第98話 望んでいたもの
早朝、境内でいつものようにトレーニングをしていた翔は、鳥居の方に目をやった。
「人が……来た」
そう思った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
小さな女の子を連れた母親は賽銭を入れて一礼をした。
女の子はドングリを拾うと、翔の方に駆けてきた。
「はい。あげる」
手渡されたドングリ。
「あ……おう」
翔はドングリをポケットに入れるふりをして、そっと地面に置いた。
親子が去ると、再び静けさを取り戻した境内に、涼しい春の風が吹いた。
社殿に目をやると、賽銭箱に手を伸ばすククノチと目が合った。
「フン」
翔と目が合ったククノチは、鳥居をくぐり、パタパタと階段を降りて行った。
翔は笑った。
「はは。あいつ、またコンビニに行くのか」
ククノチが去ると、境内の空気が変わった。
翔は汗を拭い、社殿に一礼すると、階段の手摺りに手をかけた。
下には、何やら大人たちが集まっていた。
スーツ姿、作業着を着た男たち。
草刈り機の音に紛れて、何かが軋むような音がした。
周囲に人の気配が増えた境内。
「ふう。なんか……落ち着かねえな……」
翔は大人たちを横目に、境内を離れた。
「じゃあ、利蔵ちゃん、よろしく頼むよ!」
翔が家に帰ると、数人の大人たちが家から出て行った。
「ただいま」
「おう、翔!」
動物たちが増えた店内で、帳面を開き、忙しそうな利蔵。
「お父、さっきのは?」
「ああ、町内会の役員さんたちだ。今年は夏祭り再開に向けて動いてくれるらしい。去年、お前たちが神社を守ってくれたおかげだな!」
翔は視線を落とした。
「そっか」
望んでいた夏祭り。
なのに翔は、その胸に、自分の居場所がずれていくような不安を覚えた。
音葉のいなくなった黄泉口神社。
観光客が増えると神の気配が消え、いなくなると神気が流れ込む。
祝詞をあげる道心は、違和感を感じていた。
祝詞をあげても、周りの空気が変わらない。
神の気配が、日々薄まっていくような違和感。
「音葉がいない……からか?」
道心も、その違和感を掴めないでいた。
新学期、校門へ向かう蘭の前に、手を振る人影があった。
「お姉ちゃーん!」
蘭は目を丸くした。
「アンタ……確か」
「玲那! わーい、お姉ちゃんと一緒の学校だったんだー!」
蘭は一瞬、渋い顔をした。
「なんで……アンタがここに?」
「えへ〜。私、呉服屋の娘だから、デザインとかいいかなって! もうどうでもいいんだけどね!」
「入学早々、どうでもいいって……」
「お姉ちゃんも、翔さん以外のことはどうでもいいでしょ? 私も一緒みたいな感じ!」
蘭は苦笑いした。
「アンタってサニワなの?」
玲那は、笑った。
「ママにも聞かれた!でも、なーんも見えない!でも面白いから、お姉ちゃん達と絡みたい!」
「あそ。ま、勝手にどうぞ」
蘭は、理由の分からない違和感を覚えた。
「変な子……」
呉服屋の玲那。
特段、不快でもない。
けれど、玲那を通して見える世界は、言葉にならないズレのようなものを感じた。




