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第1話 生贄の花嫁、大歓喜で辺境へ向かう

 鏡の中の少女は、どこからどう見ても平凡だった。


 淡い蜂蜜色の髪。少し大きめの榛色の瞳。顔のパーツ一つ一つは決して悪くないが、華やかな貴族社会においては「可もなく不可もなく」といったところ。夜会の壁際で同年代の令嬢たちとひっそりお茶を飲んでいれば、完全に背景と同化できる自信がある。


 私は鏡に額がつくほど身を乗り出し、その顔をまじまじと見つめた。


「……うそでしょ」


 夢じゃない。何度見ても変わらない。頬をつねっても痛いだけだし、後ろで侍女のメアリが「お嬢様、どうかなさいましたか」と心配そうに覗き込んでくるが、現実はまるで揺るがない。


 数日前、高熱を出して寝込んでいた私は、突然「前世の記憶」というものを思い出した。

 ごく普通の日本の会社員として生き、そして事故であっけなく死んだ記憶。それと同時に、今の自分がいるこの世界が、前世で私が寝食を忘れてやり込んでいた乙女ゲーム『聖乙女と七つの誓約』――通称『聖なな』の世界であることに気づいてしまったのだ。


 つまり私は――


「私、名前もないモブじゃん!!」


 渾身の絶叫は、男爵家のこぢんまりした自室に虚しく響き渡った。


 私の今の名前は、リアナ・バーレット。十八歳。

 ゲームの中に「リアナ」なんて名前のキャラクターは出てこない。ヒロイン(聖乙女)でもなければ、彼女をいじめる悪役令嬢でもない。攻略対象のキラキラした王子様や騎士団長たちとすれ違うことすらなく、たぶん背景の端っこで「きゃっ、殿下よ」とか言っていただけの、取るに足らない存在だ。

 物語に爪痕を残すことなく、気づけばフェードアウトしているタイプのモブ令嬢である。


 ……普通なら、ここで落ち込むだろう。

 せっかく乙女ゲーム世界に転生したのに、きらびやかな王宮での恋もなく、波乱万丈のイベントに巻き込まれることもなく、ただ静かに田舎でモブとして生きていくなんて。


 でも、私は違った。

 なぜなら、この『聖なな』における私の最推しは、メインの攻略対象たちではなかったからだ。


「俺様キラキラのアラン王子でもなく、過保護なルシアン騎士団長でもなく、腹黒な神官長でもなく……」


 私は胸の前でぎゅっと両手を組んだ。


「私の最推しは、クライヴ・エヴァンズ辺境伯様、ただ一人!!」


 口に出した瞬間、全身がぞくぞくして歓喜の鳥肌が立った。


 クライヴ・エヴァンズ。

 ゲームの終盤、主人公たちの前に立ちはだかる悲劇のラスボス。

 北の辺境で国境を護る最強の盾でありながら、過去の戦いで邪竜の呪いを受け、全身から黒い瘴気を放つようになってしまった男。その禍々しい力と容姿のせいで、国境を護っている張本人であるにもかかわらず、王都の人間たちからは「呪われた化け物」と忌み嫌われている。

 年齢は三十歳。攻略対象の若造たちには出せない、酸いも甘いも噛み分けた大人の色気。眉間に刻まれた苦悩のシワ。すべてを諦めたような冷たく苛烈な双眸。


 なのに、誰にも理解されないまま、最後は「正義の味方」である主人公たちに討伐されて死んでしまうのだ。


 私は前世で、彼の救済ルートが存在しないことを何度嘆いたかわからない。


 なんで!? なんであんなに設定が盛られているのに、最後は「討伐完了! 平和になりました!」で終わるの!?

 彼がどれだけ国のために血を流してきたと思ってるの!?

 ヒロインの浄化魔法、なんで彼に使ってあげないの!? 制作陣、ちょっとそこに正座して一時間くらい小一時間問い詰めさせてください!!


 あまりに報われなさすぎるその運命に、私は夜な夜な涙し、少ない公式供給を啜り、二次創作を漁りまくり、設定資料集を穴が開くほど読み込み、脳内で百回は彼とのハッピーエンドを妄想した。


 そんな、愛してやまない最推しのいる世界に、今、私はいる。

 しかも時系列から計算すると、ゲーム本編が始まる少し前。クライヴ様がまだ討たれていない世界線だ。


「バッドエンド回避、できる……!」


 その可能性に思い至った瞬間、心臓が早鐘を打った。

 推しが死ぬ未来を知っている私なら、何かできるかもしれない。いや、やる。絶対にやる。攻略対象に興味のないモブだからこそ、しがらみなく動けるはずだ。


 そう決意したその日の午後、運命は驚くほどあっさりと、そして劇的に動いた。


 書斎に呼び出された私は、上座に座る父と、いかにも苦々しげな顔をした母を前に、背筋を正していた。

 バーレット男爵家において、私の扱いは決して良いものではない。数年前に待望の長男(私の弟)が生まれてからというもの、両親の愛情と関心はすべてそちらに向かい、私はすっかり「いてもいなくてもいい娘」になっていた。

 持参金を積む余裕もない、政略結婚に使えるほど顔も頭も良くない――両親にとって私は、ただ飯を食うだけの厄介者でしかなかった。


 だから二人の顔を見た時点で、「修道院に入れ」か「年の離れた金持ちの後妻に行け」のどちらかだろうと嫌な予感はしていた。

 けれど、父の口から出た言葉は、私の想像を軽やかに、そして斜め上に飛び越えていった。


「リアナ。お前の婚姻が決まった」

「はい」

「相手は、北の辺境を治めるクライヴ・エヴァンズ辺境伯だ」


 思考が、ぴたりと止まった。


 次の瞬間。


「…………は?」


 あまりに予想外すぎて、間抜けな声が漏れた。

 母が露骨に顔をしかめ、扇子で口元を隠す。


「聞こえなかったの? あの呪われた辺境伯よ。王都では誰も近づきたがらない、恐ろしい化け物。あそこに嫁いだ(おしつけられた)娘は皆、瘴気にあてられて逃げ帰るか、正気を失うかで、まともに残った者は一人もいないそうよ」


「つまりだ」


 父は恩着せがましく顎をしゃくった。


「我が男爵家から、辺境伯への生贄を出す必要があるということだ。王家からの要請でな、下位貴族の娘が持ち回りで送られている。お前はこれまで何の役にも立たん娘だったが、最後に家のために働けるのだ。光栄に思え」


 ――生贄。

 その単語を聞いた瞬間、前世のゲーム知識がばちりと噛み合った。


 そうだ、ゲーム本編の背景設定にあった。

 クライヴのもとには、中央貴族たちが厄介払いした娘たちが「花嫁候補」という名目で定期的に送られてくる。だが、誰もが彼の呪いを恐れ、彼を人間扱いせず、すぐに悲鳴を上げて逃げ出してしまう。そのたびに彼は「やはり私は化け物だ」と絶望し、ますます心を閉ざしていくのだ。


 そして今、その「逃げ出すモブ令嬢A」の役が、私に回ってきた。


 …………えっ。

 えっ、待って。

 それってつまり。


 私、クライヴ様のお城に、合法的に行けるってこと!?


 脳内で、盛大なファンファーレと共に無数の花火が打ち上がった。


 最前列。いや、最前線。生で会える。生ボイスが聞ける。同じ屋根の下で同じ空気を吸える。推しの生活圏に侵入できる。しかも「花嫁候補」という名目つき。

 何その神イベント。ファンクラブの最上位特典つきSS席どころか、関係者用のバックステージパスではないか!


 鼻の奥がつんとして、危うく本当に鼻血が出そうになった。

 私は慌てて両手で顔を覆い、深く俯く。いけない。ここで歓喜の表情を露わにしたら、絶対に気味悪がられて縁談を取り消されるかもしれない。


 私の不自然な震え(※武者震いである)を見た父は、それを恐怖からの嗚咽だと受け取ったらしく、満足げに鼻を鳴らした。


「わかったならすぐに準備しろ。三日後には王都を発つ。言っておくが拒否権はない」

「……はいっ」

「せいぜい向こうで粗相のないようにしなさい。どうせ、長くはもたないでしょうけどね」


 母の冷たい言葉すら、今日の私には教会の祝福の鐘に聞こえる。


 長くはもたない?

 何をおっしゃるお母様。私はもつ。むしろ深く根を張る。なんなら辺境の地に骨を埋めて永住する所存です。


 そのまま退室の許可を得て部屋を出た瞬間、私は廊下の端まで早競歩で移動した。誰もいない角を曲がったのを確認してから、両拳を強く握りしめる。


「っしゃあああああああっっ!!」


 声を殺したガッツポーズが、炸裂した。

 行ける。推しのもとへ、行ける。

 クライヴ様の孤独を癒やし、あの理不尽なバッドエンドを回避するチャンスが、向こうから私の前に転がり込んできたのだ。


「ありがとうお父様お母様! 厄介払い上等! 喜んで生贄に行きますとも!」


 思わずその場でくるりとステップを踏む。通りかかったメイドがぎょっとした顔で壁に張り付いていたが、今の私にはどうでもよかった。


 自室へ戻るなり、私は狂ったような勢いで荷造りを始めた。

 ずっと私に仕えてくれていた侍女のメアリが、涙ぐみながら旅行用のトランクを広げてくれる。


「お嬢様……あんまりです。あんな恐ろしい化け物のところへ送られるなんて……。お着替えや、せめて気休めになるような美しい装飾品を……」


 メアリがシルクのドレスを入れようとするのを、私は「待った!」と手で制し、真剣な顔で自分の集めた物資をトランクに詰め込み始めた。


「シルクのドレスなんて辺境じゃ邪魔になるだけよ。それより布! 最高級じゃなくていいから、吸水性と耐久性重視の綿布をありったけ! 次に磨き用の柔らかい刷毛。細かい隙間の埃を取る用の小箒。糸と針、大量の刺繍枠! あと紙とインク、日々の観察記録……じゃなかった、日記帳!」

「お、お嬢様……?」

「あと重曹とお酢! 焦げ落としに便利だから。双眼鏡も必要ね。いや、既製品は高いから望遠鏡のレンズを組み合わせて自作するか……」

「お嬢様!?」


 メアリの声がだんだん悲鳴に近くなっていく。

 私は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。


「辺境のお城って、きっと人手不足でしょう? 使用人が逃げ出してるって噂だし。お掃除道具は必須よ」

「は、はあ……」


 実際その通りだ。ゲーム内の背景CGでも、辺境伯の城は薄暗く荒れ果てていた。使用人は呪いを恐れて逃げ出し、主人であるクライヴ様自身は、自暴自棄になって生活環境など気にする余裕もないはずだ。


 つまり。私が徹底的にお掃除をして働けば、推しの生活環境が改善する。

 推しが少しでも快適に、健康的に過ごせるなら、それはもう実質、推しへの最高のお布施(推し活)である。しかも、城内を掃除しながら推しの残り香や気配を感じられる可能性がある。何その天国。


 私は次々とトランクに実用品を詰め込んだ。上品なレースより、雑巾にしやすい端切れ。宝石箱より、巨大な裁縫箱。香水より、消臭と虫除け用の乾燥ハーブ。

 貴族令嬢の花嫁道具としては致命的に間違っている自覚はあるが、知ったことではない。


「お嬢様……可哀想に、ショックのあまり頭が……。普通はもっと、ご実家の思い出の品などを……」

「あるわよ、大事なもの」


 私は自信満々に言って、鍵のかかった小さな木箱を取り出した。

 中に入っているのは、前世の記憶が戻ってから、私が夜なべしてこっそり作り溜めていたものだ。

 ゲーム内スチルを思い出して完璧な比率で描いたクライヴ様の横顔スケッチ。彼の名前イニシャルをひっそりと刺繍したハンカチ。辺境伯家の紋章である「銀狼」を徹夜で縫い付けたタペストリー。


 どれも私にとっては、血と汗と涙の結晶である立派な『推しグッズ(非公式)』だ。


「これさえあれば、私はどこでだって生きていけるの」

「……」


 うっとりと木箱を抱きしめる私を見て、メアリはついに言葉を失い、そっと胸の前で十字を切った。


 三日の準備期間は、驚くほどあっという間に過ぎた。


 出発の朝。玄関前には、男爵家の紋章すら入っていない簡素で地味な馬車が用意されていた。娘を上位貴族へ嫁がせる(体裁上は)というのに、見送りに出てきた父も母も、まるで罪人を追放するような顔をしている。


「向こうで家名に泥を塗るなよ。早々に逃げ帰ってきても、この家の門は開かんからな」

「くれぐれも辺境伯様の前で癇癪なんて起こさないでちょうだい。こちらに火の粉が飛んだら困るのよ」


 最後までその調子か、と呆れたけれど、むしろ好都合だった。これなら心置きなく、実家を切り捨てて辺境で生きていける。


 私は分厚い綿の旅行着のスカートを少しだけ摘まみ、完璧なカーテシー(淑女の礼)をしてみせた。


「はい。今までお世話になりました。行ってまいります」


 声が弾みすぎて語尾に音符がついてしまったせいで、母が気味悪そうに眉をひそめる。

 けれど私はもう、彼らの反応など一切気にしない。だって今から向かう先は、私にとってこの世界でいちばん尊くて、愛しい場所なのだから。


 馬車に乗り込み、重い扉が閉まる。

 車輪がガタガタと回り始めた瞬間、私は窓越しに遠ざかる実家の屋敷を見ながら、そっと自分の胸に手を当てた。


 どくどくと高鳴る鼓動は、決して恐怖なんかじゃない。

 純粋な、期待と興奮だ。


 これから会うのだ。

 画面の中で何度も見て、何度も涙を流し、けれど決して救うことができなかった、あの人に。


「待っていてくださいね、クライヴ様」


 馬車の揺れ音に紛れるほどの小さな声で、私は誰にともなく呟いた。


「あなたのその理不尽なバッドエンド……私(限界オタク)が、絶対にぶっ壊して差し上げますから」


 馬車は王都を離れ、北へ、北へと進んでいく。

 数日間の過酷な旅路。窓の外の景色が、のどかな田園風景から荒涼とした岩肌へ、そして黒く淀んだ森へと変わっていく。

 人々が「死の土地」と忌み嫌う辺境の禍々しい風景でさえ、今の私にはテーマパークのアトラクションが見えてきた時のワクワク感にしか思えない。


 ここから始まるのだ。

 名もなきモブ令嬢リアナの、前代未聞の最前線・推し活ライフが。

 そして――孤独な辺境伯を誰よりも幸せにする、甘々で過保護な救済ルートが。


 私は膝の上の重たいトランクをぎゅっと抱きしめ、だらしないほどに頬を緩ませた。

 その中には、花嫁道具には程遠い大量の掃除道具と布と刺繍糸、そして推しへの重すぎる愛が、パンパンに詰まっている。


 さあ、行こう。

 最推しの待つ、世界でいちばん幸せな地獄へ!

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