第13話 逃げ帰る王子と、すり寄る実家の末路
王家の「自称・正義の討伐隊」が、逃げるように辺境から引き揚げた日の城内は、妙な静けさに包まれていた。
それは、厳しい戦いが終わった後の安堵とも違う。
巨大な嵐が過ぎたあとに残る、むせ返るような重たい湿気みたいな、落ち着かない沈黙だ。
……いや、私個人の事情を言うなら、そんな城の空気どころではなかった。
「むり……絶対に、むり……」
自室へ逃げ帰った私は、ベッドに突っ伏したまま、両手で顔を覆って芋虫のように転げ回っていた。
無理である。キャパオーバーだ。
だって、ついさっきまであの広場で。
最推しであるクライヴ様に。
数百人の衆人環視の中で。
「愛しい妻」と堂々と宣言されて。
本気のキスを、されたのだ。
しかもあれ、「敵を欺くための勢い」とか「その場しのぎの演技」とか、そういう薄っぺらい感じではまったくなかった。
あとから冷静に振り返れば振り返るほど、クライヴ様のあの低い声音も、私の腰と頭をホールドした腕の力も、唇が離れたあとの獲物を逃がさないような熱い視線も。何もかもが、大人の男としての『本気』だったとしか思えない。
「厚遇じゃなかった……福利厚生でもなかった……」
私は枕に顔を深く埋めて、くぐもった声で呻いた。
「私の見間違いでも、ただのファンサでも、なかった……」
むしろ、最初からずっと、私だけが『推し活』という名の都合のいいフィルターをかけて、盛大に勘違いしていた可能性が極めて高い。
朝食で隣の席に座らされたのも。
高価なサファイアの髪留めを贈られたのも。
夜に私室へ来いと言われたのも。
すれ違うたびに、当然のように腰を抱かれていたのも。
全部、全部、全部!
推しからの、超ド直球の求愛だったのだ!
「……いやでも! モブにはわかるわけないでしょそんなの!」
勢いよく起き上がって、誰もいない部屋で叫んだ。
氷のラスボスとして孤独に死ぬはずだった推しが、呪いが薄れた途端に、矢印のデカすぎる「愛情激重の過保護おじさま」にクラスチェンジするなんて、どこの隠しルート分岐だ。そんなの公式の資料集にも、同人誌の考察にも載ってなかった。
しかも私は、生粋の元・限界オタクである。
推しから向けられる好意は、まず“公式からの供給”か“神対応のファンサ”として脳内で自動処理されるのだ。いきなり自分への『ガチの恋愛感情』へ変換できるほど、私の恋愛脳の経験値は高くない。
でも――。
私は、そっと自分の唇へ指先で触れた。
まだ、あの時の熱と、少し強引だった感触が残っている気がする。
「……本気、なんだよね」
胸が、痛いくらいどくんと鳴る。
それだけでまた顔が沸騰したように熱くなるのだから、どうしようもない。
そこへ、こんこん、と控えめなノックがした。
「リアナ様、グレアムでございます」
「は、はい!」
私は慌ててパンパンと自分の両頬を叩き、背筋を伸ばした。声が裏返らなくてよかった。
扉を開けると、グレアムはいつも通りの完璧な執事の顔で立っていた。ただし、その目元にはほんの少しだけ、胃痛を堪えるような『すべてを察した疲労』が滲んでいる。
「お加減はいかがですか。熱でも出されましたか?」
「たぶん、物理的な熱はないんですけど、精神的なダメージがあまりよくないです……」
「左様でございますか。心中お察しいたします」
「……王子たちは?」
私が気を取り直して問うと、グレアムは静かに答えた。
「先ほど、完全な撤退隊形で国境を越えたとの報告がありました。かなり慌てておられたようで、荷馬車をいくつか置き去りにしていきました」
私は少しだけ、長く息を吐いた。
そうか。
ひとまず、あの馬鹿な一団は帰ったのか。
だが安堵したのも束の間、グレアムは冷ややかな声で続けた。
「ただし、これで終わりではないでしょう」
「……ですよね」
「ええ。あのような特大の恥を辺境の全軍の前でかかされた以上、アラン王子殿下も、それに乗っかっていた王都の派閥も、何らかの『自分たちを正当化する言い訳』を必要とするはずです」
私もそう思う。
今日の一件は、向こうにとって軍事的にも政治的にも完全な大失敗だ。
“可哀想な令嬢の感動的な救出”は、当の被害者(私)の激しい拒絶により不成立。
討伐の大義名分も完全に崩れた。
その上、王子自身がクライヴ様との絶望的な実力差を、嫌というほど思い知らされたのだ。
なのに、プライドだけは高い彼らが、このまま「私たちの勘違いでした、ごめんなさい」で済ませるわけがない。
「王都で、どういう嘘の報告がされるか、ですね」
「はい」
グレアムは深く一礼した。
「ですがご安心を。旦那様もすでに手を打っておられます」
その言葉に、私は顔を上げた。
「手を?」
「ええ。今日の出来事は、王都の密偵と辺境側の公式記録として、一字一句詳細にまとめております。王子殿下が独断で兵を率いて越権的に圧力をかけ、令嬢本人の意思を完全に無視し、あまつさえ無抵抗の令嬢に向けて剣まで抜いたことも、すべて含めて」
「……」
「今頃、国王陛下と宰相の元へ、その事実が届いている頃でしょう。第一王子といえど、無傷では済まないはずです」
なるほど。
私はそこでようやく、少しだけ頭が冷えた。
そうだ、クライヴ様は感情だけで動くただの武力バカじゃない。圧倒的な力を見せつけて怒ったとしても、その怒りを政治的にきちんと相手の急所に突き刺すための、冷酷な手も打てる人なのだ。
頼もしすぎる。私の推し、隙がなさすぎる。
そして、同時に少し気になった。
「……クライヴ様は?」
私がそっと聞くと、グレアムの表情がほんのわずかに意味深になった。
「執務室におられます」
「そうですか」
「先ほどまで、手がつけられないほど非常に機嫌が悪うございました。執務机が一つ、魔力の余波で木端微塵になりました」
「ですよね……」
私のせいだろうか。あんな衆人環視でチューなんてするから。
いや、私に剣を向けた王子のせいか。
いや両方かもしれない。
するとグレアムはひと呼吸置いて、優しく続けた。
「ですが、リアナ様が自室でご無事だと確認されてからは、多少落ち着かれましたよ」
その一言で、胸の奥がまたドクンと熱くなる。
困る。
こういう不意打ちの溺愛情報、本当に困る。
グレアムはそんな私の真っ赤な顔色を見て、さすがに何か察したらしい。だが何も言わずに「コホン」と咳払いだけして、盆の上に載せた別の封書を差し出した。
「それと、リアナ様にこちらを」
「……手紙?」
「ええ。王都へ逃げ帰る途中の馬車から、放たれた早馬が届けたものです。差出人は――」
嫌な予感がした。
封蝋を見るまでもなくわかる。
見慣れた、うんざりするほど安っぽい、バーレット家の紋章。
「実家の、両親からですね」
「はい。中身の検閲はしておりません」
私は無言で受け取り、ペーパーナイフで封を切った。
文面を見た瞬間、呆れを通り越して深いため息が出た。
『愛する自慢の娘、リアナへ。
本日はお前の元気で無事な姿を見られて、父も母もどれほど安堵したかわかりません。
お前を大切にしてくださっている辺境伯様にも、深く深く感謝しております。
ついては、今後は両家のより良い関係のため、また辺境伯家のさらなる発展のため、ぜひ我が男爵家にも、莫大な資金援助とご高配を賜れれば――』
「……うっっっっわ」
心底ドン引きした声が漏れた。
あまりにも、あまりにも露骨すぎる。
さっきまで王子の後ろに隠れて「可哀想な娘を助けて」だのなんだの言っておいて。
現場で私に全部の嘘を暴かれ、クライヴ様の圧倒的な力を見た途端、今度はマッハで手のひらを返して“良い関係”である。
しかも要するに、「お前が愛されてるなら、実家の俺たちに辺境の金と権力を回せ」と言っているのだ。
厚顔無恥にもほどがあった。恥という概念がないのか。
「すごいですね、ここまで鋼のメンタルだと、逆に感心します」
「旦那様も、報告を聞いて同じような感想を漏らしておられました」
「クライヴ様も?」
「ええ。“浅ましくて反吐が出る”と」
私は思わず笑ってしまった。
さすが私の推し、クズに対する評価が的確である。
「お返事はどうします?」
「まだです。旦那様が、まずはリアナ様ご自身の意思を確認してからだと」
「じゃあ、この手紙を持って、今から旦那様のところへ見せに行きます」
そう言ったものの、自室の扉を出たところで、一瞬だけ足がピタッと止まった。
……行くの?
今から?
あの人のいる執務室に?
あんな熱烈なキスをされた、数時間あとに?
心臓が警鐘を鳴らしてうるさい。
でも、ここで逃げてばかりもいられない。王子たちが退いた今、次に向き合うべきは実家の件だ。
それに、どうせ私はこの先もクライヴ様と顔を合わせ、言葉を交わさなければならないのだ。この城にいる限り、避け続けるなんて無理に決まっている。
「よし、私はオタク。鋼のオタク」
私は自分の両頬を軽く叩いて気合いを入れ、東棟の執務室へ向かった。
重い扉の前で深呼吸し、ノックする。
「……入れ」
響くような低い声が返る。
扉を開けると、クライヴ様は新しい机の前に立っていた。黒い上着の袖を少し捲り、いくつかの報告書に鋭い目を通している。
横顔は相変わらず彫刻のように整いすぎているのに、今はさっきまでの戦場での怒りの熱が、まだ少しだけ燻っているようだった。
私が入った瞬間、その視線がすぐこちらへ向く。
「来たか」
「……はい」
たった三文字の低音ボイスで胸が鳴るの、本当にどうにかしてほしい。
クライヴ様は私の様子を一瞥すると、ほんのわずかに眉を寄せた。
「顔が赤い。やはり無理をしたのだろう」
「気のせいです」
「そうは見えん。熱があるなら休め」
「気のせいにしてください!」
即答すると、クライヴ様はしばし黙った。
その沈黙が、私と彼の間の「あのキスの記憶」を意識させてやけに長く感じられて、私は耐えきれず手の中の封書をバッと前に突き出した。
「そ、それよりこれです! 実家の両親から!」
話題転換に、我ながら必死すぎる。
だがクライヴ様は何も言わず手紙を受け取り、さっと目を通した。
そして次の瞬間、ふ、と鼻で笑う。
「なるほど」
その一言だけで、私の実家の命運が完全に尽きたとわかった。
「娘をダシにして、莫大な援助が欲しいらしいです」
「読めばわかる」
「ですよね」
「今日あれだけ軍の前で醜態を晒しておいて、まだ私に寄りかかれると思っているのか。あの男爵は頭に蛆でも湧いているらしい」
低い声音には、明確な、絶対零度の軽蔑が滲んでいた。
私は小さく肩をすくめる。
「たぶん、私が辺境伯家に気に入られてるなら、親の権限で利用できると思ってるんでしょうね」
「気に入られている、だと?」
クライヴ様が、その部分だけを正確に拾い上げた。
しまった、と思ったが遅い。
暗い琥珀の瞳が、じっとこちらを見据えてくる。
私はごまかすように「コホン」と咳払いした。
「その……お守りの職人として、大事にしていただいてる、という意味で」
「それだけではないと言ったはずだ」
さらりと、逃げ道を塞ぐように言われて、私は口をつぐんだ。
そうだった。
この人、もう自分の気持ちを隠す気が1ミリもないのだった。
クライヴ様は手紙を机の上へ放り投げると、私へゆっくりと一歩近づいてきた。
「リアナ」
「は、はい」
「お前は、あの両親と家に、何かしてやりたいか」
私は瞬きをした。
何かしてやりたいか。
報復か、温情による救済か、それとも放置か。そういう意味だろう。
私は少しだけ、考えた。
父と母の顔。王子の後ろで自分たちだけ助かろうと、おろおろしていた情けない姿。
私を使い捨ての道具にしようとした今までの冷たい言葉。そして、今さら安全圏から縋ろうとしてきたこの吐き気のする文面。
「……いいえ」
はっきりと、迷いなく答える。
「1ミリも助けたくないです」
「そうか」
「もちろん、暗殺してほしいとか、殺したいとかそういう野蛮なことじゃないです。でも、私をただのモノとして売っておいて、私のおかげでうまくいきそうなら、今度は寄生して甘い汁を吸おうなんて。そんな都合のいいことは、絶対に許したくないです」
言葉にすると、自分でも驚くほど感情が澄み切っていた。
怒りはある。
けれど、あの家族に対する未練や愛情は、もう欠片もない。
「二度と、私やクライヴ様を政治的に利用できないようにしてほしい、とは思います」
クライヴ様は静かに私の目を見て聞いていた。
そして、私のその残酷な答えを待っていたように、満足げに低く告げる。
「なら、そうしよう」
「……え?」
「男爵家の王都での主な取引先と、隠れた融資元の商会は、すでにすべて洗ってある」
私は固まった。
「早くないですか?」
「遅いくらいだ。お前をぞんざいに扱った家だ、いつ潰そうかとずっと考えていた」
さらりと恐ろしいことを返される。
この人、本当に仕事が早いし、敵に対する容赦がなさすぎる。
「王族の手前、表立って物理的に潰す必要はない。だが、辺境伯家と縁続きになれば得をする、というあいつらの見込みと希望を、完全に根絶やしにすることはできる」
クライヴ様の瞳が、冷たく、残酷に細められる。
「向こうからの援助要請は、当然すべて拒否。加えて、エヴァンズ家と今後も取引を続けたい王都の大手商会には、『あの男爵家と関わる者とは一切の取引を打ち切る』と示唆する。……無理に罪をでっち上げたりはせん。ただ、社交界の誰もが、あの家に手を貸さなくなるだけだ」
ひやり、とするほど鮮やかで、確実な社会的報復だった。
違法でもない。
直接的な暴力でもない。
ただ、辺境伯の持つ圧倒的な経済的信用と影響力で、男爵家の経済的な命脈と人間関係を、真綿で首を絞めるようにじわじわと完全に絶つ。
「……すごい」
思わず感嘆して呟くと、クライヴ様がこちらを見る。
「甘いと思うか」
「いえ全然!」
私はブンブンと首を振った。
「むしろ、完璧です。最高です」
本当にそう思った。
これから先、父と母に涙ながらに縋られても、今の私は一切揺らがない。あの人たちは私を家族としてではなく、使える便利な札としてしか見てこなかった。それならもう、札としての価値もすべて失えばいい。
クライヴ様はわずかに目を細めた。
「なら、決まりだ」
そう言って、机上の手紙を片手でつまみ上げる。
次の瞬間、彼の手袋に包まれた指先に、小さな魔力の炎が灯った。
「あ」
実家からの手紙は、一瞬で燃え上がった。
派手な火ではない。青みを帯びた静かで熱い炎が、紙だけを舐めるように走る。
傲慢な封蝋も、浅ましい文面も、あっという間に黒く縮れて、パラパラと灰になって崩れ落ちる。
その光景を見て、私は妙にすっきりとした、晴れやかな気分になった。
手紙そのものが消えたからだけじゃない。
私を少しだけ縛っていた“実家の家族”というものへの最後の未練まで、一緒に燃えて浄化された気がしたのだ。
「……ありがとうございます、クライヴ様」
自然に、心からの感謝の言葉が出た。
クライヴ様は炎の残滓を見つめたまま、低く答える。
「私に礼を言われることではない。私が気に入らないものを排除しただけだ」
「でも、うれしいです」
「何が」
「私の代わりに、私のために、本気で怒ってくれる人がいるのが」
その私の一言に、クライヴ様の灰を払う指先が、ピタリと止まった。
私は自分で言ってから、その言葉の重さに少し照れくさくなって、視線を床へ逸らした。
「実家にいた時は、そういう味方、一人もいなかったので」
言い終える前に。
ふわりと、目の前の視界が、大きな黒い影に陰る。
顔を上げたら、クライヴ様がすぐ目の前に立っていた。
「……今は、いる」
低く、静かな、祈りのような声。
それだけで、私の胸がきゅううっ、と痛いほど締めつけられる。
「お前を泣かせ、傷つけるものは。それが親だろうが王族だろうが、二度と私の目の前で好きにはさせん。……お前は、私が守る」
まっすぐすぎる、逃げ場のない言葉だった。
私は息を呑んで、その琥珀の瞳を見返した。
嘘も、ためらいも、一切ない。彼の魂からの、本気そのものの目だ。
たまらなくなって、限界を迎えた私の口から、つい笑いが漏れてしまう。
「……愛が、重いですね」
「今さらか」
「今さらです」
言うと、クライヴ様もほんの少しだけ、呆れたように、けれどひどく甘く口元を緩めた。
その柔らかな表情を見た瞬間、私は思った。
馬鹿な王子がどれだけ派手にやらかしても。
クズな実家がどれだけ浅ましく縋ってきても。
結局、私の心に一番深く残るのは、この人のこういう『私にだけ見せてくれる顔』なんだな、と。
その頃、王都では。
逃げ帰るように城へ戻ったアラン王子が、玉座の間で父王の前で、かつてないほどひどい叱責を受けていた。
「独断で近衛の兵を率いて辺境へ赴いただと!?」
玉座の間に響き渡る国王の怒声に、居並ぶ廷臣たちが一斉に青ざめ、息を殺す。
王子は屈辱に震えながらも、必死に反論しようとした。
「し、しかし父上! 辺境伯は呪いに侵された危険な存在で、あのままではいずれ反乱を――」
「危険なのは貴様のその浅はかで軽率な頭だ!!」
国王は、激怒して手元の机を叩き割らんばかりに叩いた。
「辺境伯から届いた正式な報告書は読んだ! 令嬢本人の『残る』という意思を完全に無視し、王命を自分勝手に拡大解釈し、あまつさえ無抵抗の令嬢に向けて剣を抜いたそうだな! 王家の恥さらしめ!」
王子の顔が、絶望に引きつる。
今日の一件は、クライヴ側からの報告だけでなく、王子に同行した騎士たちの口からも、すでに恐怖の噂として漏れ始めていた。
誰もが見たのだ。王子が自分に酔って“救出劇”を演じようとして完璧に失敗し、辺境伯の圧倒的な力量差と理性の前に、手も足も出ず膝をついたという、情けない事実を。
国王にとっても、これ以上ないほど頭が痛い話だったろう。
辺境伯は国境防衛の絶対的な要だ。
そこへ無用なちょっかいをかけ、しかも惨めな失態を晒したとなれば、王家の威信に致命的な傷がつく。
「お前は、しばらく自室で謹慎せよ」
重い、見限るような宣告が落ちる。
「ち、父上……! お待ちを!」
「次はないと思え、愚か者」
玉座の間は完全に凍りついた。
原作ゲームで栄光の「メイン攻略対象」だった第一王子は、この日を境に、一気に王宮での立場を悪くしていく。
今はまだ“謹慎”だが、失望した有能な取り巻きは離れ、発言力は削がれ、やがてこの辺境での大失策は、彼の王位継承権を剥奪する決定打となるのだった。
そして一方。
王都の片隅にあるバーレット男爵家でも、じわじわと真綿で首を絞められるような地獄の幕が上がっていた。
「なぜだ! なぜ王家御用達の商会からの融資の話が、急に止まるんだ!」
「次の絹の取引も白紙だと!? ふざけるな!」
「待て、うちが一体何をしたというのだ!」
屋敷のサロンで、頭を抱えた父の怒鳴り声が響く。
だが、使いに出した手代が、各商会から持ち帰ってくる返答は曖昧で、しかも不気味なほど一致していた。
――諸事情により。
――時期が悪く。
――申し訳ありませんが、当面はお付き合いを見送らせていただきます。
どこも決して、明確な理由を明言しない。
けれどそれが、いちばんの恐怖だった。
王国の最大権力者の一人である『辺境伯家』に喧嘩を売り、あまつさえ不興を買った泥舟のような家に、誰が好き好んで近づきたいと思うだろうか。
母は青ざめて、長椅子に崩れ落ちた。
「どうして……! どうしてこんなことに……! リアナが、あの子がうまく取りなしてくれれば、私たちは安泰だったのに……!」
その見当違いな恨み言を聞いて、父はようやく、自分の犯した罪の大きさを悟る。
もう、手遅れなのだと。
自分たちが『ゴミ』だと見下し、切り捨てたはずの娘は、今や王家すら手出しできない、遥か高みの手の届かない場所にいる。
そして、その娘を使って甘い汁を吸おうとした浅ましい報いが、静かに、しかし確実に、一家の破滅として返ってきているのだと。
その夜、辺境の城では。
私は自室の窓辺に立ち、遠い暗い空を見ていた。
王都の方向は見えない。ただ、夜の色が深く、どこまでも広がっているだけだ。
後ろの扉が開く音と、近づく足音の気配に、振り返らなくても誰かわかる。
「……窓を開けたままでは、冷えるぞ」
低い声とともに、私の肩へ、彼に買ってもらった柔らかな毛織物のショールが掛けられた。
「……ありがとうございます」
振り向くと、部屋着に着替えたクライヴ様が、すぐそばに立っていた。
何も言わないまま、私の肩へ触れた彼の手が、やけに温かくて優しい。
「少しは、すっきりしたか」
「はい」
私は素直に、深く頷いた。
「かなり。胸のつかえが取れました」
「そうか」
その一言だけで充分だった。
もう、あの忌まわしい実家に縛られることはない。
厄介な王子もひとまず退いた。
問題が全部終わったわけではないけれど、少なくとも今日、私はまた一つ、過去のしがらみから身軽になった気がする。
クライヴ様は窓の外の深い森を見やりながら、ぽつりと呟いた。
「……これで、お前の周りの余計なものは少し減ったな」
「余計なもの?」
「お前に群がる、薄汚い連中だ」
私は目を瞬かせる。
「えっと、群がるって」
「あの小僧(王子)も、男爵家もだ」
低い声は静かだが、妙にドス黒い本気だった。
私は思わず苦笑する。
「そんな言い方しなくても」
「事実だろう。私のものに手を出すなど、万死に値する」
「まあ……そうですけど」
否定しづらい。
するとクライヴ様は、ほんの少し目を伏せ、私を腕の中に閉じ込めるように抱き寄せた。
「私はもう、お前を誰にも奪われる気はない」
不意打ちだった。
私は言葉を失う。
この人はたまに、こうやって何の前触れもなく、心臓を真っ直ぐに刺しにくる。
胸の奥が、警鐘を鳴らすようにうるさい。
けれど、彼のこの重すぎる感情が、不思議と嫌じゃない。
もう全然、嫌じゃないのだ。
「……奪われませんよ」
気づけば、私は彼を見上げて、自然とそう答えていた。
クライヴ様が、驚いたようにゆっくりこちらを見る。
私は少しだけ照れて頬を赤くしながらも、ちゃんと、自分の意思で続けた。
「だって私、誰に命令されたわけでもなく、自分の意思で、あなたと一緒にここにいるので」
しばらく、静かな沈黙が落ちた。
やがてクライヴ様は、ひどく満ち足りたような、それでいて何か激しい感情を堪えるような顔で、私の頬にそっと触れた。
「……それだけで、充分だ」
その声の熱と、額に落とされた優しいキスに、私はまた何も言えなくなる。
こうして。
傲慢な王子は逃げ帰り、王都で王位継承の立場を失い始めた。
私を捨てた実家は、辺境伯家に縋る道を完全に断たれ、誰にも助けられず静かに転落していく。
ざまあみろ、と思わないわけじゃない。自業自得だ。
でもそれ以上に、今の私にはもっと大切なことがあった。
この城で。
この人の隣で。
ようやく手に入れた“私の本当の居場所”を、ずっと大事に守りたい。
そう強く願いながら、私はクライヴ様の熱い手のぬくもりを、そっと受け入れたのだった。




