午前零時のホットケーキ理論
「ねえ、ホットケーキ焼かない?」
時刻は午後十一時半。世界が寝静まるこのタイミングで、君は悪魔のような提案を口にした。
「却下だ。今の時刻を考えてくれ。これから寝るだけなのに、糖質と脂質の塊を胃袋に投下するなんて正気じゃない。」
僕は文庫本から目を離さずに反論した。しかし君は、聞く耳を持たずに冷蔵庫から卵パックを取り出している。
「でもさ、あの甘い匂いに包まれて眠れたら、すっごく幸せな夢が見られると思わない?」
「胃もたれで悪夢を見る確率の方が高いと思うけど」
ため息をつき、僕はソファから腰を上げた。君に任せると、殻入りのジャリジャリした物体が生成されかねない。
キッチンに並ぶと、君はボウルの中身を親の仇のように混ぜ合わせようとした。僕は慌ててその手首を掴む。
「ストップ! 混ぜすぎだ」
「えっ、たくさん混ぜたほうが美味しくなるんじゃないの?」
「誤解だ。過剰なグルテンは『もちもち』を通り越して『ゴム』のような食感を生む。粉を入れたら、さっくりと切るように混ぜるのが鉄則だ」
「グルテン……? なんか強そうな敵の名前だね」
「RPGの話はしていない」
僕はボウルを奪い取り、手早く生地を整えた。フライパンを火にかけ、濡れ布巾で一度温度を下げる。
「いけっ、バター投下!」
「待て。メイラード反応を甘く見るな。適切な温度で糖とアミノ酸が結合し、香ばしい焼き色と旨味が生まれるんだ。焦げとは違う、科学的な『美味しさ』の極致だ」
「メイラード……それは魔王の弟?」
「だから違うって」
ぷつ、ぷつ。生地の表面に気泡が空き始めた。
「今だ」
手首のスナップを効かせ、一気に裏返す。
着地成功。完璧なキツネ色。
ジュウ、という音と共に、暴力的なまでに芳醇な香りが深夜のキッチンに広がった。
「うわぁ……!」
君が瞳を輝かせる。僕も思わず喉を鳴らした。この香りだけは、どんな理屈も勝てない。
焼き上がった円盤に、バターとシロップをたっぷりと乗せる。
一口食べた瞬間、脳内で幸せ物質がスパークした。
「……悔しいけど、美味い」
「でしょ? 美味しいものもカロリーが熱に弱いから、焼いた時点でゼロになってるんだよ」
「そんな都合のいい科学、どこの論文にもないよ」
あきれながらも、僕は二口目を運んだ。
たまには、こんな計算外の夜があってもいい。




