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第12話 ヒロインの困惑と、圧倒的な溺愛の見せつけ

 城門前の広場には、もはや戦場のような異様な静寂が落ちていた。


 ついさっきまで、王家の威光を背負って意気揚々と乗り込んできたはずの精鋭騎士たちは、今や物理的な重力に逆らえず、半ば地面に這いつくばるように膝をつき、必死に息を詰めている。

 立派な軍馬でさえ恐怖に怯えて鼻を鳴らし、誰ひとりとして、身動き一つ取れないでいた。


 広場を満たしているのは、あの禍々しい黒い瘴気ではない。


 冬の夜空のように澄みきった、圧倒的で、純粋な魔力の暴風。

 それが逆に、底知れない化け物じみた強さを感じさせて、どうしようもなく恐ろしかった。


 私は、その絶対的な嵐の中心に立つクライヴ様の広い背中を見つめて、胸の奥がぎゅっと、ちぎれそうなくらい熱くなるのを感じていた。


 ……かっこいい。

 無理。好き。最高。


 いや本当に、今そういう呑気なオタク目線で語っている場面じゃないのはわかってる。

 わかってるけど、私の推しが、作画も強さも限界突破してかっこよすぎるのだから仕方ない。


 クライヴ様は、青ざめて震えるアラン王子の首筋からすっと手を離すと、踵を返し、ゆっくりと私の方へ戻ってきた。

 漆黒の外套の裾が風にひるがえり、その泰然とした一歩一歩に、広場中の、何百人という人間たちの視線が釘付けになる。


 誰も止めない。

 止められない。


 クライヴ様は私の目の前で立ち止まると、ほんの一瞬だけ、私の顔の隅々まで確かめるように、じっと見た。


「……怪我はないか」


 耳元を撫でるような、ひどく低い、甘い声。


 周囲の騎士たちを圧倒していた絶対零度の冷たさとは打って変わって、私へ向けられたその一言だけが、やけに近く、火傷しそうなほど熱かった。


「……はい」


 私は、彼の熱に当てられたように小さく頷く。


「どこも痛くありません。大丈夫です」

「そうか」


 短い返答。

 でもその暗い琥珀の瞳の奥には、まだ消えきらないどす黒い怒りの火がチロチロと揺れていた。


 私が王子に剣を向けられたことを、たぶん彼は、まだまったく許していないのだろう。


 そのとき、広場の向こうから、震えた甲高い声が響いた。


「そ、そんな……ありえない……」


 アリスだった。


 原作ヒロインは、純白の外套の裾を両手で強く握りしめたまま、呆然とクライヴ様を見つめている。彼女の大きな青緑の瞳には、隠しようのない極度の混乱が浮かんでいた。


「辺境伯様の魔力……こんなの、私が王宮で聞いていた話と、全然違う……」


 そりゃそうだろう。


 彼女が王子や宮廷魔術師から聞かされていた“呪われた辺境伯”は、もっと禍々しくて、理性を失い、破壊衝動に駆られた破滅に近いただの『邪悪なモンスター』だったはずだ。

 原作ゲームのクライヴ様は、呪いに完全に心身を蝕まれ、魔力を黒く歪められた末に、ヒロインの“聖なる浄化”の対象サンドバッグになる。


 でも今、目の前にいるクライヴ様は違う。


 呪いはまだ完全には消えていないが、彼は正気だ。

 自分の強大な魔力を完全にコントロールし、誰よりも気高く、理性的で、そして圧倒的に強い。

 もはや、ヒロインの浄化など必要としない、孤高の支配者なのだ。


 アリスの視線が、今度はクライヴ様から、その隣にいる私へ向いた。


「リアナ様……あなた、どうして……」


 その問いは、私を敵として責めるものではなく、純粋な困惑と疑問に満ちていた。


「どうしてそんなふうに、恐ろしい辺境伯様のそばに、平然と立っていられるの……?」


 私は、怯えるアリスを見た。


 この子はたぶん、本当にわからないのだろう。

 可哀想な生贄として売られたモブ令嬢が、なぜ自分から好んで、恐ろしいラスボスの隣に立っているのか。

 どうして瘴気を怯えもせず、むしろ王家に牙を剥いてまで、全力で彼を庇っているのか。


 でも、その説明は、私にとっては息をするくらい簡単だった。


「どうしてって……」


 私は少しだけ首を傾げる。


「私が、旦那様のことを大切に思っているからです」


 ヒッ、とアリスが息を呑んだ。


 アラン王子が屈辱に顔を歪める。

 地べたを這う騎士たちの間にも、信じられないものを見るようなざわめきが走る。


 それでも私は、はっきりと続けた。


「私、このお城で、あなたたちが見ていないものをいっぱい見てきました。クライヴ様がどれだけ身を粉にしてこの過酷な領地を守ってきたかも。誰もいない夜に、どれだけ一人で痛い思いをしてきたかも。全部じゃなくても、少しは知ってます」


 そう、少しは知っている。


 あの致死量の発作の夜も。

 冷たくて広すぎる城の静けさも。

 誰にも頼れず、誰にも甘えられずに耐え抜いてきた、彼の地獄のような十年も。


「だから、遠くの安全な場所から、彼の痛みを何も知らないくせに、勝手に化け物だと決めつけられるの……私、絶対に嫌なんです。許せないんです」


 私がきっぱりと言うと、アリスは言葉を失ったように、ギュッと自分の唇を引き結んだ。


 アラン王子が、苛立たしげに震える足で一歩踏み出す。


「もうよい、アリス! 見ればわかるだろう。この哀れな娘は、完全に化け物の魔力に精神を侵され、惑わされて――」

「殿下」


 アリスが、はっきりと、強めの声で王子の言葉を遮った。


 広場の空気が、ピタッと変わる。


 王子の言葉を遮ったアリス自身も、自分の声に驚いたように目を見開いていたが、それでも彼女は、クライヴ様と私を交互に見たまま言った。


「……リアナ様は、呪いで惑わされているようには見えません。あの瞳は、ご自身の意思です」

「アリス!? 君まで何を言う!」

「だって……」


 アリスの声は震えていた。

 けれど、その震えは辺境伯に対する恐怖だけではなかった。


「辺境伯様は、これほど凄まじい魔力をお持ちです。その気になれば、私たちを全員傷つけて、皆殺しにすることだって、今ここでいくらでもできたはずです。なのに……辺境伯様は、誰の命も奪おうとはなさらなかった」


 それは、紛れもない事実だった。


 クライヴ様の魔力は広場を完全に制圧している。

 彼がその気になって指を一度鳴らせば、王子だろうと何百人の精鋭騎士だろうと、一瞬で圧死させるどころか、塵にできるだろう。


 でも、この人はしない。

 威圧し、警告するだけで、無駄な血は一滴も流さない。


 それが、不器用で優しすぎる『クライヴ様』という人だからだ。


「それに……」


 アリスの視線が、私の腰にしっかりと回されている、クライヴ様の大きな腕へ落ちる。

 そしてまた、私の顔へ。


「リアナ様、辺境伯様のそばにいて、全然怖がっていないし……むしろ、守られているように見えます」

「はい。1ミリも怖がってません」


 私が即答した瞬間、隣のクライヴ様がわずかに呆れたように目を細めた。


 私はそのまま、胸を張ってきっぱり続ける。


「むしろ、いきなり大軍を率いて押しかけてきた王子殿下たちのほうが、よっぽど怖くて野蛮です。相手の言葉を『呪いのせいだ』って、まったく聞く耳を持たないので」


 ぐさり、とクリティカルヒットで刺さったらしい。

 アラン王子の表情が、これ以上ないほど険しく、怒りに染まる。


「貴様……! どこまでも王族をコケにする気か!」


 その瞬間。


 私の腰を抱いていたクライヴ様の腕が、さらにぐっ、と強い力で私を引き寄せた。


「っ」


 不意打ちだった。


 私は思わず小さく息を呑む。身体がぴたりと、隙間なくクライヴ様の厚い胸板に寄せられる。

 背中越しに感じる、異常に高い体温。絶対に逃がさない、誰にも渡さないとでも言うような、檻のような力強さ。


 広場中の何百という視線が、一斉に、密着する私たち二人へ集中した。


 クライヴ様は、王子もヒロインも騎士たちも、もはや路傍の石ころのように一瞥もせず。

 ただ、広場全体に響き渡るような、低く、絶対的な声で言い放った。


「私の、愛しい妻に。……これ以上、無礼な口を利くな」


 ――え?


 私の思考が、完全に停止した。


 広場の時間も、止まった。


「……つ、妻ぁ!?」


 誰かが、素っ頓狂なカエルのような悲鳴を漏らした。

 たぶん馬車の陰の父だ。

 でも今はそれどころではない。


 私の脳内では、その二文字の単語が、大音量で無限反響していた。


 妻?

 今、なんて?

 愛しい?

 誰が?

 私が?

 クライヴ様の?


 無理無理無理無理。

 情報量が爆発している。キャパオーバーだ。


 アラン王子はもちろん、アリスも完全に石像のように固まっていた。騎士たちの間には今度こそ隠しようのない大動揺が走り、実家の父母に至っては泡を吹いて気絶している。


 でも、この広場でいちばん混乱しているのは、間違いなく当事者の私だった。


「ク、クライヴ様……? 今、なんと……?」


 なんとか、首だけ動かして名前を呼ぶのが精いっぱいだった。


 するとクライヴ様は、ゆっくりと顔を下げ、至近距離でこちらを見た。


 その琥珀色の瞳は、恐ろしいほど静かで、そして、火傷しそうなほど甘く熱かった。


「違うか?」

「えっ」

「お前は、私の妻だろう。少なくとも、私の中ではとうにそうだ」


 さらりと。

 とんでもない爆弾発言を、平然と追加で落とされた。


 私の心臓が、今日いちばん、肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ねる。


 ちょっと待って。

 今、これ、どういう状況?

 いや待って、待って。公式からの供給過多で私が死ぬ。


 パニックになった私が、何か口を開こうとした、その時だった。


 クライヴ様の大きな手が、私の顎に優しく触れた。


 ひやりとした、剣ダコのある長い指が、そっと私の顔を強引に上向かせる。


「クライヴ、さ――」


 最後まで、言えなかった。


 私の唇が、彼の唇によって、完全に塞がれたからだ。


「――っ!?」


 私の世界が、物理的に真っ白になった。


 最初に触れたのは、驚くほど優しく、探るような熱だった。

 けれど次の瞬間には、私の逃げ道をすべて断つように、深く、重く、貪るように重なってきて、私は目を見開いたまま完全にフリーズするしかなかった。


 近い。

 近すぎる。

 というか近いどころじゃない、ゼロ距離だ。


 推しが。

 私に。

 本気で、キスしてる。


 しかも、何百人という人間が見ている広場のど真ん中で。

 第一王子も、原作ヒロインも、実家の親も、騎士団も、辺境の兵たちも、全員がガン見しているド真ん前で。


 何この公開処刑!?

 いや違う!

 公開、なんだろう!? わからない! 何!?


 頭の中が真っ白で、酸素が足りなくて、何も考えられない。


 ただ、クライヴ様の片手が私の腰を、もう片方の手が私の後頭部を、絶対に逃がさないようにガッチリとホールドしていることと。

 触れている唇が、思っていた以上に熱くて、ひどく、大人の男として『本気』だったことだけは、私の貧弱な脳でも理解できた。


 圧倒的な、見せつけるためのキスだった。


 でも同時に、彼自身の抑えきれない独占欲が暴走しているような、それだけではないとも思った。


 まるで「こいつは俺のものだ」「誰にも渡さない」と、世界中に刻みつけるような。

 そんな、重くて、深くて、暗い熱があった。


 ……どれくらい、そうしていただろう。


 ようやく、惜しむように唇が離れた時には、私は完全に腰が抜け、息が上がっていた。


「っ、はぁ……っ、ぁ……」


 まともに立っていられない私を、クライヴ様は当然のように、ひょいと抱き支える。


 広場は、文字通り死んだように静かだった。

 誰も、微動だにせず、何も言えない。


 そして次の瞬間。


「な、ななな……なっ……!!」


 アラン王子が、顔を真っ赤、いや紫に熟れさせて、ついに何か叫ぼうとしたが、あまりの衝撃に言葉になっていなかった。


 アリスは両手で口元を激しく押さえたまま凍っている。騎士たちは「見てはいけないものを見た」と全員が一斉に視線を地面に落としているし、父は完全に白目を剥き、母は馬車の床に倒れ伏している。


 広場中が、大・大・大混乱である。


 でもクライヴ様は、そんな周囲の反応など、まるで道端の石ころのように意に介さなかった。


 彼は、真っ赤になって息も絶え絶えな私の耳元へ顔を寄せ、低い声で囁く。


「……これでも、まだ私が『ただの厚遇』をしていると、誤解されるか?」


 鼓膜を震わせる、極上に甘い声だった。


 それが、広場全体に聞こえるような大きさではなく、完全に私一人だけへ向けられた私語なのが、なおさら心臓に悪い。


 私は全身を沸騰させながら、声にならない悲鳴を漏らした。


「ご、誤解とか! そういう問題じゃ……っ!」

「違うのか。お前は鈍いからな。これくらいしなければ伝わらんと思った」

「違うというか、違わないというか! その、今それをここで、こんな衆人環視の中で確認しますか!?」


 半泣きで、彼の胸ぐらを掴んで訴えると。

 クライヴ様は、ほんの少しだけ、意地悪に口元を緩めた。


 笑ってる。

 この人、今ちょっと、私の反応を楽しんで笑ってる。


 その強者の余裕に、私はますます頭がくらくらした。


 やがて、アラン王子が、ようやく血を吐くように絞り出す声で言った。


「……き、貴様ら……神聖な王家の軍の前で、何を破廉恥な……」

「見てわからんのか」


 クライヴ様が、冷たく、虫を見るような目で返す。


「私は、私の愛する妻を守っているだけだ。夫婦の愛情表現の何が破廉恥だ」

「まだ正式な妻では――!」


 思わず突っ込みかけた私の口元を、クライヴ様の人差し指がそっと押さえた。


「細かいことはいい」

「よくないです!」

「私には重要ではない。事実は後から王都に認めさせればいいだけの話だ」


 重要ではないらしい。

 私にはめちゃくちゃ戸籍的に重要なんですが。


 しかし、そんな私の混乱などお構いなしに、クライヴ様は王子たちへ向き直った。


「これで、私が正気であり、この娘も正気であると、嫌でもわかっただろう」


 声は静かだったが、そこに含まれる「これ以上踏み込めば殺す」という絶対的な拒絶は明白だった。


「この娘は、お前たちのくだらない英雄ごっこの物語の駒ではない。……私の、女だ。さっさと王都へ帰れ」


 アラン王子の顔が、極限の屈辱で歪む。


「……っ、全軍、撤収だ!!」


 ついに、王子はそう叫んだ。

 あれだけ大仰に大軍で乗り込んできたくせに、武力でも圧倒され、名分でも完全に敗北し、もはやこの場を収める言葉を完全に失ったのだろう。


 騎士たちが、逃げるように慌ただしく立ち上がる。

 這うように馬へ戻る者、腰を抜かした仲間を支える者、王子の周囲を固めて後退する者。実家の父母も、御者に半ば引きずられるように馬車ごと逃げ去っていく。


 アリスだけが。

 去り際に、一度だけ振り返った。


 彼女の視線は、恐ろしい辺境伯ではなく、その腕の中にいる私に向いていた。


 その青緑の目には、戸惑いと、驚きと、少しだけ――『絶対的に守られ、愛されている私』に対する、羨望にも似た何かが混ざっていた気がした。


 でも、今の私には、ヒロインの心情を考察している余裕など1ミリもない。


 だって。


 王家の一団が完全に森の向こうへ見えなくなるまでの間、クライヴ様の強い腕が、私の腰から一向に離れる気配がないのだ。


「ク、クライヴ様……」

「何だ」

「あの、もう敵は帰りましたし……そろそろ、離していただいても……」

「……嫌か」


 低く、少しだけ不機嫌そうに問われて、私は言葉に詰まった。


 嫌なわけがない。

 むしろ問題はそこではなくて。

 いやそこも大問題なんだけど。


「い、嫌ではないですけど……! 皆さん見てますし!」

「なら、離さない」


 即答だった。

 そのうえ、彼は皆が見ている前で、さらりと私の額へ甘い唇を寄せる。


「ひっ」

「今日は特に、お前から片時も目を離したくない。……お前が一人で無茶をするからだ。罰だと思え」


 その声があまりにも本気で、そして独占欲に満ちていて、私はまた言葉を失った。


 さっきまで戦場みたいな殺伐とした空気だったのに、急に何?

 温度差で風邪を引くどころか、死ぬんだけど。


 私は首まで真っ赤に茹で上がったまま、どうにかクライヴ様を見上げた。


「……あの、旦那様。今のは」

「何だ」

「キ、キス、とか……その、“愛しい妻”とか……」

「ああ」


 クライヴ様は少しも揺るがず、真っ直ぐに私の目を見て頷いた。


「全部、本気だ」


 さらり、と。

 本当に、息をするようにさらりと。

 私のモブ人生を根本から覆すレベルの特大の一言を、落としてきた。


 私はその場で、完全に固まった。


 本気。

 本気。

 推しが、私に、本気……?


 頭の中で、その単語だけがゲシュタルト崩壊を起こして反響する。


 クライヴ様は、極限までフリーズしている私を見て、ほんのわずかに、意地悪に目を細めた。


「今さら、私の気持ちに気づいていなかったとは言わせないぞ。……私はずっと、お前を甘やかしていたつもりだったんだがな」

「い、言わせてください!!」


 私は思わず、悲鳴のように叫んだ。


「だって私、あれはずっと辺境伯としての厚遇だと……ファンサだと……!」

「だから、ふぁんさとは何だ」

「いえ! なんでもないです!」


 意味のわからないオタク用語を無理やり飲み込みながら、私は頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。


 厚遇じゃなかった。

 全然、ただの福利厚生じゃなかった。


 この人、私に対して本気だ。

 しかもたぶん、私が能天気に掃除をしていた、思っていたよりずっとずっと前から。


 そう気づいてしまった瞬間、私の胸の奥で、単なる『推しへの愛』とは違う、もっと甘くて苦しい何かが、大きく、激しく揺れた。


 広場に残っていた辺境の兵士たちが、ニヤニヤしながら気まずそうにそっと視線を逸らしていく。

 グレアムに至っては、もはや「ようやく終わりましたか」と悟りきった顔で、冬の青空を見上げていた。


 私は恥ずかしさで逃げ場を探すようにきょろきょろしたが、当然、どこにも逃げ場はない。


 クライヴ様の、この熱い腕の中こそが。

 いまいちばん、世界で絶対に逃げられない、甘い牢獄なのだから。


「……帰るぞ、リアナ」


 不意に、クライヴ様が優しく言った。


「我々の、城へ」

「は、はい……」


 半ば呆然と頷くと、彼は当然のように、私の腰を抱いたまま歩き出した。


 その横顔は、先ほどまで王子たちを圧倒していた冷酷な辺境伯のものなのに。

 私へ向ける手つきと視線だけが、どうしようもなく、とろけるように甘くて優しい。


 その温度差に、私はますます頭がくらくらした。


 こうして。


 原作ヒロインも王子も完全に困惑し、這うように逃げ帰ったことで、ゲーム最大の山場である『ラスボス討伐イベントの第一幕』は、見事に完全崩壊した。


 そして、私はというと。


 推しに衆人環視の中で本気のキスをされて、

 「愛しい妻」とまで堂々と宣言されて、

 ようやく、ひとつの恐ろしい事実に薄々気づき始めていた。


 ――これ、もう『ただの推し活』では済まないのでは?


 でも、その答えを真正面から直視するには。

 限界オタクである私の心臓には、まだ少しだけ、心の準備期間が足りなかった。

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― 新着の感想 ―
小さな事なのですが、辻褄が合わないというか気になるところが色々あって。 例えば父と母は前ページでも泡を吹いて気絶してましたが、復活して、また泡吹いて気絶して、キスシーンではガン見して、また倒れて。とい…
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