第15話 推しではなく、ただ一人の男性として
クライヴ様から寝台で「ガチの求愛」をされて一夜明けた翌朝。
私は、見事なまでに挙動不審だった。
まず、起きてから三十分、鏡の前で石像のように固まった。
それから顔を洗い、身支度をしながら「落ち着いて」「普通に」「昨日のことは昨日のこと、今日は今日」「私はただの掃除婦」と、ぶつぶつと百回くらい唱えた。
だが、無理だった。
だって昨夜、ついに彼自身の口から、全部知らされてしまったのだ。
クライヴ様からの、数々の甘やかしも、優しい視線も、王子の前で見せたあの独占欲も、全部“本気”だった。
私が“公式からのファンサ”だの“辺境伯の厚遇”だのと必死に都合よくラベリングして、真っ直ぐに向き合うことから逃げていたものは。
全部、彼という『一人の大人の男性』から向けられた、紛れもない、そして逃げ場のない求愛だったのである。
「無理……。私のキャパを遥かに超えてる……」
鏡の中の私は、朝からもう熱で頬が真っ赤だった。
「今日、どういう顔で彼に会えばいいの……」
答えは出ない。
でも、会わないという選択肢もない。
だってここは彼が主である同じ城だし、私は彼専属のお守り職人(自称)だし、なにより私は――彼に会いたくないわけでは、全然ないのだ。
会いたい。一目でも見たい。
そこがいちばん、私にとって厄介で、致命的だった。
私は朝食の時間を少しずらし、できるだけ使用人や兵士の少ない廊下を選んで移動し、誰も来ない図書室の奥にこもって本棚の影へ身を隠すという、たいへん姑息な逃亡手段に出た。
だが。
「……リアナ様」
「ひゃっ!?」
書架の真横から突然かかった声に、私は読んでいた本を取り落としかけた。
有能すぎる老執事、グレアムだった。
「……そんなに小動物のように驚かれなくとも」
「い、いえ、その、今日はちょっと心臓が常に忙しくてですね」
「左様でございますか」
絶対に、昨夜のすべてを察している顔だった。
私は本を抱え直し、目線を泳がせてごまかすように尋ねる。
「……クライヴ様は……?」
「旦那様でしたら、執務室でございます」
「そ、そうですか……。お仕事、お疲れ様ですね」
思わず、「ここには来ない」という事実にほっとしたのが顔に出たのだろう。グレアムは、ひどく微妙な、胃痛を堪えるような顔になった。
「ちなみにですが、リアナ様。旦那様は、今朝から大変機嫌がよろしくありません。ペンを三本へし折り、書類の束を一つ、魔力の炎で燃やされました」
「……私のせい、ですか?」
「半分ほどは」
「半分なんだ……」
「残り半分は、あなたが旦那様からコソコソと逃げ回っておられるせいです」
ぐさり、と。
正論の槍が心臓に刺さった。
私は図星すぎて何も言えなくなる。
そう、逃げ回っている。自覚はある。
でも、仕方ないではないか。
こっちは昨夜、自分がずっと“推し活”という便利な言葉の盾の後ろに隠れて、自分の本当の気持ちから目を背けていたのだと、痛いほど自覚させられたばかりなのだ。
好きだった。
最初から、たぶんずっと。
ゲームの画面越しに見ていた時から、そして、この城で彼に初めて出会ったあの日から。
でも“推し”という枠組みのままでいれば、現実の恋じゃなくても成立する。
“推し活”という名目なら、自分がどれだけ熱量を注いでも、相手から見返り(愛)が返ってこなくても、傷つかないし苦しくない。
“ゲームのキャラクター”としてなら、どれだけ心を寄せても、自分が『一人の女』として、彼の人生の隣に立つ責任を負う必要はなかった。
――それは、私の着込んでいた『オタクとしての鎧』だったのだ。
自分の平凡さに自信がないからこそ着込んでいた、もっとも頑丈で、もっとも臆病な防具。
彼が私のその鎧を、無理やり、でも優しく引き剥がそうとしてくれているのに。
グレアムは、俯いたまま動かない私を見て、小さく息をついた。
「……旦那様は、今朝から何度も、仕事の手を止めて執務室の廊下をご覧になっています」
「……え?」
「いつものように、あなたが掃除道具を持って、ひょっこりと顔を出してくれるのではないかと、待っておられたのでしょう」
胸が、きゅっと痛んだ。
怖いから逃げたいのに。
その一言だけで、今すぐ彼のもとへ走り出したくなる。
「……少しだけ、お顔を見せて差し上げては?」
グレアムのそれは、執事としての進言ではなく、彼らを十年間見守ってきた家族としての、珍しくやさしい口調だった。
私はしばらく黙り込んでから、ぎゅっと胸元の本を抱きしめる。
「……考えます」
「ぜひ、本気でお考えください。旦那様の不器用さを、一番ご存知なのはリアナ様でしょう」
そう言い残して去っていくグレアムの背中を見送りながら、私はその場に立ち尽くした。
ずるい。
そんなこと言われたら、行かない選択肢がどんどんなくなっていくじゃないか。
結局、どう顔を合わせるか迷っているうちに昼を過ぎ、夕方近くになってしまった。
外は冬の薄曇りで、空気はひんやりと冷たい。
私は意を決して、クライヴ様のいる執務室、ではなく、彼の『私室(寝室)』の前まで来ていた。先ほど執務を終えて、こちらへ戻ったと聞いたからだ。
ノックをする手が、少しだけ震える。
「……失礼します、リアナです」
返事を待って重い扉を開けると、部屋の中はひどく静かだった。
暖炉にはまだ火が入っていない。窓辺に立つクライヴ様の広い背中が、薄青い夕暮れの光の中に静かに沈んでいた。
足音に気づいて振り向いた顔は、相変わらず彫刻のように綺麗で、でも、どこか酷く思い詰めたように疲れて見えた。
「……来たか」
低い声は、いつも通りだった。
けれどその声の奥に、私が来てくれたことに対する、隠しきれない深い安堵が滲んでいるのがわかった。
私は胸の奥がぎゅっとして、うまく彼の目を見られなくなる。
「その……ごめんなさい。朝から、逃げ回ってしまって」
「自分が逃げていたと、認めるのか」
「認めます……」
私が素直に白状すると、クライヴ様はわずかに目を細めた。
怒っているだろうか。
いい年をして逃げ回る私に、呆れているだろうか。
そう思って身構えたのに、彼は私を責めなかった。
「……まあ、いい」
短くそう言って、彼は再び窓の外へ視線を戻す。
その横顔が、昨日までよりもずっと、妙に遠く見えた。
私はおそるおそる、一歩だけ彼に近づいた。
「クライヴ様」
「何だ」
「私に呆れて、怒ってますか」
「少しはな」
やっぱり。
私は肩を落としたが、彼の口から続く言葉に、息を呑んだ。
「だが、怒りよりも……それ以上に」
クライヴ様の喉が、苦しげに小さく上下する。
「……怖かった」
その一言が、私の耳に届き、脳で理解されるまで時間がかかった。
怖かった?
あの、天下の辺境伯が?
私なんかに拒絶されるのが?
私は目を見開く。
クライヴ様はしばらく沈黙していたが、やがて、自分に言い聞かせるようにぽつりと続けた。
「昨夜、余裕をなくして、お前を追い詰めすぎたと思った」
「……」
「お前がこのまま、本当に私を避けるようになり、私のそばからいなくなってしまったら、どうしようかと……今日一日、そればかり考えていた」
私は、何も言えなかった。
目の前にいるのは、王家の軍勢を一瞬の魔力でひれ伏せさせた、王国最強の男だ。
十年間、呪いの激痛にも、周囲の心ない言葉にも、絶対的な孤独にも耐え抜いてきた、強くて、恐ろしくて、どうしようもなくかっこいい人だ。
でも、今ここで私の前で絞り出されている声は、そんな強者のものではない。
自分から手を伸ばすことに慣れていなくて、拒絶されて傷つくのを極端に恐れていて。
踏み込みすぎたかもしれないと、まるで迷子のように不安になっている、一人の不器用な男の震える声だった。
「……お前がいないと」
クライヴ様の手が、窓枠を、ミシリと音がするほど強く握りしめる。
「私は、本当に心が空っぽの、ただの化け物に戻ってしまう気がする」
その悲痛な言葉に。
私の胸の奥で、ずっと私を守っていた『オタクとしての安全な鎧』が、音を立てて砕け散った。
ああ、もうだめだ、と思った。
完全に私の負けだ。
この人は、本当にずるい。
こんな切実な弱音、こんな人間らしい顔、私にだけ見せられたら。
私はずっと“最推し”として、この人を見ていた。
尊くて、綺麗で、ゲームの中の手の届かない存在として。
でも、違う。
違ったのだ。
この人は、設定で動くキャラクターなんかじゃない。
強大なラスボスでも、絶対的な偶像でも、私の脳内で好き勝手に神格化していい、ただの消費コンテンツでもない。
寂しくて。
ひどく不器用で。
傷つきやすくて。
私なんかを失うことを怖がってくれて。
それでも、自分の身を呈して私を守ろうとしてしまう、一人の生身の男性なのだ。
その彼が今ここに生きているという現実が、愛しくてたまらなかった。
「……そんな悲しいこと、言わないでください」
気づけば私は、そう呟いて歩き出していた。
クライヴ様が驚いてゆっくりと振り向く。
私は、もう逃げなかった。
一歩。
また一歩。
彼との距離を、自分の足で近づいていく。
「あなたは、化け物なんかじゃありません」
彼のすぐ目の前まで来て、私はそっと手を伸ばした。
私の小さな指先が、クライヴ様の整った頬に触れる。
少しひんやりしていて、それでも確かに、ドクドクと脈打つ生きた人間の体温だった。
彼がハッとして、息を呑む。
「クライヴ様は、他の誰でもない、クライヴ様です」
私の喉が震える。
でも、今日こそ、ちゃんと私の言葉で言わなくちゃと思った。
「私、ずっと“推し”って言葉に隠れてました。ごめんなさい」
クライヴ様の琥珀色の瞳が、見開かれたまま、静かに私を見つめている。
「そうしていれば、私があなたをどれだけ好きでも、自分は安全だったから。もし私があなたに女として選ばれなくても、ただの“推し活”だって言えば、傷つかずにごまかせたから」
自分で言っていて、少しだけ自嘲するように笑ってしまう。
情けない。モブ根性が染み付いている。
でも、それが包み隠さない本当の私の心だ。
「でも、もう、そんな言い訳は無理です」
彼の頬に触れたまま、私はまっすぐ、その瞳を見返した。
「私のためを想って怒ってくれるあなたを、ただの推しとして、安全な場所から眺めるなんて」
胸の奥から、ずっと蓋をしていた本当の答えが、ようやく溢れ出てくる。
自分が変わってしまうのが、ずっと怖かった。
でも本当は、この城に来て彼の手の温もりを知った日から、とっくに決まっていたのだ。
「私も……」
一度、深く息を吸う。
「私も。……あなたを、ただ一人の男性として、心から愛しています」
言った。
とうとう、言葉にして言ってしまった。
でも不思議と、言葉にして彼に伝えた瞬間のほうが、これまでの何よりもずっと胸にストンとしっくりきた。
推しとしてじゃない。
遠いキャラクターとしてじゃない。
ただ、クライヴという一人の不器用な人を、私は愛している。
クライヴ様の目が、限界まで大きく見開かれる。
完璧に整ったその顔に、これ以上ないほど鮮明な驚愕と、歓喜の色が走った。
「……リアナ」
掠れた、ひどく甘い声で名前を呼ばれる。
次の瞬間、ぐっと強い力で腰を抱き寄せられた。
「きゃっ……」
「今の一言を。……もう一度、言え」
私を抱きしめる彼自身の声が、微かに震えている。
いつも強くて余裕のあるはずのこの大人が、今はまるで、奇跡を信じきれない子供のように必死だった。
私は胸がいっぱいになって、少し笑いながら頷く。
「何度でも言いますよ」
そして、私を抱きしめる彼の厚い胸元に手を置いて、今度はもっとはっきりと、彼の目を見て言った。
「愛しています、クライヴ様。世界中の誰よりも」
その瞬間。
私を抱きしめる彼の腕に、ありったけの、骨が軋むほどの力がこもった。
息が詰まるくらい苦しいのに、全然嫌じゃない。
むしろ、私を絶対に手放さないというその必死さが、うれしくて仕方ない。
「……参ったな」
私の耳元で落ちたため息交じりの声は、ひどく低く、とろけるように甘かった。
「これ以上、私を狂うほど好きにさせて。お前は私をどうするつもりだ」
「えっ」
「ただでさえ、お前への感情を抑えきれず、限界だったのに」
そんな殺し文句を言われたら、今度はこちらの心臓が物理的にもたない。
私が真っ赤になって何か言い返そうとしたけれど、その前に、私の顎をそっと持ち上げられた。
「……口づけてもいいか」
大真面目な顔で、そんな確認をされてしまって、私は一瞬だけ目を丸くする。
昨日までの逃げていた私なら、それだけでまた真っ赤になって固まっていただろう。
でも今は、ちゃんと応えたかった。
「……はい。……旦那様」
小さく、彼を許容するように頷く。
次に触れてきた唇は、あの広場での見せつけるような強引なものより、ずっと、ずっと優しかった。
私の意思を確かめるみたいに、そっと、羽が触れるように重なる。
それから少しずつ、熱を帯びて深くなって。でも決して急かさない。
私が息を詰めて震えるたびに待ってくれる。私がもう彼から逃げないとわかると、今度は甘やかすみたいに、私のすべてを味わい尽くすように、何度も何度も角度を変えて触れてくる。
長い、甘く長いキスだった。
途中で何度か息を継いで、それでもまた熱を求められて、そのたびに私も自然と彼の背中に腕を回して応えていた。
気づけば、さっきまでの戸惑いも恥ずかしさも、彼の熱に溶かされて、ほとんどなくなっていた。
あるのはただ、好きだという気持ちと、この人にずっと触れていたいという私の本能の願いだけ。
……ようやく、惜しむように唇が離れた時には。
私はすっかり膝の力が抜けていて、クライヴ様の腕の中で、荒い息を整えるしかなかった。
「……だ、大丈夫か」
聞いてきた本人の声も、ひどく掠れて、少し乱れている。
私は、あの無敵の彼が私なんかのせいで乱れているということが妙にうれしくて、ふへ、と情けない笑いが漏れた。
「たぶん……」
「たぶん?」
「いっぱいいっぱいで、足に力が入りません……」
正直に答えると、クライヴ様がふっと声を上げて笑った。
その笑みは、以前の冷たい辺境伯からは想像もつかないくらい、年相応の男としての、底抜けに柔らかいものだった。
「私もだ」
「クライヴ様も、ですか?」
「当たり前だろう」
そう言って、彼は愛おしそうに私の額に軽く唇を寄せた。
「ずっと欲しかった、世界で一番好きな女に愛していると正面から言われて。平然としていられる男が、この世にいるものか」
その台詞がまた、破壊力が高すぎて、私は彼の胸に顔を埋めたくなる。
でも、私の逃げる場所はもう、彼の腕の中しかなかった。
それでいい、と思う。
いや。
それがいい。
「……リアナ」
「はい」
「もう二度と、私の前で推しだの偶像だのという、くだらない言葉の後ろに隠れるな」
私は彼の胸から少しだけ身を離し、その顔を見上げた。
「はい。もう隠れません」
「お前がもし、またそうして逃げたくなるような素振りを見せるたび、何度でも思い出させてやる」
「……どうやってですか?」
少しだけ挑発するように聞くと、クライヴ様は意地悪く目を細めた。
「今みたいに。お前が息もできなくなるほどにな」
真っ赤になった私を見て、彼は今度こそ、心からの声で声を出して笑った。
ずるい。
でも、彼がそんな幸せそうな顔を見せてくれるなら、何度でも強引に思い出させられてもいいかもしれない。
窓の外では、夜がゆっくりと降りていた。
辺境の空は暗く、厳しい。
けれど今夜の私は、少しも怖くなかった。
だってもう、はっきりと知っているから。
遠い推しとしてではなく、一人の男性として愛したこの人が。
私のことを、これ以上ないほど重く、深く、同じように愛してくれているのだと。
その確かな、彼自身のぬくもりの中で、私はそっと目を閉じて彼に寄り添った。




