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第10話 討伐隊襲来! 私の推しに何する気ですか?

 その朝の辺境は、嫌なほど静かだった。


 風はほとんどない。雲は薄く、空は妙に高く澄んでいる。辺境特有の肌を刺すような冷気はあるのに、空気だけが不自然に澄みきっていて、まるで巨大な嵐が押し寄せる直前の、不気味な凪みたいだった。


 私は自室の窓辺に立ち、無意識に指先で厚いカーテンの端をいじっていた。


「……嫌な感じ」


 胸の奥がざわざわと波立っている。


 ここ数日、王都に潜ませた密偵から届くきな臭い報告は、増える一方だった。

 第一王子が正式な調査団(という名の軍隊)を編成しただの。

 王都の学園で見出された『聖属性持ちの平民の少女』が、聖女候補として王子に同行するだの。

 私の実家であるバーレット男爵家が、王都の社交界で涙ながらに「化け物に囚われた哀れな娘を案じている」と吹聴して回っているだの。


 全部、私の前世の記憶にある通りの流れだ。


 ゲーム本編ではここから、シナリオが一気に加速する。

 辺境伯クライヴ・エヴァンズを“討つべき巨悪”と定義し、ヒロインと王子が『正義』の名のもとに、この辺境の城へ武力介入してくるのだ。


 でも、今は違う。

 クライヴ様はもう、原作みたいに呪いに完全に呑まれ、理性を失いかけた孤独なラスボスじゃない。私の作った(無自覚チート)お守りのおかげで、呪いは劇的に解け始め、彼の心には確かな光が宿っている。

 そして何より、生贄として送られたはずの私は、怯える被害者どころか、推しの供給過多で毎日ハッピーな限界オタクだ。


 だからこそ、向こうの用意した陳腐なシナリオは、必ずどこかで狂うはずだ。

 狂ってほしい。

 ……いや、私が全力で狂わせてやる。


 そう固く決意した、その時だった。


 ――どんっ。


 遠くから響いた重く低い音が、私の部屋の窓ガラスを微かに震わせた。


 私ははっと顔を上げる。


 遠く。

 分厚い城壁の向こう側。

 地鳴りのような、規則正しい音が、大地を揺らしてかすかに響いてくる。


 馬蹄の音だ。

 しかも、一頭や二頭じゃない。統率の取れた、大軍の行軍音。


「来た……」


 呟いた瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。


 私は反射的に部屋を飛び出した。廊下ではすでに、異変を察知した兵士や使用人たちが慌ただしく動き始めている。城の塔のどこかで低く重い鐘が鳴り、臨戦態勢の配置を知らせていた。


「リアナ様!」


 私がドレスの裾を掴んで階段を駆け下りようとしたところで、下から昇ってきたグレアムが私を見つけて声を上げた。


「旦那様から、リアナ様は決して自室から出ないようにと厳命が――」

「城門ですか!?」

「リアナ様、落ち着いて……」

「どこまで来てるんですか!?」


 私の物凄い剣幕に、いつも冷静なグレアムが一瞬だけ気圧され、それからひどく苦い顔で答えた。


「……王家の剣と百合の紋章を掲げた一団が、すでに正門前の広場まで到達しております」


 やっぱり。

 来た。とうとう来やがった。


 私はぎゅっと両拳を握りしめた。


「クライヴ様は」

「旦那様は、すでに大広間のバルコニーへ」

「ですよね!」


 こんな時に、私だけ安全な部屋で大人しくブルブル震えていられるわけがない。

 そんなの、最前線で推しを応援するオタクの風上にも置けない。


 私は「部屋に戻れ」というグレアムの制止を完全に無視して、中央階段を駆け上がった。城の正面城門を真上から見下ろせる、大広間のバルコニー。

 原作ゲームでも、呪いに呑まれたクライヴ様が、最後に絶望の中で討伐隊を見下ろして立っていた、あの悲劇の場所だ。


 重いガラス扉を押し開けた瞬間、冬の冷たい外気が勢いよく流れ込んできた。


 バルコニーの最前列に、クライヴ様が立っている。


 漆黒の豪奢な外套を冷たい風に翻し、片手を大理石の欄干に置いて、遠く城門前を見下ろしていた。その背中は静かで、揺るぎなく、どんな嵐にも負けない辺境の巨大な岩山そのものみたいに大きくて、頼もしかった。


 私は一瞬だけ、その圧倒的な強者の姿に見惚れた。


 けれど、すぐに視線を彼と同じ下へと落とす。


 城門前の広場には、銀色の鎧で完全武装した騎士たちが、ずらりと整然と並んでいた。王家の白と金の旗が何本も風にひるがえっている。槍。剣。馬。数だけ見れば、ただの「調査団」などという生易しい規模ではない。実戦を想定した、完全な『討伐隊』だ。


 その先頭で、立派な白馬に跨っている金髪の男を見た瞬間。

 私は、ギリッと奥歯を強く噛みしめた。


 第一王子、アラン。


 太陽の光を反射して眩く輝く金髪に、絵に描いたような王子然とした甘い美貌。

 だが、私には騙されない。あの顔に浮かんでいる表情は、私にとってはただただ癇に障る“自分の正義を1ミリも疑っていない、無自覚な傲慢さ”そのものだった。


 そして、その王子の馬のすぐ後ろ。

 純白の外套を羽織り、不安げに王子の背に隠れるようにしている、柔らかな栗色の髪の少女。


 アリス。

 原作ヒロインだ。


 私の胸が、鉛を飲んだように重くなる。


 彼女自身は、たぶん根っから悪い子ではない。ゲーム序盤の彼女は、誰にでも優しい普通の女の子だった。

 でも今はもう、完全に王子の語る“身勝手な正義”の物語に組み込まれ、洗脳されてしまっている。


 さらに、その騎士団の列の最後尾には、見覚えのあるダサい紋章をつけた馬車まで停まっていた。


「……最悪」


 バーレット男爵家。

 私の、血の繋がった実家だ。


 私を「ただ飯食らい」と罵って辺境へ生贄として売り飛ばした父と母も、王子にすり寄って甘い汁を吸うために、本当にノコノコとついて来たのか。


 怒りで頭の中の血が沸騰しそうになり、私は思わずギリッと歯鳴りをさせて一歩前へ出た。

 その気配に気づいた隣のクライヴ様が、すぐにこちらを振り返る。


「……なぜ来た」


 低い声。

 そこにあるのは怒りや責める色ではなく、私を案じる、過保護な色のほうがずっと強かった。


「部屋から出るなと言ったはずだ。お前の目に、あんな薄汚い連中を映したくない」

「無理です」


 私は即答した。


「こんなの見て、私の推し……じゃなくて旦那様がコケにされているのを見て、部屋でじっとしていられるほど、私、できた人間じゃありません」


 クライヴ様の形の良い眉が、わずかに寄る。

 けれど、彼がそれ以上私を嗜める前に、下から魔力で増幅された、よく通る男の声が響き渡った。


「クライヴ・エヴァンズ辺境伯!!」


 アラン王子だ。


 拡声の魔法を使っているのだろう、その声は城門の広場いっぱいに、芝居がかったトーンで響いた。


「邪竜の呪いに囚われ、人としての理性を失い、領地を不当に支配し、あまつさえ罪なきか弱き令嬢を城へ監禁する、呪われた化け物よ!

 我々は王家の名において、正義の鉄槌を下しに来た! 大人しく城門を開き、その哀れな娘を解放しろ!」


 ――ぶちっ。


 私の中で、何かの太い血管が切れる音がした。


 は?

 今、あの金髪、なんて言った?


 化け物?

 令嬢を監禁?

 解放しろ?


 しかも、それを、この十年間、誰よりも血を流してこの国を守ってきたクライヴ様に向かって?


 私は一瞬、自分の耳を疑った。

 でも次の瞬間には、私のオタクとしての怒りゲージが、一気に臨界点を突破していた。


「っ、はぁああぁ!?」


 特大の、ドスの効いたヤンキーのような声が出た。


 隣でクライヴ様が「ビクッ」と肩を揺らして驚愕の目で私を見る。


「リアナ……? お前、今すごい声が……」

「いやいやいやいや、何言ってるんですかあの金髪のバカ王子は!?」


 思わず、不敬罪ギリギリ(というかアウト)の暴言を素で叫んでしまった。

 アラン王子は、上のバルコニーにいる私の姿を認めたらしく、さらに芝居がかった同情の声を張り上げる。


「恐れることはない、リアナ嬢! 君のご両親も迎えに来ている! もう大丈夫だ、我々が、その恐ろしい化け物の手から、君を必ず救い出す!」


 その“酔いしれた言葉”に、私は完全にブチギレた。


 救い出す?

 誰を?

 どこから?

 何様のつもりで?


 クライヴ様が「やめろ、私が対処する」と何か言おうとしたのがわかった。

 たぶん私を安全な場所へ隠そうとしたのだろう。


 でも、もう遅い。

 私の中の狂犬(限界オタク)が、完全に鎖を引きちぎっていた。


 私はドレスのスカートの裾を両手でガバッと掴み上げると、そのまま踵を返した。


「リアナ!」


 鋭く、焦ったようなクライヴ様の声が背中に飛ぶ。


「どこへ行く気だ!」

「城門です!」

「待て!」

「待ちません!」


 私は振り返らず、怒りに任せて叫んだ。


「私の推し(生きる希望)に向かって、なんて口の利き方してるのか! あのバカ王子に、直接物理で教えてきます!」

「……おし? ぶつり?」


 背後でクライヴ様が完全に意味不明な単語に混乱している気配がしたが、今はそれどころではない。


 私は全力で大広間を飛び出した。


 廊下を猛ダッシュで走る。

 石の階段を一段飛ばしで駆け下りる。

 すれ違う兵士や使用人たちが、修羅のような顔をした私を見て、ぎょっとしてモーゼの十戒のように道を空ける。


 頭の中は、怒りで真っ赤に茹で上がっていた。


 ゲームの強制力?

 王子の正義?

 聖女の光?

 知るかそんなもの。全部まとめて私が燃やしてやる。


 クライヴ様は、誰よりもこの最前線の国境を守ってきた。

 毎日毎晩、呪いの激痛に耐えて、誰にも頼れず孤独に耐えて、それでも領地も民も絶対に見捨てなかった。

 その気高く尊い人に向かって、“化け物”だの“令嬢を監禁している”だの。

 安全な王都でぬくぬく育ったくせに、何も知らないくせに、自分の名声のための都合のいい悪役みたいに扱いやがって。


「ふざけないでよ……許さない……絶対に許さない!」


 私は城門へ向かう太い通路を、一直線に全力疾走した。


 頭上ではまだ低い警鐘が鳴っている。エヴァンズ家の屈強な兵たちが、極度の緊張した顔で城壁の配置につく中、私は彼らの横を弾丸のようにすり抜ける。

 途中でグレアムが「リアナ様、お待ちを!」と追ってくる気配もしたが、アドレナリンが致死量分泌されている今の私を止められる人間は、たぶんこの世にいない。


 重く巨大な城門の内側に辿り着いた時には、息がゼェゼェと切れていた。


 防衛を固めていた門番の騎士たちが、私を見てぎょっとして振り向く。


「リ、リアナ様!? なぜここに! 危険です、お下がりください!」

「開けてください!」

「で、ですが! 外には王家の大軍が!」

「いいから開けて!!」


 私が夜叉のような顔で叫ぶと、門番たちは露骨に困り果てた顔になった。そりゃそうだ。外には王子率いる完全武装の騎士団がいるのだ。扉を開ければ、一気に雪崩れ込まれるかもしれない。


 でも、今行かなきゃだめなのだ。


 これはもう、単なる推し活とか、そういう次元の話ではない。

 あの尊い人を、私の大好きな人を侮辱されて、黙って城の奥で震えていられるほど、私はもう“ただのモブ令嬢”じゃない。


「責任は私が全部取ります! だから開けて!」

「……リアナ」


 背後から、低く、鼓膜を震わせるような静かな声が降ってきた。


 振り返ると、そこにクライヴ様がいた。


 転移魔法でも使って追ってきたのだろう。黒い外套をはためかせ、少し息を切らした険しい顔で、私を見下ろしている。


「お前は、本当に……」


 たぶん、怒っている。

 でもそれ以上に、無茶をする私をどう扱えばいいのか、ひどく困り果てている。


 私は一歩、彼に向かって向き直った。


「止めないでください」

「……」

「だって、あの人たち、何も知らないんです」


 喉が、熱い。

 怒りで、悔しさで、彼の受けてきた理不尽が悲しくて、泣きそうだった。


「何も知らないくせに。クライヴ様を勝手に化け物にして、勝手に私を可哀想な被害者にして。自分たちが絶対的に正しいみたいな顔して……」


 言いながら、胸の奥から熱い感情が止めどなく溢れてくる。


「私、嫌です」


 クライヴ様の琥珀色の瞳が、少しだけ、大きく揺れた。


「もう、あの人たちの書いた『身勝手なシナリオ』通りになるのは、絶対に嫌なんです」

「……しなりお?」

「いえ、こっちの専門用語です」


 また余計なオタク用語を言いかけたが、構っていられない。


 私はクライヴ様をまっすぐに見上げて、はっきりと言い切った。


「私が、クライヴ様を守りたいんです」


 ぴたり、と。

 その場の空気が、完全に止まった気がした。


 たぶん門番の騎士たちも、後ろに控えていた兵たちも、全員が信じられない言葉を聞いたというように固まっていたと思う。

 王国の最強の盾である辺境伯に向かって、魔力すらない小娘が「守りたい」と宣言したのだから。


 でも、私はもう止まれない。


「今まで、このお城で、いっぱい守ってもらいました。甘やかしてもらいました。でも、今日は違います。今日は私が、あなたの理不尽のために、あなたの代わりに怒りたいんです」


 しん、と重い沈黙が落ちる。


 クライヴ様は、何も言わない。

 ただ、驚愕に見開かれた目で、私をじっと見つめている。


 その暗い琥珀の目の奥で、何かひどく熱く、どす黒く、けれど甘い感情が、激しく揺れ動いているのがわかった。


 やがて彼は、その大きな手で顔を覆い、ごく低く、震えるような息を吐き出した。


「……お前は、本当に、無茶をする」

「知ってます」

「少し目を離すと、すぐこれだ。私の心臓を止める気か」

「ごめんなさい。でも、今回だけは絶対に譲れません」


 数秒。

 いや、もっと長かったかもしれない。


 そのあと、クライヴ様は覆っていた手を下ろし、門番たちへ鋭い視線を向けた。


「……開けろ」

「旦那様!?」

「開けろと言っている」


 門番が慌てて巨大な閂に手をかける。

 だが、その扉が開く直前。


「ただし」


 クライヴ様は、私の腰を強い力で引き寄せ、その腕の中にすっぽりと抱き込んだ。


「っ!?」


 一瞬で、ぐっと身体が密着する。

 近い。

 いや近いどころじゃない。完全に彼の外套の中に抱え込まれている。


「私も行く」


 耳元で落とされた、低く甘い、けれど絶対の独占欲を孕んだ声に、私は目を瞬かせた。


「と、当然です! 当事者ですから!」

「ああ、当然だ。お前一人で、あの連中の前に行かせると思うな」


 ……あ、これ、私の突撃を止められなかった代わりに、絶対に腕から離す気がないやつだ。


 ギギギギギ……と、重い城門がゆっくりと外側へ開いていく。


 外の眩しい光が差し込む。

 王家の旗。銀の鎧を着た騎士たちのざわめき。馬のいななき。


 城門が完全に開き、私と彼が広場の中央へ姿を現した瞬間。

 向こうの一団が、水を打ったように静まり返り、直後に「ざわっ!」と大きくどよめいた。


 そりゃそうだろう。


 “化け物に囚われた可哀想な生贄令嬢”のはずの私が、泣き崩れて王子に助けを求めるどころか。

 恐ろしい辺境伯に腰を抱かれ、ぴったりと寄り添いながら、むしろ辺境伯を庇うように堂々と前に出てきたのだから。


 アラン王子の顔が、驚愕で強張る。

 ヒロインのアリスが、「えっ?」と目を見開く。

 馬車の窓から顔を出した父と母に至っては、信じられないものを見るように口をぽかんと開けていた。


 私は、クライヴ様の腕に抱かれたまま、一歩前へ出た。

 正確には前へ出ようとしたが、クライヴ様の逞しい腕が私の腰に回ったままで絶対に離してくれないため、半歩しか出られなかった。


 ……まあいい。


 私はそのまま、白馬に乗ったアラン王子を、親の仇のように鋭く睨みつけた。


「さっきから聞いていれば……誰が化け物ですって?」


 私の声は、自分でも驚くほど、静寂の広場によく通った。


 騎士たちが息を呑む。


 アラン王子が一瞬たじろぎ、それからすぐに「事情を察した」というように、哀れむように眉をひそめた。


「リアナ嬢、無理をして強がらなくていい。心配しなくていいのだ。君は今、その男に命を脅されているのだろう」

「は?」

「あるいは、邪竜の呪いの力で、おかしなことを洗脳され、吹き込まれているに違いない。安心しろ、私がその男を討ち果たし――」

「安心できる要素がひとつもないんですけど!?」


 思わず、腹の底から叫んだ。


 王子の甘い顔が「えっ?」と引きつる。

 でも知るか。


「脅されてる? 吹き込まれてる? 洗脳? 何を勝手に、自分たちに都合のいいように決めつけてるんですか!」


 私はびしっと、王族であるアラン王子を指差した。


「私、自分の確固たる意思でここにいます! 誰かに『助けて』なんて泣きついた覚えも、手紙を出した覚えも一切ありません! むしろ、静かに暮らしているところに大軍で押し入ってくる、あんたたちが来るほうがよっぽど大迷惑です!!」


 ざわっ、と騎士たちが大きくどよめく。


 アラン王子は、完全に信じられないものを見る顔になった。


「な……君は、自分が何を言っているのかわかっているのか!? 相手は呪われた――」

「だいたい、“救う”って何ですか! クライヴ様が何年、どれだけの血を流してこの極寒の国境を守ってきたと思ってるんですか! その恩恵を一番受けて安全に暮らしているくせに、感謝のひとつもせず、勝手に化け物扱いして討伐対象にして!

 挙句の果てに、令嬢ひとりを大義名分に軍まで引っ張ってくるとか……王族として、恥ずかしくないんですか!?」


 ああ、もう止まらない。

 言いたいことが、溜まっていたオタクの鬱憤が多すぎる。


「それに、そこの私の実家!」


 勢いのまま、馬車の窓から顔を出している父と母のほうを振り向く。


「今さら“娘を助けて”なんて、よくそんな白々しい嘘が言えましたね!? 私を『男爵家の役立たずのゴミ』って言って、嬉々として生贄に厄介払いしたの、どこの誰でしたっけ!?」


 父の顔が、屈辱と焦りで真っ赤に茹で上がる。


「り、リアナ! 貴様、王子殿下の御前でなんという無礼な――」

「無礼はそっちでしょうが!」


 私は一歩も引かなかった。


「都合のいい時だけ、心配してる親のヅラしないでください! 私、実家にいた時の一万倍、ここでちゃんと旦那様に大事にされてますから!」


 その瞬間。

 自分で激昂して言っておいて、はっとした。


 ――ちゃんと、大事にされている。


 そうだ。

 私はいま、間違いなく、この不器用で優しい人に、これ以上ないほど大事にされている。


 私の腰に回されたクライヴ様の腕の熱と力強さが、その揺るぎない事実を、これ以上なく鮮明に私に教えてくれている。


 アリスが、小さく息を呑む音がした。


 彼女は、私とクライヴ様を交互に見ている。たぶんひどく混乱しているのだろう。

 彼女が聞かされていた『原作シナリオ』と、目の前の現実が違いすぎるのだ。呪われたラスボスは弱っておらず、令嬢は怯えてもいない。むしろ、全面的に辺境伯を庇い、王族に牙を剥いている。


 そして、面子を潰されたアラン王子の顔には、明確な苛立ちと怒りが浮かび始めていた。


「リアナ嬢……君は完全に騙されている。呪いの瘴気で正気を失っているのだな」

「騙されてません! 私は正気です!」

「呪い持ちの化け物のそばにいて、か弱き令嬢が正気でいられるはずが――」


 その瞬間。

 私の腰を抱くクライヴ様の腕に、ギリッ、と強い力がこもった。


 広場の空気が、一変した。


 ぴしり、と。

 冬の湖の分厚い氷に亀裂が入るような、圧倒的で、冷酷な魔力の圧力。


 私は息を呑んだ。


 クライヴ様が、私を庇うようにして半歩前へ出る。

 黒い外套が大きく翻り、薄くなっていたはずの瘴気が、彼の静かな怒りに呼応するように、足元でチロチロと黒い炎のように揺らいだ。


 暗い琥珀の瞳が、馬上から見下ろす王子を、絶対的な強者の冷たさで射抜いた。


「……言いたい妄言は、それだけか」


 ひどく低い、地獄の底から響くような声だった。


 決して大きな声ではない。

 でも、その場の数百人の騎士全員が、恐怖で完全に凍りつくには十分すぎる威圧感だった。


「私を化け物と呼び、何を言おうと構わん」


 クライヴ様は、虫ケラを見るような目でアラン王子を見据え、淡々と告げる。


「だが。私の前で、私の大切な妻を、愚か者と侮辱するな」


 広場が、しん、と完全に静まり返る。


 騎士たちが恐怖に息を呑む。

 アラン王子の顔が、屈辱と恐怖で引きつる。

 アリスの目が、信じられないものを見るようにまた大きく見開かれる。


 私は、すぐ隣の、私を見下ろすクライヴ様の横顔を見上げた。


 ああ、この人。

 本当に、どこまでいっても。


 かっこよすぎる。

 尊すぎる。


 怒りで頭に血が上っていたはずなのに、胸の奥が別の意味で限界突破して、もういっぱいになってしまう。


 でも、ここで「顔が良い!」と見惚れている場合じゃない。

 まだ終わっていない。


 王子の側近らしき騎士が、王子の顔色を窺い、剣の柄に手をかけて前へ出ようとした。

 その好戦的な気配を感じながら、私はクライヴ様の背中に隠れることなく、ぎゅっと拳を握りしめて前を見据えた。


 来るなら来い。


 もう私は、黙ってクソみたいなバッドエンドのシナリオに従う気なんて、1ミリもない。


 ――ラスボス討伐イベント?

 上等だ。


 私の推しに、私の大切な人に、何をふざけた真似をする気なのか。

 限界オタクの逆鱗に触れた報いを、たっぷりと思い知らせてやる。

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