第94話 全部無駄だった
裂け目は、音もなく、光も残さず、消えた。
「……翔くん?」
蘭の声は、震えたまま宙に溶けた。
返事はない。
裂け目の跡に手を伸ばした指先が、空を掴む。
「翔くん……翔くん……!」
呼んでも、叫んでも。黄泉は何も返さない。
鉄喜は、歯を食いしばったまま、動けずにいた。
拳は震えている。
「まだだ……奴らが……」
蘭は鉄喜を、キッと睨んだ。
その時だった。
雷鳴が、再び落ちる。
八雷神が、動いた。
方陣が崩れ、殺意がこちらへ向く。
“目的”を失った雷神たちは、次の標的を定めた。
「……来るぞ!!」
鉄喜が叫び、金色のオーラを展開する。だが、その輝きは、先ほどよりも弱い。
限界が近い。雷が、落ちる。
受け止めきれない。
金色が軋み、砕ける寸前──
「──困ったもんじゃ」
低く、老いた声が響いた。
八雷神の動きが、一斉に止まる。
雪を踏みしめ、一人の老人が前に出た。
「とんでもないもん呼び出してしまいおって」
長い髭に、穏やかな目。
「おじいちゃん!」
だが、その背後に立つ、圧倒的な“気配”──
「建御雷神様──」
名を呼ばれた瞬間、雷が従った。
空に立つ雷神の一柱が、ゆっくりと姿を現す。
「八雷よ、去られい。やるまでもなかろう」
狼狽える八人の雷神。
「八雷神! 去られい!!」
背後のタケミカヅチの光が、黄泉口山脈を照らす。
光明の一喝。
いや、建御雷神の一喝で、散り散りに夜空へ消えていった。
「ふう……」
よろけて膝をついた光明。
「歳じゃのう……」
光明は、珍しく震える自分の手を見つめた。
すすり泣く蘭。
「翔くん……」
蘭の肩を、光明が優しく抱いた。
「蘭や。ようやった。あとは運命に任せるのじゃ」
後から駆け上ってきた道心が、倒れた音葉を抱えた。
「音葉……もう限界だ」
音葉は、唸りを上げ、再び気を失った。
鉄喜が口を開いた。
「音葉さん、大丈夫ですか?」
道心は、静かに呟いた。
「音葉の命が削られとる。削られた命は、もう元に戻らん……」
鉄喜は息を飲んだ。
「……そんな……」
蘭は、膝をついた鉄喜の前に、何も言わずに立った。
「ん? 蘭……どし──」
言葉を遮るように、容赦ない蘭の蹴り上げが、鉄喜の顔面を捉えた。
「グッ……てめえ、何しや──」
起き上がった鉄喜に、さらに追い討ちの回し蹴り──
それを、光明が止めた。
「やめい、蘭」
やり場のない蘭の気持ちが、爆発した。
「ぐあぁぁぁ!!!」
言葉にならない蘭の叫び声が、黄泉口山脈に響いた。
鉄喜は思わず拳を握ったが、それ以上動けなかった。
蘭の気持ちは、痛いほど分かった。
蘭は声が枯れ、何度も嗚咽した。
気付いたのに。
決断できたのに。
翔のために、自分を犠牲にする覚悟。
──全部、無駄だった。
それでも、どこかで思ってしまった。
翔くんなら、生きているんじゃないかと。
そう思ってしまった自分が、何より惨めだった。
「翔くん。翔くん……翔……くん」
蘭の涙は、無情に雪に溶けていった。




