第95話 母なる
酒呑童子の残滓が、音もなく霧散した。
それと同時に、黄泉が沈黙した。
音が引き、闇が重くなる。
空間そのものが、息を潜める。
翔は、拳を握ったまま立っていた。
逃げ場はない。進む場所も、もう分からない。
闇。ただそれだけがある。
その闇の奥で、影が立ち上がる。
人の形。
女の輪郭。
はだけた漆黒の装束。
濡れた土の匂い。
生と死の境目が、そこだけ曖昧だった。
「……久しいな。ここで生者を見るとは」
声は、耳ではなく胸に落ちた。
翔の背筋が、ぞわりと粟立つ。
──伊邪那美。
「貴様はここで何をしておる?」
翔は、唾を飲み込んだ。
「……父親を、連れ戻しに来た」
その言葉に、黄泉が軋んだ。
「連れ戻す……?」
伊邪那美が、低く笑った。
「生者が、黄泉に向かってよく吐く言葉だ」
影が蠢く。無数の死の気配が、翔に向く。
「百鬼夜行で、連れて行かれた。生きたまま、ここに」
翔は、視線を逸らさない。
「だから……取り返しに来た」
次の瞬間、重い闇が翔を圧迫した。
身体。
否。
存在そのものを。
「──小童」
伊邪那美の声が、冷えた。
「もう一度問う……」
一歩、伊邪那美が踏み出す。
「貴様、ここへ何しに来た?」
黄泉が、翔を拒絶する。
肺が圧迫され呼吸が出来ない。
「ガハァッ!」
翔は、血を吐いて膝をついた。
──違う。
頭の奥で、何かが軋んだ。
(……連れ戻す、じゃない)
ここは、ここからは──
何かを奪える場所じゃない。
「お父は……捕まってるわけじゃねえ。黄泉に“在る”だけ......」
それを、無理やり引き剥がせば──
また、歪む。
──そうか......
翔は、歯を食いしばった。
「……取り返すんじゃねえ……」
掠れた声が、闇に落ちる。
「正しに来た......」
歯を食いしばった瞬間、
伊邪那美の感情が、爆ぜた。
「黙れぇぇぇ!!」
原初の神。
世界創生の恨みの咆哮。
黄泉が吼え、地が裂け、空が裏返る。
「私は!!」
「創り!!」
「産み!!」
「そして殺された!!その私を前にして!!」
怒りが、形を失って噴き上がる。
「──何を正すだとぉ!!サニワァァァ!!」
黒い奔流が、翔を呑み込もうとする。
──その時。
翔の体から、淡い緑の光が滲み出した。
炎のように噴き上がるわけでもない。
爆ぜるわけでもない。
ただ、呼吸するように広がる。
「……何だ」
伊邪那美の声に、
明確な嫌悪が混じった。
緑の光が、翔の輪郭を縁取る。
血に濡れた衣の上から、
蔓のような文様が浮かび上がる。
翔自身は、驚いていた。
力を使った覚えはない。
祈ってもいない。
それでも──止まらない。
伊邪那美の足元、
黒一色だった黄泉の地に、色が差した。
幻だ。
草、木々、水、山──
獣の影が現れる。
狼。鹿。鳥。
牙も、爪も、敵意もない。
──生命が
ただ、そこに“在る”。
「……やめろ」
伊邪那美の声が、低く唸る。
翔の周囲、闇だけで構成されていた黄泉が、
ゆっくりと“書き換わる”。
腐敗しかなかった空間に、循環が生まれる。
伊邪那美の恨みの気が、
激しく噴き上がった。
「──貴様ァァァ!!」
黒い奔流が、翔に叩きつけられる。
翔の体が、宙に浮く。骨が軋み、血を吐く。
それでも、緑の光は消えない。
むしろ、黄泉の闇に触れるたび、
強く、深く、染み込んでいく。
伊邪那美は、初めて“恐怖に近いもの”を覚えた。
これは戦いではない。
これは──
「貴様……黄泉を……壊しに来たか……」
吐き捨てるような声。
翔は、息を荒げながら答えた。
草木の幻が、一斉に揺れた。
獣たちが、伊邪那美を見た。
裁こうともしない。
祈ろうともしない。
ただ、
“ここは居場所じゃない”
と告げる目。
伊邪那美の怒りが、
自分の国を削り始める。
「……ッ……!!」
伊邪那美は、力を引いた。
折れたのではない。
赦したのでもない。
続ければ、
黄泉そのものが
別の世界に変わってしまう
と悟ったからだ。
「……ワイルドブラッド……」
憎悪に満ちた声。
「お前は……生者ではない」
緑の光が、ゆっくりと翔の体を包む。
「……自然そのものだ……」
黄泉が、
悲鳴を上げながら、
元の闇へと戻ろうとする。
伊邪那美は、
最後まで翔を睨んでいた。
──この童、
拳も振るわず、
祈りも捧げず、
──世界を塗り替えに来た。
伊邪那美は、翔を憐れむかのように、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
そして、静かに告げた。
「自然がお前を選んでも、世界はお前を選んだわけではない」
伊邪那美は、そう言うと闇にすうっと姿を消した。




