けた。
私は一つ深呼吸をしてから、一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
その瞬間、空気が劇的に変わった。
ひやり、と肌を鋭く撫でる冷気。空間そのものを歪ませるほどに重く沈んだ魔力。息をするたび、喉の奥に鉄のような匂いが引っかかる。
広い執務室の奥、窓辺に置かれた無骨な執務机のそばに、一人の男が立っていた。
黒髪。
夜の闇を溶かしてそのまま紡いだような、艶のない深い黒。長身で、肩幅が広く、仕立ての良い黒い上着を着ているのに、貴族らしい華美さより先に、研ぎ澄まされた名剣のような鋭さが目につく。
そしてその人の周囲には、城の外よりずっと濃く、重たい黒い瘴気がゆらゆらと立ち昇っていた。
顔が、見えた。
「……っ」
息が止まった。
端正、なんて陳腐な言葉じゃ到底足りない。
神がノミを振るって彫り上げた彫刻のように整った輪郭に、氷のように冷たくも苛烈な美貌。切れ長の瞳は、魔物の血を思わせる赤みを帯びた暗い琥珀色で、誰にも心を許さないと雄弁に語っている。高い鼻梁、薄い唇、そして眉間に深く刻まれた苦悩の皺まで、すべてが隙なく、完璧に美しかった。
ああ、だめだ。
顔が良すぎる。
ゲームの高画質立ち絵より良い。課金で手に入れた限定スチルより良い。公式設定資料集の巻頭を飾ったあの一枚すら軽く超えてきた。何この現実。現実が二次元の作画に圧勝していいの?
私が尊さのあまり言葉を失って立ち尽くしていると、クライヴ様――クライヴ・エヴァンズ辺境伯は、その琥珀色の瞳でこちらをまっすぐに見据えた。
その視線が交差しただけで、心臓が大きく跳ね上がる。
「……また、哀れな生贄が送り込まれてきたか」
低く、どこまでも冷たい声だった。
「中央の連中も飽きないな。私に怯えて泣きわめく無知な小娘を寄越して、一体何を期待しているのか」
声が、いい。
めちゃくちゃ怒ってるのに、いい。
むしろ怒って敵意を剥き出しにしているからこそ、たまらなくいい。
私は必死で表情筋を引き締め、奥歯を噛み締めた。このままだと間違いなく頬がだらしなく緩み、ニヤケ面を晒してしまう。
クライヴ様はゆっくりと一歩、こちらへ近づいてきた。
彼が動くたびに黒い瘴気が濃くなり、部屋の空気がミシミシと軋む。普通の人なら恐怖で足が竦み、泣き叫んで逃げ出すだろう圧倒的な圧力。空気が物理的な重さを持ち、肩にのしかかってくるようだ。
「忠告しておく」
鋭い眼差しが、私を射抜く。
「ここに来たことを、後悔させてやる。お前の思い描くような甘い生活など、この城には欠片もないぞ」
ひゅ、と私の喉が鳴った。
だってそんなの。
そんなの――
最高すぎる初回台詞じゃないですか!!
心の中の私が、音速で五体投地した。
圧倒的ラスボス感! 容赦のない威圧感! その奥に見え隠れする、絶妙な悲壮と拒絶のニュアンス! これこれ、これですよ私の求めていたものは! しかも生! 生ですよ! 画面越しじゃないんですよ!?
あまりの尊さと感動に、私の全身がブルブルと小刻みに震え始めた。
しかし、その激しい震えを、クライヴ様は「呪いに対する純粋な怯え」だと解釈したらしい。彼の美しい眉が、わずかに苛立ちを孕んで動いた。
「……今さら怖気づいたか。安心しろ。私からお前の命を奪うような真似はしない。お前が自ら逃げ出すと言うなら、追いはしないし、王都までの馬車も手配してやる」
違うんです。
これは恐怖じゃなくて、歓喜の武者震いです。
最推しを前にして供給過多に陥った限界オタクの、極めて正常な生理反応なんです。
そう大声で言いたかったが、さすがに言えるわけもない。私はぐっと唇を結び、震える指先をスカートの上で強く握りしめた。
ここで下手を打つわけにはいかない。
第一印象は今後の推し活ライフを左右する超重要事項だ。推しに初日から「頭のおかしい不審者」認定されるのだけは絶対に避けたい。
私はすっと背筋を伸ばし、一度深く息を吐いた。
そして、前世の記憶と今世の令嬢教育の成果を総動員して、私の人生で一番美しく、完璧な角度のカーテシー(淑女の礼)を披露した。
「お初にお目にかかります、クライヴ・エヴァンズ辺境伯様」
声が裏返らないよう必死に祈りながら、私は深く頭を下げた。
「リアナ・バーレットと申します」
沈黙。
クライヴ様の刺すような視線が、私の頭上から痛いほど降ってくる。
ここだ。
ここで、何を言うか。
私は顔を上げ、彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、心からの、偽りない本音を叩きつけた。
「本日より、どうか一生お仕えさせてください!」
室内の空気が、文字通り凍りついた。
私の後ろで控えていたグレアムが「ヒュッ」と短く息を呑む気配がした。
……あれ?
おかしいな。
今の、献身性をアピールするかなり好感度の高い発言のつもりだったんだけど。
恐る恐る相手の様子を窺うと、クライヴ様がほんのわずかに、目を丸くして固まっていた。
えっ。
推しが驚いてる。
ポカンとしたその表情も最高に良い。珍しい表情差分ありがとうございます、網膜に焼き付けます。
「……一生?」
やがて、クライヴ様はまるで新種の理解不能な魔物でも見るような目で、私を見下ろした。
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか」
「もちろんです!」
私は力強く、きっぱりと頷いた。
わかっていますとも。
推しの幸せと健康のためなら、私は城の雑巾にも、壁のシミにも、床板の一部にもなる覚悟です。
「辺境は過酷な土地だと存じております。このお城も大変広いですし、先ほど拝見したところ、明らかにお人手も足りていないご様子でした」
「…………」
「私は魔力も弱く、家柄も低い未熟者ではありますが、お掃除からお茶汲みまで、誠心誠意がんばります!」
私の熱のこもった力説に、クライヴ様の眉間の皺がこれ以上ないほど深く刻まれた。
もしかして方向性がずれた?
いやでも、役に立つ実務アピールは大事だよね? ただ「好きです! 尊いです! 顔が良いです! 生きててくれてありがとうございます!」なんて言ったら、さすがに衛兵を呼ばれてつまみ出されるものね?
するとクライヴ様は、深く息を吐き出し、低く吐き捨てるように言った。
「……妙な女だな」
っ、いただきました!
危うくその場でガッツポーズをしそうになるのを、超人的な精神力で堪える。
妙な女認定。
よし、少なくとも「その他大勢のモブ令嬢」からは脱却し、記憶には残った。初対面で推しの脳内に爪痕を残したぞ、私!
しかしクライヴ様の視線は、いっそう警戒を強め、険しいものになっていた。
「私のこの瘴気を見て泣き叫ばないどころか、逃げもせず、あまつさえ仕えると言うか。……王家から何を命じられてきた。私を監視し、隙を見て毒でも盛るよう企んでいるのか」
「企んでいるだなんて、そんな滅相もない」
ありますけど。
あなたを討伐しにくる原作ヒロインたちを出し抜き、あなたのバッドエンドを全力で粉砕するという特大の企みがありますけど。
でも、今は絶対に言えない。
私はできる限り無害で清らかな微笑みを浮かべた。
「私はただ、私にできることをしたいだけです。行き場のない私を受け入れてくださった旦那様に、恩返しがしたいのです」
それは嘘ではなかった。前世からずっと、私に生きる希望をくれた彼への恩返しだ。
クライヴ様はしばらくの間、獲物を値踏みするような鋭い目で私をじっと見つめていたが、やがて何も読み取れなかったのか、ひどく面倒そうに視線を外した。
「……好きにしろ」
「!」
「ただし、無理だと思ったら勝手に逃げればいい。夜逃げしようが構わん。呪いに当てられて泣きつかれても、私は一切面倒を見ないからな」
ひどく冷たい言い方だった。
でも、私は知っている。彼は本当に冷酷なわけじゃない。
呪いのせいで周囲の人間を不幸にしてしまうと信じ込んでいる彼は、誰かを傷つけるくらいなら、自分が先に突き放し、悪役を演じることで遠ざけようとするのだ。
その不器用で、悲しいほどの優しさが、たまらなく愛おしかった。
「はいっ!」
つい、弾んだ声が出てしまった。
クライヴ様がハッとして、訝しげにこちらを振り返る。
いけない、喜びが漏れすぎた。
「……何がそんなに嬉しい」
「えっ」
「普通の娘なら、今の言葉で絶望して泣くか、怯えるかするはずだ。お前はなぜ笑っている」
それはそうだ。突き放されて喜ぶ女は変態かオタクしかいない。
「その……」
なんとか言い訳を探し、私は真顔を作って彼の目を見つめた。
「思っていたより、ずっとお優しい方だと思いました」
言った瞬間、私の後ろでグレアムが「ブフッ!」と盛大にむせた。
クライヴ様も、ぴたりと動きを止める。
あっ、しまった。
早すぎた? まだ好感度ゼロの段階で本質を突きすぎた?
数秒の重たい沈黙の後、クライヴ様は心底信じられないものでも見るような顔をした。
「……私が?」
「はい」
「優しい?」
「はい」
「……お前、馬車から落ちて頭でも打ったのか?」
至極まっとうな反応だった。
私は「あなたの設定資料集の裏話まで全部読んでるからです!」と反論したかったが、ぐっと飲み込んだ。
クライヴ様は深く長いため息をつくと、額を押さえながらグレアムへ顔を向けた。
「グレアム。こいつを部屋へ案内しろ。なるべくここから遠い、私の気配が届かない場所にしてやれ」
「……かしこまりました。ただちに」
グレアムが恭しく頭を下げる。
私は慌てて再びカーテシーを取った。
「本日はお目通りいただき、誠にありがとうございました」
するとクライヴ様は答えず、ただ横顔だけをこちらへ向けた。
その表情は変わらず冷たく、近寄りがたい。けれど、ほんの一瞬だけ、瞳の奥に「理解できないもの」に対する戸惑いと、微かな揺らぎが見えた気がした。
たぶん、気のせいじゃない。
私は胸の奥で、そっと小さなガッツポーズをした。
第一接触、完了。
大成功……かどうかはかなり怪しいけれど、少なくとも即刻追い返されはしなかった。十分だ。上出来だ。
部屋を出る直前、私は最後にもう一度だけ、クライヴ様の姿を脳の記憶領域に焼きつけた。
黒い瘴気を纏い、孤独な執務室に立つ呪われた辺境伯。美しく、痛々しく、近寄りがたくて、でもやっぱりどうしようもなく尊い。
バタン、と重い扉が閉まり、廊下へ出た途端。
私は思わずその場でしゃがみ込み、両手で口元をきつく押さえた。
「お嬢様? いかがなさいました?」
グレアムが怪訝そうに振り返る。
私はふるふると首を振った。だめだ。今しゃべったら絶対に変な奇声が出る。
しかし数歩進んだところで、ついに限界が来た。
「……むり……」
「はい?」
「クライヴ様、顔が……顔が良すぎます……っ」
ぽつりと漏れた切実な本音に、グレアムの足が完全に止まった。
私はそんな彼に構う余裕もなく、熱のこもった頬を押さえながら小さくうめく。
「生ボイスも凄まじい破壊力だったし、眉間の皺すら芸術的に美しかったし、あの容赦ない威圧感がむしろご褒美でしたし……どうしよう、これから毎日あの空間で生きていけるかな。心臓がもたないかもしれない……」
たぶん、物理的には生きていける。
ただし、私の理性が死ぬ。
グレアムは何か言いかけて口を開き、そして静かに閉じて、結局やめたらしい。しばらくして、ひどく慎重な、腫れ物に触るような声でこう言った。
「……リアナ様は、その……大変に『お変わりになった』ご趣味をお持ちなのですね」
「ありがとうございます! 最大の賛辞です!」
「褒めてはおりません」
老執事の冷ややかなツッコミだったが、私はまったく気にしなかった。
だって今、人生でいちばん幸せな瞬間を更新し続けているのだから。
こうして私は、荒れ果てた辺境の城で、最推しとの奇跡の共同生活をスタートさせたのだった。
――なお、この時の私はまだ知らない。
私が「今日のファンサも最高です! ありがとうございます!」と内心で大暴れしているその裏で。
クライヴ様が執務室の中で一人、深く眉根を寄せ、深刻な顔で呟いていたことを。
「……なんだ、あの生き物は」
冷酷無慈悲と恐れられる「呪われた辺境伯」をして、そう困惑させるほどに。
モブ令嬢リアナの推し活ライフは、どうやら初日から少々おかしな方向へ全力疾走していたらしい。




